ニワノトリ

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ZOC『family name』をめぐる雑感 /Go to ZOC! Do you wanna come along with me?

大森靖子さんが「共犯者」となり結成されたアイドルグループ、ZOC のデビューシングルが発売された。

 

youtu.be

 

『family name』と題されたこの曲を聞くたび、僕は終わって久しいあの時代、「平成」を代表する名作、『GO』(小説であり、小説を原作とした映画でもある)のある場面を思い出す。それは、主人公の杉原が、元プロボクサーである父親にボクシングを習う場面だ。

 

「左腕をまっすぐ前に伸ばしてみな」[…]「腕を伸ばしたまま、身体を一回転させろ」[…]
「いま、おまえのこぶしが引いた円の大きさが、だいたいいまのおまえという人間の大きさだよ。その円の真ん中に居座って、手に届く範囲のものにだけ手を出したり、ジッとしたりしてれば、おまえは傷つかないで安全に生きていける。言ってること、分かるか?」[…]
「ボクシングは自分の円を自分のこぶしで突き破って、円の外から何かを奪い取ってこようとする行為だよ。円の外には強い奴がたくさんいるぞ。奪い取るどころか、相手がおまえの円の中に入ってきて、大切なものを奪い取っていくことだってありえる。それに、当たり前だけど、殴られりゃ痛いし、相手を殴るのだって痛い。何よりも、殴り合うのは恐いぞ。それでも、おまえはボクシングを習いたいか? 円の中に収まってるほうが楽でいいぞ」
 僕は少しもためらったりせずに、答えた。
「やる」*1 

 

『family name』を聞き、『GO』のこの場面を思い出すたび、僕はZOCというグループが、我々の腕の長さを半径とした円形のZONE。その境界線が震え、新しい地平に突き破られる、その瞬間を歌っていることを思い知るのだった。 

ZOCのHPに書かれているように、「ZOC」というユニット名は 「Zone Out of Control」を示す。実際、ZOCのメンバーはその経歴("少年院"を経験していたり、"元ヤン"であったり)や、その突出したキャラクターによって、 「Out of Control」な存在に見える。しかし、彼女たちをこの世に "デビュー"させる『family name』が歌うのは、「Out of Control」な"私"(だけ)ではなく、自らを取り囲む世界の「Out of Control」さでもあるのだと思う。腕を伸ばした少女のこぶしがぐるりと描いたZONE。その境界線を取り囲む「わけわかんない」この世界。その間で軋む心。少女はその軋みの臨界点において、自ら戦いのゴングを鳴らし、ZONEの向こうへこぶしを繰り出す。僕たちは『family name』を聞きながら、そうした始まりの瞬間を目撃する。

 

わけわかんないことでママが怒ってる
安定の不安定に鍵をしめる
こんなのおかしいね何で産んだの
手に届くもの全部投げ飛ばした

 

『family name』の歌い出しにおいて、少女を取り囲むZONEの風景は、かくも鮮やかに描き出される。
「家(族)」という少女が生まれ落ち、生きている空間。
その内側で鍵をしめる、少女自身の空間。
その少女の内側でせめぎ合う、自らを取り囲む空間への疑問と、それでも既にここに生まれ落ちてしまったのだと言う矛盾。
こうして、内側へ内側へと展開するZONEは、しかし、最後に空転する。彼女が手(こぶし)の届くすべてを投げ飛ばすことによって。
『family name』という曲は、こうしたビッグバンのような破裂の瞬間とともに始まる。

 

多くの子ども、少年少女にとって、自らがControlできるものなど少ない。彼女ら、彼ら自身が大人に保護され、教育を受ける"べき"存在であるからだ。「わけわかんない」大人に取り囲まれたとて、大人と共にあることなしに、食事をしたり、住む場所を見つけたり、学費を払ったりすることは難しい。ゆえに、彼女たちの自由になる領域(ZONE)とは、例えば自分の部屋や、大切なドール。自らに "与えられた"場所や物に限られているだろう。そして、"与えられた"際たるものは、その身体であり、名前なのだ。「何で産んだの」と問うたとて、私の存在は常に、既に、その名前と身体とともにあってしまう。何よりもまず、「私」という名前と身体そのものが、「私」の思い通りにならない、「Out of Control」なものとして、「私」を駆動させる。この大いなる始原の矛盾が少女を傷つける。

 

しかし、彼女が「手に届くもの全部」を投げ飛ばした時、そこで何が起きるのだろう。「全部」を投げ飛ばし、"ZERO"となったそのZONEにおいて、それでもそこにあるこの"私"のこの"声"が歌う"ZERO SONG" こそが、『family name』という曲ではないか。 

 

 

 

かわいそう抜きでもかわいいし
私をぎゅってしないなんておかしい

 

例えば「かわいそう」と言われるとき、周囲の視線は、"私"のZONEにレッテルを貼り、「かわいそう」という形をしたZONEに作り替えようとする。
しかし、上記の歌詞において、彼女は周囲に"与えられた"レッテルを"私"のZONEから抜き取り、"私"による"私"への肯定(かわいい)に持ち替える。そして、彼女は「私をぎゅってしないなんておかしい」という歌声をZONEの外に投げ飛ばすのだ。
「私」に与えられたもの(family nameやこの身体、このZONE)を、私自身の声で歌い変えること。そして、それをZONEの内外に響かせること。それによって、"この"私がこの世にあることを肯定すること。
「family name」という曲は、そういうことをやっている。

 

 

ZOCのHPに、このように書いてある。

 

[ZOCとは]簡単にいえば、ゲームにおける「支配領域」の概念のことです。そこに、常に提唱している「孤独を孤立させない」の意味を持たせ、このユニットにおける「ZOC」とは"Zone Out of Control”とし、孤立しない崇高な孤独が共生する場所と定義します

 

『GO』が語ったボクシングにおける「殴る」行為は、ZOCにおいては彼女たちの歌声であり、ダンスであり、彼女たちが観客に見せる一つひとつの表現であるのだと思う。
『family name』を通して彼女たちが生み出した歌声は、そのZONEの外側に響き渡り、その響きによって、この世の数多のZONEの境界線を震わせる。例えば他者の視線によってZONEが硬直してしまったり、他者によってZONEを踏み荒らされてしまったりした人々のZONEへ。あなたのZONEの境界はここにあり、他者と響き合うことができるのだということを示すように。数多のZONEがゆらめき、ぶつかり、交差し、時には銀河を形成する、そうしたZONEの煌めく宇宙として、Zone Out of Controlがここに始まる。

 

生き抜いたその先をみてくれ
私とこの世の果てまで

 

ZOCが歌う「この世の果て」はなんと深遠なのだろう。少女はこの世を「生きる」ことを決めている。否、この世を生きることを"引き受ける"ことを決めている。それはこの「わけわかんない」世界のルールからのControlを引き受けるということではない。彼女たちは、この狭く、硬直した世界のZONEを推し広げ、攪乱し、どこまでも広がり切ったその「果て」まで突き抜けることを決めている。

サビで歌われる「クッソ生きてやる」とは、きっと、与えられた「生」をひっくり返しながら、自らの手で"私の生"を引き受け直すということだ。このサビにおいて、ZOCの歌は水風船の爆弾が破裂するようにビッグバンを引き起こし、誰かに与えられた正義よりも"すごい"物語が始まりを告げる。
その物語は時にZONEの外へ「行け」と響き渡る声であり、(一緒に)「行きましょう」と差し延べられる声でもあるだろう。ZOCの歌は、"私"のZONEに入り込むパンチを時に打ち返し、時に手を握り返し、境界を揺らめかせ、ZONEの形を変えながら、この世界の枠組みをビリビリを震わせている。

 

 

俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。*2

 

 

今週のお題「アイドルをつづる」

*1:金城一紀『GO』、2000年、講談社、pp.58-9

*2:同上、pp.234