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ニワノトリ

ハロプロ、大森靖子さん、宇多田ヒカルさん、amazarashiなどのJ-popの楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いているブログです。カテゴリ「このブログについて」に記事のまとめと更新情報があります。ご連絡はTwitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.comまで(http://n1watooor1.exblog.jp/は愚痴用になりました)。

ハロオタ(一応)として対峙する/大森靖子「ミッドナイト清純異性交遊」@『絶対少女』の感想

大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ

 

 
大森靖子『絶対少女』の2曲目、『ミッドナイト清純異性交遊』の感想を書こうと思います。


**

ちゃゆ。

……いや、「さゆ」こと道重さゆみの曲として作られたという本曲。

私も曲自体は聞いたことはなかったけど、さゆをイメージした曲があるらしいという噂は聞いたことがありました。

そ ういう前情報がある上に、歌詞カード見てると「大きい瞳」(さゆが同期の子と歌っている歌のタイトル)という歌詞が目立つように大きく書かれているし、 MVに「さゆうさ」(さゆとサンリオがコラボして作ったうさぎ)らしきものが出てくるし、曲の最後で「ラララのピピピ」(さゆのソロ曲のタイトル)言うて るし、先入観抜きで聞こうと思っても、もう、どうしてもさゆの姿を頭に描きながら聞かずにはいられなかった。



だから、この曲については、私もハロオタの端くれとして、同じハロオタとしてこの曲を聞き、ハロオタとして感想を書いてみたいと思いました。









とか言いつつ、なんか、何回聞いても敗北感しか感じなかった。

私は http://togetter.com/li/648568 ←こんなに詳細に歌詞を読み解けるほど、さゆのエピソードを知らないし、それ以上に、そもそも、アイドルに対峙しようとする姿勢そのものが、まったくもってこの曲に及ばない気がする。

上で「さゆの姿を頭に描きながら聞かずにはいられなかった」とか書いたけど、私はこの「ミッドナイト清純異性交遊」ほど、さゆのこと思い描けないだろうなあと思う。
私はももち(@Berryz工房)推しだけど、果たして私はもものことをこんなに思い描けるだろうか。





この曲は

アンダーグラウンドから君の指まで遠くはないのさ」と宣言する。
「発売延期で僕だけのキラーチューン」と歌う。
「世界だって君にあげる」という。

ワンルームファンタジー”の中にいながら、この曲はさゆと一対一の関係を築こうとしている。
ここで歌われているさゆは「妄想通り」な「アイドル」だけど、決して偶像じゃない。
さゆに向かって必死に手を伸ばして、さゆを「僕」と同じ世界に暮らす生身の「君」として捉えようとしている。ような気がする。
この曲は手の届かないような清純で美しい世界で輝いているさゆを、遠くからじっと見つめているだけじゃない。
さゆに見つめられ、さゆに与えられながら、さゆを見つめ、さゆの世界に返せる何かを探している。
この曲が志向しているのは、さゆという女神に幸せを与えられるファン、というような、一方通行の関係じゃなくて、もっと双方向的で対等な関係じゃないだろうか。



もちろん、テレビで、雑誌で、ブログで、ライブで、私たちが目撃するのはアイドルのイメージでしかない。
私たちは作り上げられたアイドルのイメージに興奮し、金を払い、彼女たちを応援する。
私たちにできるのは、テレビの前で、スマートフォンの前で、観客席で、作り上げられたアイドルのイメージを受け取ることだけだ。
でも、彼女たちはただイメージであるだけじゃない。
同時に生身の少女でもある。

きっとこの曲はさゆの桃色のイメージと同時に、さゆという女の子の生々しさも大切にしている。

あの道重さゆみに、こんなことを言うのはおこがましいのかもしれないけど、この曲は道重さゆみというアイドルに、一緒にこの日本という世界に生きる女の子として、相対しようとしている。そんな気がする。

そうじゃないと、こんな歌詞は歌えないと思うんだ。


   狂ってるのは君のほう ミッドナイト清純異性交遊


「狂ってるのは君のほう」

この歌詞を聞いた時、私は、私のアイドルに対する認識から完全に欠落していたもの、私がアイドルに対して(勝手に)諦めていたこと、私がアイドルに張っていた予防線、など、私がアイドルから「逃げて」いたものをすべてひっくるめて突き付けられているような気がした。
大森靖子に向かってこんなこというのも恥ずかしいけど、きっと、こんな言葉は私のどこをひっくり返したって出てこない。
私の中にはこんな言葉も視線もない。

アイドル「に」狂うっていうのは、オタの中ではある種のステータスだ。
アイドルのためにどれくらいのお金と時間を費やせるか、コンサートでいかに奇声をあげられるか。
いかに自分の理性の向こう側にいけるか、いかに外聞なく自分の欲望を表出できるか。

ドルオタは、アイドルという消費のシステムの中で、お金を費やせば費やすほど雪だるまのように膨らんで行く自分の欲望を、コンサートで、握手会で、アイドルにぶつけては、またその狂気をお金で証明し、自分の思い入れを測っている。そんな側面を持っている。

だから、アイドルに向かって「もっと僕を狂わせて」っていうのは、分かる。
「君のために狂ってるよ、見て」っていうのも分かる。

でも、この曲は「狂ってるのは君のほう」っていう。
自分を狂わせてくれる存在に向かって、「狂ってるのは君のほう」っていう。
「狂っている」のは「僕」ではなく「君」なのではないかという視点の逆転。
ここには、消費されるアイドル-消費する私という関係性とは違うものがある。と思う。




ア イドルは、どんなに辛くても、どんなに罵られても、いつも笑顔で、かわいくて、清純で、穢れがなくて、「応援してくれてありがとう」「みんな大好き」って 言ってくれる。アイドルに狂気は許されない。アイドルはいつも大丈夫じゃないといけない。誰が抱えているどんなキモさにも伝染せず、かわいいままで、誰の 傷も劣情も、笑顔で受容して、浄化して、昇天させてあげないといけない。狂ったって、「あいつ狂ってんなwww」って愛でさせてあげる程度の狂気じゃない とダメだ。

そんなアイドルという存在に対して、この曲は狂気を認めるのだ。
一緒に狂っているのではなく、「狂ってるのは君のほう」。
それはきっと「wwww」で清算し、容易に消費できるような狂気じゃない。
こ の歌詞は、アイドルの中に、「私」では処理できない、消費できない場所がある、届かない場所があるって言ってる。それは、アイドルの「自分の手に負えな い」部分、アイドルという存在の中に、自分ではうかがい知ることのできない何かが存在しているということを認めるということだと思う。


私 はもも推しだけど、私はもものブログもチェックしてないし、ももが出てるテレビを頻繁にチェックするわけでもな。私はももち結びをするももの頭の良さ、あ の尊いプロ根性が好きなはずなんだけど、だけど、やっぱりももち結びじゃないももが見たくて、Buono!のライブのDVDを見ては、「ももち結びもいい けど、ももち結びじゃないももはこんなにかっこいいんだ」ってずっと呟いてる。
なんていうか、私は自分にとって都合の良い部分の「もも」だけを楽しんでいて、きっとそれはももに対してだけじゃないくて、さゆに対しても、娘。に対しても、ベリに対してもハローに対しても、それ以外に対してもきっとそう。
私はアイドルの「イメージ」から自分に都合のいい部分だけ見つめては、それを楽しんで、ひたすら萌えてるだけだ。
だけど、大森さんはそうじゃないんだろうなって思う。

大森さんにとっては、一対一でぶつからせてくれる世界を持っているのが「さゆ」だし、大森さんにとってさゆはただの萌えじゃない。
さゆは、「自分に都合の良い」自分の作り上げた欲望ワールドに降臨し、その存在を認めてくれる女神ではない。
『ミッドナイト清純異性交遊』は、さゆという偉大なる世界を前にして、じゃあ、私の世界はどう変わるのかと、さゆという人が作り上げた世界に真摯に向き合い、正面から対峙しようとしている。



   いつまでも大きい瞳で大丈夫な日の私だけを見つめてよ




この歌詞に、私はとてもぐっと来て、ここで、私はさゆというよりも、もも(=私のアイドル)を思い出した。

私 はライブに行ったら結構暴れてしまう方で、大声で叫び、サイリウムを振りまくり、飛び跳ねては、隣の人にぶつかって「すみませんすみません」ってなってし まうので、その点では思う存分「狂って」しまうタイプなんだけれど、一方で、ライブに行く時も、アイドルの曲を聞く時も、 かっこ悪いところとか、自分のグズグズした部分をあまり見せたくない。アイドルの曲を聞きながらヘタレているのは嫌だ、という気持ちも持っている。
アイドルはステージの上でも曲の中でもいつも大丈夫だから、その目に大丈夫でないヘタレている部分を晒したくない。

上記の歌詞には、そういう、私は、アイドルに会うために大丈夫でいるんだ、というような感覚を思い起こさせられた。

この「大丈夫」は「狂っている」ことと対になっているのかもしれない。と思う。
すなわち、この曲は「狂う」のではなく、「大丈夫」でいるためにアイドルを見つめている。
きっと、この曲は、アイドルに話しかけると同時に一人の女の子に話しかけている。

アイドルなんて水商売だ。水ものだ。浮き沈みの激しい芸能界の中で、時に忘れられて、ネットで、ライブで、握手会で、時に彼女たちは好き勝手に罵られたり、貶められたりする。歪な欲望に晒されて、坊主になって泣きながら謝ったりする。
アイドルとして正しいことは時に、女の子を傷つける。
それでも「大丈夫」でないといけない。
それがいびつでかわいいアイドルの世界だ。


この曲では、そんな世界に身を置くアイドルと、そのアイドルを応援するファンが、「ファンの前では大丈夫でいないといけないアイドル―アイドルには大丈夫な日だけを見せたいファン」というような関係性を形成している。
ここには、ただ消費し、消費されるような一方通行な関係ではなく、お互いに「大丈夫」であるために、「大丈夫さ」を保つために、見つめ合っている、そんな関係性がある。

アイドルと一対一の関係を築くというのは、割と難しいことなのではないかと思う。
ど んなに握手会に行ったって、アイドルとファンは一対一じゃない。アイドルを応援する人は多い方がいいに決まっている。私はさゆしか見てなくても、どんなに さゆが一人ひとりのファンを大切にしていても、さゆは私しか見てないわけじゃない。アイドルとの間にどんな関係を築くのか。それはすべてファンたる自分に 任されている。
応援するのも、飽きるのも、私次第。「私は所詮、多数のうちの一人だ」という意識は、オタとしての心得であり、アイドルを本気で好 きにならないようにするための歯止めであり、「私一人くらいファンやめたってどうってことない」という、ファンを止める時のための保険や逃げ場でもあると 思う。
でも、この曲は、「「私は」さゆが好き」という気持ち一つで、さゆとは何か、さゆとは誰かを真正面から考えようとしている。
而も、この曲はそれを歌にしている。
自分だけの気持ちを歌にして不特定多数に晒している。

この曲は歌うことを通してさゆに向き合い、さゆと同じ世界に生きているのだということをかみしめ、さゆを愛し、さゆのために生み出した世界を、さゆを生み出したこの世界に返そうとしている。





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きっと、道重さゆみほどに「大丈夫」であるアイドルは他にいない。

さゆは自分の頭で考え、自分の目で夢を見て、自分の手で「道重さゆみ」というアイドルを作り上げてきた。

こんうさピー(さゆがやってるラジオ)で泣き出してしまうさゆに、「春を殺」して作り上げられた、さゆというアイドルの裏にある辛さ、色んなものを呑み 込まなければ生きて行けない、アイドルという世界のむごさを垣間見た気もした。
けど、さゆは、どうしても止まらない涙に呑み込まれることなく(呑み込まれ たところをファンに見せることなく)、11年も娘。であり続けて、毒舌キャラでお茶の間に切り込んでは「モーニング娘。」の名前を世間に刻み付け、リーダーとして娘。を引っ張ってきた。

そんなさゆだから、「大森靖子」という人をこんなに真摯にさせて、こんな凄い曲を作らせたんだと思う。
相手が「大森靖子」だから特にそうだっていうのもあるけど、一人の人間を真摯にさせるって結構難しいことだ。
しかし、道重さゆみというアイドルの姿と美学は、きっと色んな人を真摯にさせている。

ガキさんがいなくなても、あいかがいなくなっても、れいながいなくなっても、私がずっと娘。から目を離せなかったのは、主にさゆのせい。
私、まだ「絶対彼女」と「ミッドナイト清純異性交遊」しか聞いてないけど、大森靖子にだだハマりしてて、私が大森靖子を聞き始めたのもさゆのせい。


さゆは色んな人を娘。に惹きつけ、娘。から目を離させなかったし、ファンにとっての娘。を娘。であり続けさせてくれた。

そんな道重さゆみというアイドルが、これから、どんなモーニング娘。を完成させるのか、モーニング娘。という枠組の中でどんな「道重さゆみ」を完成させるのか、娘。という枷が外れた後には、どんな姿を見せてくれるのか。
さゆには無限の可能性を感じて仕方がない。
 

※この記事は、ニワノトリブログ http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/5/2に公開したものです。道重さんのモーニング娘。卒業発表直後に書きました。

 

 

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