ニワノトリ

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「ドグマ・マグマ」(@大森靖子『kitixxxxgaia』)の宿題(勝手に)

 

www.youtube.com

 世界が消えてった夜も
"世界が消えた"ということがあった
大森靖子「ドグマ・マグマ」(アルバム『kitixxxxgaia』より)

 

大森靖子さんのニューアルバム、『kitixxxxgaia』(キチガイア)の一曲目、「ドグマ・マグマ」の上記の歌詞を受け、私は、次のようなことを呟きました。

 

"「ドグマ・マグマ」の「世界が消えてった夜も "世界が消えた"ということがあった」のところは、聞き手への宿題ということでよろしいのだろうか。ここ、解釈、ちょー分かれそうだよね? ……ね?? もっと聞き込んだらそうでもない??"

 

そしたら、解釈を教えて下さった方がいたのです!! 

 

 

 

 

感動した!(ありがとうございます) 

 

ということで、宿題とか勝手に言い出したからには私も宿題に答えようと思ったのですが、すでに他の人の答案見ちゃったので(!)。
でも、この回答は全て、このWebを通して全世界に公開されているものなので、公開カンニングしてもいいよね……

 

ということで、以後、他の方の回答も勝手に参考にしつつ、キチガイアの宿題 (feauturing 私(勝手に))「世界が消えてった夜も "世界が消えた"ということがあった」問題を勝手に整理してみたいと思います。

 

 

背景画がかっこ良い!

 

 

この歌詞。

 

世界が消えてった夜も
"世界が消えた"ということがあった

 

面白いのは、前半と後半の「つなげ方」に解釈の違いが出るところだと思います。
問題になるのは、「世界が消えた」ことの内容(「世界が消えたってどういうこと?」)よりも、「世界が消えてった夜」のゆくえ(「世界が消えてった夜」から「 “世界が消えた”ということがあった」までに何があった?))の方です。

 

基本的には、「世界が消えてった夜」の内容については、「私にとっての(世界が)消えてしまうような出来事」と解釈されていることが多いように見えます(それは例えば、「絶望」という言葉で表現されていたりします)。
こうした(私の)世界の喪失を「 どのようにして“世界が消えた”ということがあった」という言い回しに結び付けるのか。そこに解釈の差が出て来る。
具体的には色んなブログやツイッター見に行ってくださいという感じなのですが。

 

例えば、

「「世界が消えた」ということは私が新しい、よりステキな世界を手に入れることができる伏線として存在している」https://twitter.com/kireikitanai/status/843119776834568192

「消えたとしても、「消えた」ということはなくならない。
だとしたら、それは私にとって大きな救いだな、と思った。」
http://eeeee87.hatenablog.jp/entry/2017/03/20/222036

 

どちらも、一言でくくれば、「世界の喪失」の意味づけ、ということになるのかもしれませんが、前者は、「喪失による変化」に、後者は「喪失自体の変化」に重きが置かれているように見えます。「伏線」は「新しい展開」を感じさせるし、「救い」(許し)は「喪失以前/以後」の接続を感じさせる。(が、それも私の解釈なのでオリジナルを自分で読んでみてね!)。

 

もちろん、どちらが正しいとかではないと思います。
「世界が消えてった夜」と「"世界が消えた"ということがあった」をどう結び付けるのかは、その人の想像力次第なのです。

逆に言えば、

世界が消えてった夜も
"世界が消えた"ということがあった

この歌詞には、「世界が消えてった夜」と「 “世界が消えた”ということがあった」の間を繋ぐ、何らかの物語を、それぞれに想起させる力がある。ということではないでしょうか。

 

この歌詞、前半と後半の語り方が巧みだと思うんです。

「世界が消えてった夜」。この夜の時点では、「私」は「世界が消えている」最中にいるじゃないですか。
でも、「“世界が消えた”ということがあった」では、「消える」という出来事は完結していて、完結したのだということを「私」は知っている(あるいは認めている)。

つまり、この歌詞は、「 “世界が消えた”ということがあった」という一文で、
 ①「消えてったという出来事が完結した」のだということ
 ②「私」は「それを完結した」と認め得る立ち位置にいること
  (※苦しみが継続していれば、「終わり」を語ることは出来ない)
の二つを示している。
2行で時間の経過と、私(という語り手)の立ち位置の変化が示されているわけで、つまり、この2行には、物語の「始まり」と「終わり」があり、「語り手」の存在も示されている。2行の中にぎゅっと物語の要素が詰め込まれている、この「凄さ」がこの解釈の多様性を生んでるんだと思います。

 

 

また、この「語り手」の問題で言えばですよ。
このような解釈も教えて頂きました。

 

 

私も最初はこちらの解釈に近い聞き方をしていました(と思います。色々読むうちに記憶が曖昧に……)。
というのも、語り手が前半と後半で変わると思っていたんです。
「世界が消えた」という「私」(あるいは「誰か」)にとって重大な喪失が、他の誰か、あるいは、もっと大きな歴史によって、「 "世界が消えた"ということがありました」という一行に収められてしまう。
そんなイメージをしていました。

具体的には

「何か、ここで世界が消えたらしいよ」
「あ、私もそれニュースで見たー」

という感じです。
誰かにとって重要な、他の何物にも代えがたい喪失も、ニュースでは、あるいは年表の上では、「世界が消えました」という一行に収められてしまう。(※並べてはいますが、厳密にいうと、上記の引用では語り手を変えてはらっしゃらないと思います)。

 

最初に参照した解釈では、世界の喪失を「 “世界が消えた”ということがあった」と自分で再解釈することが、「次」に繋がっていました。
しかし、こちらの場合逆です。世界の喪失という(誰かにとっての)大きな出来事も、日常的に起きている様々なニュースや出来事と横並びにされて、「世界が消えた」という平板な(!)一言に集約されて終わってしまう。
こうした視点においては、「世界の喪失」を体験した誰か(私?)の顔は塗りつぶされ、年表上の一つの出来事として片づけられ、矮小化されてしまいます。
こうした視点で考えた場合、「世界が消えてった夜も "世界が消えた"ということがあった」の後の、「考えろ、感じろ」は、「見落としてんじゃねーよ」「もっと想像しろよ」という、怒りのパーセンテージの大きい解釈で聞こえてきます。

 

 

 

 

繰り返しますが、恐らく、どれが正しいというのはないと思います。

どちらにせよ、

 

世界が消えてった夜も
"世界が消えた"ということがあった

 

という歌詞で見えてくるのは、「消えてった」という喪失にどのように区切りをつけ、区切りの後に、喪失という出来事を「どう語るのか」/「どう語りうるのか」という問題です。
この歌詞では「何を語るか」ではなく、「どう語るか」という「語り方」が問題にされている。
それゆえに、多様な解釈が生まれうるのだと思います。

「何を語るのか」ではなく、「お前がそれをどう語るのか」を俎上に上げる。

それがこの2行の歌詞なのであり、それゆえに、この2行は、まだ語られていない、しかし、(誰かに)語られなければならない何か=それの存在を明示しています。

だからこそ、この2行の間の物語が、ブログで、Twitterで、始まり得るのです。
このことは、「ドグマ・マグマ」は、「誰でもなれますGOD」と歌っていることに関係していると思います。
なぜなら、「世界の始まり」は、神によってしか語られえないからです。

 

 

 

ということで、これをここまで読んで下さったあなたも!ぜひ!『kitixxxxgaia』を聞いて、この勝手な宿題にチャレンジしてみないか!?

という挑戦状でこの記事は終わりたいと思います。

引用させて頂いた方々、ありがとうございました。(問題があればお知らせください)。

 

 

 

 

 

 

なお、最後に。私が「世界が消えてった夜も "世界が消えた"ということがあった」という歌詞を聞いて、思い出した一節。これが「ドグラ・マグラ」にあまりにドンピシャだったので、引用して終わります。

 

「歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立てたいのであろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風の勢いが烈しいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天にとどろくばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、〈この〉強風なのだ」W.ベンヤミンの「歴史の概念について」(野村修訳)