ニワノトリ

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宇多田ヒカル『桜流し』の感想 改

 

いまさらですが、宇多田ヒカルの『桜流し』のDVDシングルを入手しました。
改めていい曲だなと思いましたので、感想を書いてみようと思います。

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歌詞はこちら

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最初聞いた時には、英語歌詞の部分に違和感がありました。
日本語の歌詞の部分が、 Everybody finds love/In the end と言う歌詞を自分のものとして歌える段階にあるようには聞こえなかったからです。


私には、
この歌はまだ「あなたの不在」のただなかにあり、
この歌の中の「私」は、「あなたの不在」をどう受け入れたらいいのか、現実との距離をまだうまく計れていないように聞こえました。


私の数少ない別れの経験を思い出すと、どんなにその別れが辛くても、日常というものは、いつしか、「あなた」がいないことが前提となって回り出します。
6人家族が5人家族になれば、6個入りを買っていたお土産も、いつかは5個入りを買うのが当たり前になります。
気付いたら、あなたがいて当たり前だった日常が、あなたがいなくて当たり前の日常に切り替わっている。
そのことに気付いた時、5個入りを当たり前に買う自分を薄情と思って、自分を罰したくもなりますが、
しかし、いつまでも、「寂しい、寂しい、寂しい、寂しい」「辛い、辛い、辛い、辛い」と寂しさを刻みつけ続けて生きて行くわけにはいかないのです。
それが、あなたがいないこの世に対する呪詛に変わるまえに、辛さに引きずりこまれない強さを身に着けなければならない。


この歌の「私」はまだ、「あなたがいて当たり前の世界」と「あなたがいないのが当たり前の世界」の狭間に居て、
日常生活の中で常にぶり返してくる「あなたがいない」という事実に、心を潰されるような辛さを味わい続けている。
そんな風に見えます。



桜流し』の一番の歌詞で、「あなたがいない世界」を生きる「私」は、桜を眺めるあなたのことを思い出します。
そうして、「もしもあなたがいたら、あなたなしで生きる私を見てどう思うだろう」と思う。
その後、二番では、「もしもあなたが今いたら、この世界がどう見えたことだろう」と、「あなたが生きている世界」を仮定して、仮定されたあなたの視点からこの世界の風景が歌われます。

そして、最後に、「私たちの続きの足音」と来る。

この、「私たちの続きの足音」という一行には、
「私たち」、つまりは、あなたがいた=二人で生きていた世界の「続き」に今があるのに、あなたはもういない、という喪失感があります。
この喪失感が、その後の「もう二度と会えない なんて信じられない」という感情の高ぶりをもたらすのです。


この歌詞の「私」はまだ生々しい喪失感をずっと抱え込んでいて、
その喪失感はカサブタになどならず、
「あなたがいない世界」に「あなたがいたはずの世界」という仮定を持ち込んでは、じくじくと痛み続けている。


そんな風に思うので、私はずっと『桜流し』において、「あなたがいなくなった」という出来事はまだ現在進行中であるという印象を抱いていました。
だから、英語歌詞にある「end」を歌えるほどに「私」の気持ちの整理がついているようにも、
「私」が「あなたがいなくなった」という私にしか感じられない寂しさを「Everybody」という普遍的な(一般的な)主語に還元できる段階にあるようも、
聞こえませんでした。



だけど、DVDに映された色んな生命の営みを見て、なんとなく、私が英語歌詞と日本語歌詞の間に感じた距離が埋まったような気がしました。


生命の営みは、いくつもの始まりと終わりがあり、それが連鎖しながら生命が続いて行く。
この『桜流し』は、そうした営みに、「死」の先に始まりを告げ続けるものとしての「愛」を見いだしているんじゃないか。
終わりには愛があって、それは続きの愛であり始まりの愛でもあるんだということを普遍的な真実として見なし、それが「普遍的である」ということ(死は単なる終わりではないこと)に希望を見いだしているんじゃないか。

そして、その普遍性を表すのが、 Everybody finds love in the end という英語の歌詞なんじゃないか。


こう考えると、たぶん、英語歌詞は他の部分は少し視点が違うんだと思います。それは神の声かもしれないし、自然の摂理なのかもしれません。
例え、私が、「Everybody finds love」という真理を知っていたとしても、私が生々しく抱いている絶望感や喪失感から、その真理を現実のものとして生きるまでの距離は、きっとすごく遠い。
その真理を生きることは、「あなたの生が終わっても続いて行く世の中」というものを受け入れることを意味するからです。
しかし、それでも、どんなに辛くても、あなたの不在を受け入れて、あなたの死を抱えたまま、この現実を生きて行くんだと言い聞かせているのが、
この『桜流し』という曲なんだと思います。


その決意は、
最後の日本語の二行「どんなに辛くたって目をそらさないよ」「すべての終わりに愛があるなら」に現れている。
そして、この歌詞の前の「木立の遣る瀬無きかな」が、木立のような「自然」の視点から人生を見つめることで、自分たちの生命を自然の営みの中に位置づけて、自分が感じた辛さを受け入れることを何とか可能にしている。


桜流し』は、東北大震災後の日本という国において、
ただ辛さを歌うだけでも、ただ辛さを希望に置き換えるだけでもなく、
「「それでも」生きていくんだ」という、日本の中に芽生えた(芽生えて欲しい)生きて行く意志を強く表現した
名曲……というか、名作なんだと思います。


いい買い物させていただきました。ありがとうございました。

 

 

※この記事は、http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2013/2/3に公開した文章を一部修正したものです。

 

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