’18年2-3月日記 その2:縷縷夢兎 3rd exhibition ''YOURS"
■2月9日(木)
恵比寿のKATA galleryで行われていた、ハンドニットブランド "縷縷夢兎"、三回目の個展 "YOURS"を見に行った。
上の写真は、個展の会場で私が自分のスマホで撮ったものだが、四枚のうち、一番下の写真が気に入っている。左下にスマホを構えた女の子が映りこんでいる。彼女はスマホのカメラを構え、どこかにズームアップしようとしているように見える。
実際問題、どこかにズームしなければ、 “映りの良い”写真を撮るのは難しい。平日の昼間なのにこのお客さんの数だ。
満杯である。
引きで撮れば撮るほど誰かが映りこむ。
だから、人を縫うようにしてお気に入りの場所、気になった細部をズームして撮影する。
カメラの中には細部に宿された記憶と意味が残る。
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私は、昨年、縷縷夢兎デザイナー:東佳苗さんが発表した『My Doll Filter』という作品が好きだ。
“SNS映え”をテーマにしたというこの作品では、女の子がスマホで自撮りする場面が頻出する。
今回の縷縷夢兎 3rd exhibition ''YOURS"においても、『My Doll Filter』は他の作品(『I wonder』『THE END OF ANTHEM』)と共に上映され、個展の会場でも、『My Doll Filter』の写真が展示されていた。
だから、今回の個展においても、「自撮り」あるいは「スマホで撮る」、という行為について考えずにはいられなかった。
先ほども貼りつけた下記の写真から分かるように、今回の展示は左右で対立するよう空間構造になっている。
分かりやすいのは「ぶら下がっている」ものの違いだろうか。
写真の左手にキラキラ光る星が、右手には「洗濯物」がぶら下がっている。
こうした空間の構造については、東さん自身が個展の "ステートメント"において言及されている。東さんの言葉を借りれば、この写真で言う、左側はガーリーなアクセサリーやぬいぐるみが並ぶ “夢のような空間”( “muse”)であり、右側は食べ終えたカップラーメンやゴミ袋の中につめこまれたぬいぐるみが並ぶ、 “虚構では無い現実世界”( “no muse”)である。
観客は、双方を縫うように、あるいは遮るようにして会場を回る。右から左へ、あるいは左から右へ。それは、陸続きなのか、断絶しているのか。その関係性はそこを通り過ぎる観客に託されているのだろう。
※18/04/10 追記:なお、東さんのステートメントはinstagramで読むことができる。
いずれにせよ、この個展を観ようと思うなら、私たち観客は “muse”の空間と、 “no muse”の世界を行き来しなければならない。
この右と左の間の距離。その間を行き来するという行為。
私は縷縷夢兎に関連する様々な作品において、その面白さの一つは、この「往来」にあるのだと思っている。
そして、この個展における「往来」は、自撮りをするときに伸ばされた腕の長さのようなものとして解釈できるのではないだろうか。
図で言うとこんなイメージである。
……我ながら、このクオリティのものしか作れなくて恥ずかしい。
言葉で言うと、 "no muse"の下着がぶら下がっている側に立ち、星がキラキラしている"muse"の空間へ向けて、スマホを持った手を伸ばす。そして、自分に向けてシャッターを切る。そうしたイメージだ。
誰にも見せられないような私生活の空間から手を伸ばし、 “SNS映え”する自分だけをズームアップしてスマホの内側に切り出す。そうして、jpegに変換された「私」は “SNS映え”するキラキラしたイメージとして人々の前に現れる。
……上の図があまりにもあんまりなので、『My Doll Filter』のシーンを使って言い換えさせて頂くならば、縷縷夢兎の個展の空間を次のように見ることができるのではないかと思う。
『My Doll Filter』には椿姫がカップケーキとともに自撮りし、その後、カップケーキを捨てるというシーンがある。
2:54 カップケーキと自撮りする
2:57 カップケーキを捨てる
3:00-3:01 SNSにアップする
こうしたシーンをこの個展の空間に当てはめるとすれば、マカロンを捨て、SNSを胡乱に眺める椿姫は下着のぶら下がる右側に、SNSにアップされた写真はキラキラした左側の空間に位置するだろう。
“no muse” から “muse”へ。 “リアル”からjpegへ。自撮りとは、こうした空間から空間への跳躍である。(とするならば、双方の間をウロウロと行き来する私たち観客こそが、インスタに並ぶコメントそのものなのかもしれない)。
縷縷夢兎に描き込まれた、こうした往来や跳躍の瞬間に、いつも私は惹かれてしまう。自分という存在をjpegやgifに解体しては “リアルな”自分の目でSNSのコメントを追う。スマホの中で加工され大きくなった黒い目と、写真を撮る時にぐっと思い切り伸ばされた腕のだるさ。それらは裏表というほど密着しておらず、決して同時には存在しないのだと思う。彼女たちはあっちとこっちを行き来する。縷縷夢兎には、その跳躍の痛みと美しさが描き込まれている。そして、その跳躍を自分のスマホの中だけに押しとどめるのではなく、「個展」として、社会の前に、あるいは他者の前に「作品」として提示するのだ。
縷縷夢兎の個展 “YOURS”において私たちの目の前に提示されたのは、そうした空間と空間の飛距離であり、そうした空間を往来する、私たちの身体そのものなのかもしれない。
【解禁】
— 東佳苗✟縷縷夢兎(るるむう) (@usagi_kanae) 2018年1月16日
お待たせ致しました、個展情報解禁です。
縷縷夢兎 3rd exhibition
『YOURS』
会期:2018/2/3(sat)-2/9(fri)
上映会12:00-12:55/個展開場13:30-20:00
上映作品:[I wonder/my doll filter/THE END OF ANTHEM]
会場:KATA gallery
椅子は主人公不在っていう意味です。
追加情報、近日中に有り〼 pic.twitter.com/6g96NzUASQ
空白の椅子に座る時、私たちは、ただの観客ではなく、自らの身体が、今、まさに、空間と空間の往来、そのただ中にあることを知るのだろう。
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ところで、この写真から分かるように、個展では天上に設置されたプロジェクターが、一番奥の壁に東さんの作品を映していた。仮に、この展示が “no muse”と “muse”の飛距離を観客に見せるのだとすれば、奥に映された映像作品には“no muse”と “muse”の間でじくじくと流れた時間が映し出されているのかもしれない。
……というようなことをこのブログを書きながら思った。個展という空間に流れる映像作品を思い出したことで、映像作品とは時間芸術の一つであるということを、改めて意識したのである。
私は何度か映画館等でも東さんの作品を観ているし、YouTubeでも観ているが、観る空間によって、映像もまた、見え方を変える。
また、他の地域でも個展をする? というようなことをTwitterでお見かけしたので、もしも観る機会があれば行ってみたいし、ここまでブログを読んだ方にも足を運んでみてほしいなと思う。
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最後に、先日、Twitterで東さんの次のようなツイートを見て、いたく感銘を受けてしまったので、自分用のメモとしても貼っておきたい。
公式サイトです↓https://t.co/17fv5YBWHt
— 東佳苗✟縷縷夢兎(るるむう) (@usagi_kanae) 2018年3月20日
(ファッションが好きで)←ここは私的希望
お芝居を本気でやりたい10-20代の男女、お待ちしてます!
一人じゃ絶対に届かない世界まで、この映画で
生きてるってこと、執念、届けたいです!
特に、このツイートの「生きてるってこと、執念、届けたいです!」の部分。
この「執念」という言葉を見て、ファッションに興味のない私が縷縷夢兎の個展に毎回、足を運ぶ理由の一つがここに言語化されている気がした。本当に、もっと遠くに届くべきものは、ちゃんともっと遠くに届いてほしいなと思う。