ニワノトリ

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大森靖子「流星ヘブン」@『MUTEKI』に思うこと

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以下は、大森靖子さんの「流星ヘブン」(@アルバム『MUTEKI』)という曲に対する、私の一つの解釈である。

 

『流星ヘブン』には、キリスト教における「神」そしてイエスのイメージを感じる。

 

喉が渇いたけれど 汗よりも涙よりも
からだのある わたしを 魂で射抜いてください

 

かつて、十字架にかけられたイエスは「渇く」と言い、その体からは水と血が溢れ出した。

ならば、『流星ヘブン』とは、 “彼女”が十字架にかけられるその瞬間を歌った曲であるのかもしれない。とすれば、このMVで、私たちは十字架にかけられた「彼女」が射抜かれ、その体から縷縷夢兎の内臓が流れ出す様を目撃している。(そして、墓の中の彼女は “draw(A)drow”によって復活の時を告げ、「アーメンさっさと」と復活を成し遂げることになるのだろう)。

 

『流星ヘブン』の一番で歌われる「私で魂ヌいてください」という叫びは、「私」があなたの魂の媒体に過ぎないことを明示する。「私」とは、あなたを「ヘブン」へいざなうための媒体に過ぎない。あなたがたの魂はいつも「私」を通り過ぎてゆく。イエスは復活に三日を要したが、2010年に生きる「私」はそれでは間に合わない。あなたたちは、スマホをタッチするのと同じ速度で「私」の体を貫き、そのたびに「私」は一秒ごとに生まれ変わり、あなたがたの「愛」を要求するのだ。

 

「私」は地上にもたらされたキリストと同じ役割を演じているのかもしれない。
しかし、同時に『流星ヘブン』にはそうした役割に対する「ズレ」も存在しているのだ。

 

「仮想的」な自殺。
そこらじゅうで爆破される天国。
「アイ」から目をそらすなよの「アイ」が「愛」ではないこと。
「都合よく好きな一瞬を永遠にされるのが怖い」という永遠の忌避。

 

聖書の上の決定的な言葉は、「私」の身体の中に染み込み、「私」はそれを、2017年を生きる「私の」言葉として吐き出す。

 

ここで、キリスト教イエス・キリストについて厳密に語ることはできない。
ただ、『流星ヘブン』には、「私」を根底で規定する「信仰」のようなもの。そして、そうした信仰が与える「私が君に会いに来た」という希望と、「狂気に化けた夜」という苦しみ。そのはざまで、信仰そのものが「わたしだけのもの」として変質してゆく。そうした道のりがあるのではないか。

「わたし」はそうした「変質」に希望を見出したいし、それがとても愛おしい。