ニワノトリ

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『ワンダフルワールドエンド』(松居大悟監督)の「ワンダフルワールドエンド」って何だということを延々と考える記事

 

今週末公開になる、松居大悟監督の映画『私たちのハァハァ』の公開を記念して、テアトル新宿では、松居監督の『ワンダフルワールドエンド』が、1週間限定上映中です。

 

 

 

 

今日も空気を読んで残業して21時30分に家に帰るくらいなら、『ワンダフルワールドエンド』をもう一回見に行って、23時に家に帰った方が良いに決まっていると思って、行ってきましたテアトル新宿

 

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定時に「お先に失礼します」を叫ぶ私を見る、上司の白い視線は、神様お願い見なかったことに。

 

家に帰ってシャワーを浴びて、Twitterチェックして寝るだけの平凡な1日の終わりが、新宿の映画館で1800円を支払うだけでワンダフルワールドエンドになるのなら、儲けものだと思います。
東京近辺にお住いのみなさんは、お時間があれば、目前に迫る納期がないのなら、ぜひ、この映画を観に行ってみてはいかがでしょうか。
数に限りはあるそうですが、来場者特典のポスターやステッカーももらえます

 

 

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もらいました。

 

 

この映画が公開される前、『ワンダフルワールドエンド』という言葉を聞いた時から、ずっと、「ワンダフルワールドエンド」ってなんだろうって気になっていました。
今でも気になっています。上記の通り、すでに映画は見終わっているのですが、というか3回観に行ったのですが、それでも、気になっています。
つまり、この映画の中に 「これがワンダフルワールドエンドだ!」と、明確に何か答えのようなものが明示されているわけではありません……と思います。感性の鋭い人になら、感じ取 れるのかもしれませんが、私には感じ取れませんでした。

 

だけど、それならそれでいいや。で片づけられるような映画でもないのです。「ワンダフル ワールドエンドってなんだ、なんなんだ、なんなんだよ!」と気になって気になって、普段、そんなに映画を見る方でもないのに3回くらい映画館に足を運んで しまう。私にとって、『ワンダフルワールドエンド』はそんな映画です。
なので、以下、『ワンダフルワールドエンド』の感想文を書きつつ、「ワンダフルワールドエンド」ってなんなんだろうと、私なりに延々と考えてみたいと思います。

 

 

ネタバレはあります。ガッツリあります。

 

 

 

 

 

 

■追いかけ-追いかけられる女の子が開く世界

 

松居監督は、『私たちのハァハァ』で、松居監督は好きなバンドを「追いかける」女子高生たちの姿を描いていました。『私たちのハァハァ』は、クリープハイプを「追いかける」女の子たちの息遣いにじっと耳を澄ませているような映画で、「追いかける」最中に高ぶる気持ちや想いを丁寧に映し出していました。

 

一方、『ワンダフルワールドエンド』でも、主人公の二人の女の子、詩織と亜弓は「追いかけて」います。しかし、詩織と亜弓はただ追いかけるだけではなく、追いかけられもします。

 

 


大森靖子『ミッドナイト清純異性交遊』Music Video - YouTube

 

 

この『ミッドナイト清純異性交遊』のMVでは、詩織が亜弓を追いかけるシーンを見ることができますが、『ワンダフルワールドエンド』のラストシーンでは亜弓が詩織を追いかけます。そして、どちらの「追いかけっこ」も、片方が片方の手を掴んで、追いついたところでシーンを終える。

 

『ワンダフルワールドエンド』で特徴的なのは、詩織に亜弓が追いつく時、そして、詩織が亜弓に追いつく時、そこに今までとは違う世界が広がっているということだと思います。
詩織は、亜弓を追いかけて、今まで自分のいた世界(=彼氏と同棲していた部屋)から飛び出して行くし、亜弓が詩織に追いついた時、そこにはファンタジーなお花畑が広がっている(そして、その瞬間に、二人は、亜弓でも詩織でもない、蒼波純橋本愛になる)。

詩織の手が亜弓に届く時、亜弓の手が詩織に届く時、そこには、二人が今までいた世界とは異なる世界が広がっています。

 

 

ということを考えると、まず、ストレートに思い着くのは、「ワンダフルワールドエンド」とは、「既存の世界の終り」=「新しい世界の始まり」なのではないかということです。
亜弓が詩織に出会い、詩織が亜弓に出会う時、二人は詩織のいない世界、亜弓のいない世界に別れを告げ、「詩織と亜弓がいる世界」という新しい世界に出会うことになります。

 

 

■「地球を作りたい」問題

 

仮にそうだとして、詩織と亜弓の出会いは、なぜ、こんなにも特別なんでしょうか。
例えば、詩織には既に(そして過去に)浩平というイケメン彼氏がいて、二人はそれなりに楽しい同棲生活を送っていたはずです。

 


しかし、浩平は詩織にベランダに突き飛ばされ、ファ●ク呼ばわりされ、ゾンビになってなお笑顔で「来ないで」と言われてしまうボコボコにされようです。

 

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ボコボコにされてるなう

 

 


浩平はなぜ、詩織にとっての亜弓になれなかったのか。

確かに、浩平は発言や行動はツッコミどころ満載なのですが、彼自身は、その行動を悪意はなくやってるので、改めて映画を見ると、ボコボコにされるのも、お気の毒感があります(悪気ないのが最大の問題なんだって話なんですが)。

 

ここで、思い出したいのが、あの、一度聞いたら忘れられない浩平の名セリフ。

 

「地球を作りたい」

 

です。
多分、浩平は、意識的にも無意識的にも?最初から最後まで自分の地球を作ってるだけだと思うんですよ。
彼には、この世界はこんな世界で、自分はこの世界でこういう風に認められて、こうやって生きて行くんだ、っていう理想の世界だけを見て、まるでその世界がそのまま現実であるかのように振る舞っているようなところがあります。
彼はイケメンだし、性格も悪くないから、自分の世界と、周囲の世界との摩擦をあまり感じずに生きてきたんじゃないかなと。少なくとも、この映画に映っている範囲では、そんなことを感じます。


詩織は、そんな浩平を「気持ちよくなってんじゃねーよ」と部屋の外に蹴り出 してしまうわけですが、詩織がこの時、浩平を断罪しているのは、浩平の「気持ちよさ」であり、この世界に違和感を感じない「鈍感さ」なんじゃないかと思います。

 

浩平は、自分の世界で満たされて、浩平は自分の世界(地球)の中で気持ちよくなれる。詩織は、その浩平の浩平による気持ちいい世界の一登場人物にすぎない。

 

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そしてこの顔である。

 

それに対して、亜弓は詩織の好きな服を着て、詩織が好きな人を好きになって、詩織がやってるツイキャスをして、ブログをして、亜弓の世界に近づこうとしている。
この時、重要なのは、ただ、亜弓が詩織の真似をしているわけではなくて、亜弓が「家出」をして詩織のところにやってきているところなんじゃないかと思います。
亜弓は、詩織のツイキャスにも「私も学校行ってない…」とコメントしてたりしますが(あれは春休みだからなんでしょうか……)、亜弓も、亜弓のいる世界に何か違和感や、満たされないもの、どうにもならないもどかしいものを感じていて、それを埋めるために、必死でゴスロリを着たり、イラストを描いたり、ツイキャスをしたりしている。

 

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亜弓も詩織も、今の世界の出口を必死に探していて、今の世界に穴を蹴り開けようと、割と必死に生きているところがあって、だからこそ、二人は共鳴して、二人で手を取りあって、新しい世界に向かうことができる。
二人は、それこそ、今の自分の世界の果て=ワールドエンドを、何とか押し広げようとして生きて来ていて、「ワンダフルワールドエンド」とは、そういう、彼女たちが押し広げようと手を伸ばし続けてきた、世界の端(ワールドエンド)同士が触れた瞬間のことでもあるのではないかと思います。

 

そういう、自分の世界をぐいぐい押し広げよう押し広げようとするところが、詩織・亜弓と、「地球を作りたい」な浩平の違ったところなんじゃないでしょうか。

 


『私たちのハァハァ』は、「追いかける」という行為の中にある、高ぶる「想い」や「息遣い」みたいなものにフォーカスを当てていたんじゃないかと思いますが、『ワンダフルワールドエンド』は、「追いかける-追いかけられる」という二人の関係性の方にフォーカスを当てた作品なのかなーと思います。

 

 

 

 

■「来ないで」と言われたのは誰か

 

 

上に、世界の端(ワールドエンド)同士が触れた瞬間が『ワンダフルワールドエンド』なんじゃないかって書いたんですけど。

 

最後の橋本愛ちゃんが「来ないで」っていう台詞を聞いて、「ワンダフルワールドエンド」っていうのは、映画の中の「ワンダフルワールド」と、スクリーンの外側の現実世界と融解する、臨界点みたいなものでもあるのかなと思いました。

 

『ワンダフルワールドエンド』では、ラストシーンで、いきなり、詩織が橋本愛になり、亜弓は蒼波純になる。着ぐるみの頭が取れて、大森靖子がギターを掻き鳴らす。
ファンタジーといえばファンタジーだし、メタと言えばメタなラストです。

 

あのラストシーンは、すごく色んな捉え方ができると思うのですが、あのラストシーンを、「ワンダフルワールドエンド」という映画の世界が限りなく現実世界に接近した瞬間(だけど、「来ないで」と言って、接する前に去って行く)、みたいなものとしても解釈できるのではないかと思います。

 

 

『ワンダフルワールドエンド』は、詩織と亜弓という(普通の?)女の子の生きる姿を描いた、青春映画でもあります。

 

『ワンダフルワールドエンド』は、詩織と亜弓の私的な空間(日常の生活)とその近辺を切り取ることで出来上がっていて、例えば、詩織が仕事をしたり、亜弓が学校に行ったり。事務所とか、家出の家族との会話とかは出てきますが、公の場所で生活する場面と言うのは描かれていません。
だからか、「あー、こういうことあるなあ」とか、「こういう気持ち分かるな」っていう場面もたくさんあります。
さらに、とても身近な世界で出来上がっている分、「青春」とか。「女の子」とか。「ゴスロリ」とか。そういう、一つの言葉で説明できるような気になってしまいそうになる映画でもある気がします。
(もちろん、「青春」も「女の子」も「ゴスロリ」も、一言では説明できない世界をそれぞれ持っているわけですが、一方で、「あー、あの子ゴスロリ好きだよねー」「女の子ってすぐ泣くよねー」みたいな。一つの固定されたイメージでもって用いられて、誰かの存在を一つの場所に閉じ込めてしまう使い方をされることもある言葉だと思います)。

 

 

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『ワンダフルワールドエンド』は、そういう、「彼女たちだけの世界」と「彼女たちの気持ちが分かる気がする私たちの世界」のちょうど狭間にあって、すぐ隣にある、だけど、簡単には手に届かない、みたいな、非常に危うい場所にある映画です(と思います)。

 

あのラストシーンは、そういう、触れられるようで触れられない、現実世界とワンダフルワールドの微妙な距離感が現れているような気がしました。
彼女たちは、最後の最後で、私たちの世界に限りなく近づいてきて、だけど、「来ないで」と言って、彼女たちだけの世界に去って行く。
それは、ともすれば「女の子」とか「ゴスロリ」とか。一つの言葉で彼女たちの存在を説明したような気になって、一つの固定された言葉の中に彼女たちを閉じ込めようとする、私(たち)の言葉から、彼女たちがするりと逃げて行く瞬間のようにも見えました。
まさしく、ワンダフルな世界が現実世界にちょっとだけ触れて去って行く、ワンダフルワールドの果て(エンド)みたいな。そんな場所が、あのラストシーンだったのかなあと思います。

 

■ポスター自慢

 

 

なんだか、書けばかくほど、「思います」「見えます」みたいな表現が増えてきましたが。
全体的に、「ワンダフルワールドエンド」について考えていたら、「エンド」っていうのは、「終わり」というより、むしろ、「果て」とか「端っこ」とかそういう感じなのかなあという気がしてきました。

……んですが、『ワンダフルワールドエンド』の中で「ワンダフルワールドエンド」(のサビ)が流れるのは、詩織が引退宣言するところだから、やっぱり、「終わり」なのかなあ、いや、まあ、どっちでもあるのかもしれない、とか。
「よくわからない」とか「かもしれない」とか、ハードボイルドワンダーランドな方の世界の終りの主人公みたいになってきました。

 

長くなって来たので、オチもないですが、そろそろ記事を終わります。

 

 

劇場でもらったこのポスター、

 

 

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よく見ると、主人公の詩織と亜弓(=橋本愛蒼波純)の真後ろに、「ぬいでぬいでー」「もうイベントないの?」「鎖骨!」「明日見に行きます☆」などの文字がびっしり並んでいます。

これ、すべて、劇中で詩織が配信するツイキャスにつけられたコメント群です。
『ワンダフルワールドエンド』の詩織は「売れないモデル」ですが、それでも、JKだし、テレビできわどいトークをしたこともあるし、顔は橋本愛だし。
ツイキャスをすれば、少なくて200 人、多くて1000人以上が見に来ます。このポスターが示している(かもしれない)ように、彼女は、ツイキャスによって、彼女の皮膚の面積をはるかに超え る量の視線に晒されています。
顔の見えない人たちが、コメント欄に書きこむ数行のコメント。

亜弓(蒼波純)も、最初は、その数行のコメントの一部として、コメントを書き込む「ami☆」として登場し ます。
しかし、亜弓が、詩織が参加した(というか手伝いに行った)撮影会に、詩織とお揃いのゴスロリ服を着て、現れるところから話は変わって来る。
亜弓は、詩織のファンの一人もいない現場に唐突に現れて、詩織にピュレグミをプレゼントとして差し出して、「今度いつ会えますか」と聞いて来ます。
最初は、詩織の方が、そんな「私」に会いに来ている女の子の登場に戸惑っているように見えますが、徐々に、詩織は亜弓を一ファンとしてではなく「あみちゃん」という一人の女の子として見るようになって行く。


地下アイドルを応援すれば認知されてラッキーとかそういう話をしたいのではなく。やっぱり、スマホを通して晒される沢山の視線から、一つの真摯な視線を拾い上げる皮膚感覚、スマホの向こうにいる女の子の生き様を真摯に見つめて、そこに手を伸ばすことのできる感受性。
そういうものって、インターネットで文字をずっと追っていると、どこか鈍くなっていってしまうものだから、常に世界に対して鋭くあった彼女たちの肌感覚が、彼女たちをワンダフルワールドエンドに導いたのだと思います。

 

 

『ワンダフルワールドエンド』は、可愛く生きるとは鋭く生きることでもあるのだということを、教えてくれる映画でした。

 

なんかまとまってないのに、まとまったみたいな一言で終わってすみません。

 

今日の記事は以上です。

 

 

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