容易い肯定ではなかった/大森靖子「絶対彼女」@アルバム『絶対少女』の感想
大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ
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「今作は[…]とにかく全ての女の子を肯定しようと思いました」
大森靖子は、『絶対少女』というアルバムについて上記のように語っている。
(http://oomoriseiko.info/zettaisyoujo/index.html)
その一曲目である「絶対彼女」という曲は、ピンク色の歌詞カード、ポップなリズム、加工されたかわいい声、"ディズニーランドに住もうと思うの"という歌い出しなど、「女の子らしさ」や「かわいらしさ」に溢れている。
だから、最初にこの曲を聞いた時、「全ての女の子の肯定」とは、無邪気で無条件になされているものなのだろうと思った。
しかし、そんな直感が通用するのは、"ディズニーランドに住もうと思うの"という歌い出しまでだった。
この曲は、歌が始まるや否や、あっという間に、聞く人の心に鋭く踏み込んでくる。
そして、心の奥深くに、ピンク色のナイフを突きつけて、問う。
「あたし達に"絶対女の子がいいな"と歌わせるのは誰だ?」
"絶対女の子がいいな"
それは、この曲で幾度も繰り返される歌詞だ。
絶対女の子がいいな
絶対彼女
「絶対彼女」という曲のサビは上記の歌詞をひたすら繰り返す。
他の言葉は何もなく、"女の子がいいな"という女の子への"絶対"的な肯定以外が、すべてそぎ落とされている。
"絶対女の子がいいな"
それは、一見、「女の子」への絶対的で無条件な肯定であるように見える。
しかし、恐らく、無条件に女の子が女の子でいられる世界では、そんな歌詞は生まれない。
「女の子」が「女の子でなくなってしまう」瞬間があるからこそ、(それでも)「絶対女の子がいい」という歌詞が生まれるのではないか。
きっと、"絶対女の子がいいな"という歌詞も「絶対彼女」という曲も、「女の子である」ことを肯定できなくなる瞬間を振り切るようにして生まれたのだ。
「絶対彼女」という曲にあるのは、単なる「肯定」ではなく、「肯定する」あるいは「肯定しようとする」という運動だ。
「絶対彼女」という曲を彩るピンク色の歌詞カードも、かわいらしい曲調も、声も、「女の子でなくなる瞬間」に対抗するための女の子的武装であったりするのだ。
「絶対彼女」という曲の裏側には、「女の子」たちが「女の子として生きる」ことに挫けそうになる瞬間への恐怖や怒りが渦巻いている。
だから、「絶対彼女」という曲は、実に生々しく、痛々しい。
■冷めた視線
この曲はサビで “絶対女の子がいいな 絶対彼女”と繰り返すけれど、そんなサビと裏腹に、この曲の中にはいろいろなものを相対化する冷めた視線が潜んでいる。
この曲のサビ以外の歌詞、特に一番では、絶対的なものなんてないんだ、そんなこと知っているんだということがずっと歌われている。
まず ずっと愛してるなんて嘘じゃない
若いこのとこにいくのをみてたよ
ミッキーマウスは笑っているけど
これは夢
この曲は、 “ずっと愛してる”なんていう言葉も、ミッキーマウスの笑顔も信じてはいない。
この曲の女の子感の溢れたリズムの中には、夢のような 「幸せ」の絶頂に「これは夢だって知っている」「この幸せには終わりが訪れることを私は知っている」と頭のどこかで呟いてしまうような冷めた感覚が常に顔を覗かせている。
この曲が信じていないのは、それはディズニーランドという場所や、恋人(?)のいう “ずっと愛してる”という言葉とか、とか、自分以外の誰かが語り、紡ぐ「夢」ばかりではない。
例えば、以下の歌詞。
古びたものは嫌いだって
あたし泣きついてたのに
よそ行きで使うシャネルのリップも
いつかはぬってあげたいな
私は、この歌詞の “あたし泣きついてたのに”の “のに”の部分に、涙腺をつつかれる。
“泣 きつ”くような激しい気持ちも、 “古びたものは嫌い”というこだわりも、自分なりの美学みたいなものも、一時的な感情の爆発にすぎなくて、いつかは、「ふつうの幸せ」に呑み込まれてしま う……この歌詞には、かつては、「嫌だ」と泣きついていたはずのもの、「私は絶対、そんな風にはならない」と思っていたはずだったものに、「なっている」 自分に気付く瞬間が描かれている。
そして、その裏側には、「そんな風」であることの「幸せ」に気付いた瞬間の更なる絶望感、みたいなものがある。
ここにも、自分の胸の高まりを「どうせその時だけよ」と相対化してしまうような視線があると思う。
この曲の「冷めた目線」は、自分の外側で生まれる夢(ディズニーランドや彼氏の囁き)ではなく、自分の内側、すなわち、自分が自分に対して抱く夢にも向けられているのだ。
そんな「冷めた目線」を抱えながらも、この曲はサビで “絶対”女の子がいいな “絶対絶対絶対”彼女なんだと、繰り返す。
それは、“女の子”、それだけは相対化できない絶対的な価値なのだと、自分に言い聞かせているようにも聞こえる。
■ふつうの幸せ
この曲は最初に
ふつうの幸せにケチつけるのが仕事
と歌っている。
この “ケチつける”とは、どんなに幸せでも、その幸せがすべてじゃないんだと、幸せを「相対化」する行為のことかな、という気がしている。
しかし、この曲が素晴らしいな、と思うのは、曲の中で、 “ふつうの幸せ”との関係性が変わって行くところだ。
一番では “ふつうの幸せ”にケチがつけられている一方で、二番には “ふつうの幸せ守るの”という歌詞がある。
新しい気持ちでいようね
ふつうの幸せ守るの
どんなに最初に宣言したって、永遠に “新しい気持ち”でいられるわけがない。
"新しい気持ちでいようね"……それは、 “ずっと愛してる”という言葉と同じように、いつか裏切られるであろう言葉なのかもしれない。
しかし、二番では、"新しい気持ちでいようね"という言葉が相対化されない。
(新しい気持ちでいようだなんて) “嘘じゃない”とか “それは夢”とか言わない。
その代わりに続くのが、 “ふつうの幸せ守るの”という歌詞だ。
この曲の二番は、「この夢が続きますように」という願いを手放す前に、その願いを"守るの"と宣言するのだ。
それは、
「“ずっと”気持ちが続くことがないなら、 “新しい気持ち”を作ろう。永遠に続かない幸せに冷めたり、絶望したりするんじゃなくて、 “新しい気持ち”を作り続けよう、そうやってずっとやっていこう。」
そんな宣言なのかもしれない。
■ふつうの幸せという絶望と希望
その宣言をさせるのは、 “もうお母さんになる”という “スーパー帰りの電撃ニュース”なのだろうか。
“お母さんになる(なれる(はず))”ということは、女という身体がどうしても逃れられない圧倒的な現実だ。
そして、それは、子どもを産んで、子どもを育てて、温かい家庭をつくって……そんな “ふつうの幸せ”への第一歩でもあるのかもしれない。
“ふつうの幸せ”とはなんだろう。
たぶん、この曲で、 “ふつうの幸せ”は “絶望”と隣り合っている。
スーパー帰りの電撃ニュース
もうお母さんになるんだね
捨てるか迷ってとっておいた
絶望も役立ちそうだね
ふつうの生活の中に自分がいて、ふつうに幸せに生きているということ。それを維持するために必死に働いて、子どもを育てて、彼らが巣立っていく姿を見て人生を終えること。
ふつうに生きるということは、自分の抱いていた「何か」……将来の夢であるとか、希望であるとか、そういうものを一つずつ手放していくということでもあると思う。
「私はそうはなりたくない」「私には必要ない」と嫌がっていたものも、きっとふつうの幸せの引力の前にはかなわない。
そんな、どうしても “ふつうの幸せ”にあらがえない絶望感。
"もうお母さんになるんだね"という電撃ニュースは、「ふつうの幸せ」も「ふつうであることの絶望」も、同時に運んでくるのかもしれない。
しかし、「絶対彼女」という曲は、"絶望"を"絶望"のまま終わらせたりはしない。
新しい気持ちでいようね
ふつうの幸せ守るの
ディスったやつの家にバラの花束を毎日送るの
“ディスったやつの家にバラの花束を贈るの”
ここも色んな解釈があると思うけど、それは、かつて傷ついた自分や、何かを嫌がっていた自分を裏切るということなのかもしれない。
かつて自分が傷つけたもの、自分を傷つけたもの、自分が嫌がったもの。それらを認めて、バラの花束で祝福しなければならない。そんな、 “ふつうの幸せ”という絶望感。
しかし、時折ふっと湧きあがる絶望に飲み込まれないようにしながら、「それでもいいんだ」「私は幸せなんだ」と言って、バラの花束を送る力が、(自分が/身近な誰かが) “お母さんになる”という、「女の子」の現実に含まれているのかもしれない。
バラは決してきれいなだけの花じゃない。それはきっと送る自分も、送られる誰かも傷つける。けれど、互いに傷つけあいながらも、どんな絶望も押しのけてしまうような「かわいさ」がバラの花束にはある。
最後に繰り返される “絶対女の子 絶対女の子がいいな 絶対女の子 絶対女の子がいいな”というフレーズは、「女の子」という「絶対」的な世界が、 “ふつうの幸せ”を彩り、彼女の背中を支えて、彼女に絶望の淵に立ち止まらせないのだと思わされる。
新しい気持ちでいようね
ふつうの幸せ守るの
ディスったやつの家にバラの花束を毎日送るの
絶対女の子がいいな 絶対彼女
きっと、「女の子」は最後の砦であり、最後の夢であり、同時に、圧倒的な現実でもあるのだ。
※この記事は http://n1watooor1.exblog.jp にて、2014/4/26に公開した文章の一部です。