ニワノトリ

Twitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.com

大森靖子『クソカワPARTY』について考えて行く その1

大森靖子さんの(とても良い)アルバム『クソカワPARTY』を聞きながら、これはどんなアルバムなんだろう。ということを解釈して行く痕跡/記録/メモ(その1)です。


※これまでに書いてきた考察系の記事より「まとまり」はないと思います。

 

こちらの『クソカワPARTY』特設サイトでは大森靖子さん本人によるコメントが読めますよ

 

****************

 

『クソカワPARTY』のクソカワが「クソみたいに可愛い」を指すのなら、このアルバムで歌われるのは、糞尿のごとき汚濁とかわいらしさの饗宴である。

 

糞尿とは私たちが内側に取り込んだ様々な食物を消化し、身体の外側に吐き出した排泄物である。「可愛い」とは私たちの境界面、すなわち、「カワ=皮」に対する社会的評価である。しかし、その皮膚もまた私たちが食べ、内側に取り込んだものを糧として、日々、生成されているものである。

 

であるならば、このアルバムはクソとカワの"PARTY"である。身体の内に取り込まれ、外側に排泄されたものと、身体の表面に現れたものが同時に踊り、リズムを刻む饗宴である。
そういえば、このアルバムの表紙では、私たちの身体そのものが、晩餐の皿の上に並んでいたのではなかったか。

 

 

クソカワPARTYにおいては、神が死を孕み(『死神』)、MAGICがREALITYを含む(『REALITY MAGIC』)。
この世からMAGICALなあれそれを排除したのが、"REALITY"ではなかったのか。神とは「生」をもたらすものではなかったのか。しかし、このアルバムではその存在から"排泄された"ものが、"排泄した"ものに出会う。それは内と外の攻防である。
クソカワPARTYでは、他に、GIRLの中の「GIRL」が引きずり出されて『GIRL'S GIRL』となり、「TOKYO」が孕む「KYO」が引きずり出されて『東京と今日』となる。それもまた"排泄"である。

 

排泄物は単に(いらないものとして)排除されるだけではない。排泄物とは、それが身体の外側に排出されるがゆえに、私にその「外側」の存在を知らしめるものである。生まれたての赤ん坊は自分の身体が他者や環境、社会……様々なものに取り囲まれていることを知らない。生きて行く中で、自分の外側に自分以外の誰かがいて、自分の身体がそうした「世界」の中にあることを知る。身体は、そうした「外側」の「世界」に向かって排泄物を吐き出す。逆に言えば、私は私の身体の中から吐き出された排泄物を見て、自分の身体に外側があることを思い知る。自分のこの身体が世界の全てなのではなく「吐き出す」対象が、外側が、世界が、あることを知る。誤解を含みながら言えば、排泄とは「自分」の外側に/外側を「生み出す」ことである。

 

こうした(内側から「排泄」される)「外側」というものがあるからこそ、「皮」という「外側」との境界面が認識される。REALITYが排泄したMAGIC、死が排泄した神。GIRLから排泄されたGIRL、東京から排泄された今日。それらは、曲と視聴者の接触面たるタイトルにおいて饗宴し、クソカワPARTYを繰り広げる。

 

*************

 

今、この文章を書きながら、「美しさ」を歌い続ける大森靖子のアルバムに対して、排泄だの糞尿だの、(一般的に)汚いとされている言葉を並べ立てすぎて、いささか気が咎めているのだが、しかし、一方で、「トイレ」は大森靖子の作品において重要な場所の一つであったはずだ。(Ex.「ここは多機能トイレです」/『ノスタルジックJ-pop』)

 

そして、大森靖子とは社会から「排泄」された混沌に手を伸ばす歌手=超歌手ではなかっただろうか。

 

youtu.be

 

クソカワPARTYの始まりを告げるのは、“死んで?”の一言である。

 

(死んで?)

履歴書は全部嘘でした 美容室でも嘘を名乗りました

本当の僕じゃないのなら 侮蔑されても耐えられる

『死神』 ※歌詞カードに「死んで?」の文字はないがそうした声が聞こえる

 

youtu.be

 

大森靖子という人は、「履歴書=社会的に承認されうる経歴」を持ちえない人に届くような歌を創り、歌って来た。(こうした言い方を大森さん自身は好まないと思うのだけれど)しばしば大森靖子が「マイノリティ」を歌うと評価されるのは、既存の社会による「承認」をされえない間隙を、歌という鏡に映し続けてきたからだ。

それは、この社会の中に “存在していない“生を映し出す、ということでもある。

例えば、性産業で働く女性が理不尽な暴力によって亡くなった時、その死は「自業自得」だと同情さえされないことがある。しかし、その死が “嘆かれえない”(“ungrievable”)のなら、彼女たちは生きている時から既に(社会的に)死んでいた/殺されていたも同然なのではないか?
その生には、あらかじめ、「死んで?」の呪いがかけられている。

 

こうした既存の社会において、生きていることを認められ得ない「生」が確かにここにあるということを歌うのが、大森靖子という人だ。
『死神』が「僕だけが僕を殺す」と歌う時、社会の外側に「排泄」されても、僕の生殺与奪はそうした社会が握っているのではないのだということを。「世界を殺める 僕は死神さ」と歌うとき、「僕」は「君」が生きられない「世界」を殺めるのだということを、歌っている。
だから、『死神』が「殺す」と歌う時、その行為が意味するのは、失われてきた生がこの世界に姿を「現わす」ということだ。君の生は、君と僕の関係の中にある。

 

 

*************

 

ところで、赤ん坊の頃は垂れ流すだけだったの排泄も、成長とともにタイミングを「Control」できるようになる(=Zone of Controlとして、人の身体が社会の中に爆誕する)。そのControlとは自分が自分の身体をControlするということを意味するわけだが、このControlは「排泄はトイレでしろ」という “社会的な”Control(あるいは権力)により訓練されたものだ。
そうして、『死神』に続く二曲目の『ZOC実験室』では「Control」なるものが実験室に連れ込まれ、解体され “Zone Out of Control”な身体が現れる。

なお、この記事を糞尿だの排泄だので書き始めてしまったがために、今も排泄の例を使った。しかし、このControlは、他の要請、「男は男らしくあれ」とか、「女性アナウンサーは清廉であるべき」とか、「親からもらった顔にメスを入れるなんてありえない」などとして考えることもできるだろう。

 

youtu.be

 

ここまで書いたところで今日は時間切れになった。
書き足りないので、また、続きを書くと思います。