「○○でもいい」……東京の引力と少女の駆け引き /大森靖子「少女3号」@『絶対少女』の感想
大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ
大森靖子『絶対少女』の6曲目、『少女3号』の感想を書こうと思います。
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『絶対少女』の6曲目、「少女3号」。
5曲目(「Over The Party」)に比べれば、リズムも言葉もゆるやかになって、他の何者も傷つけないような言葉が並べられている……ように聞こえる本曲。
この曲の歌詞でフィーチャーされてるのは、「悪い街でもいい」というフレーズだ。
http://oomoriseiko.info/zettaisyoujo/music_6.html (動画がなかったので歌詞へのリンクをはりました)
悪い街でもいい
ここにあるのは「…でもいい」という肯定。
前の曲では、「メアドが変だから好きじゃない」とか、「エッチまでしたのにふざけんな」とか、色んな根拠をすべて拒否の方向へハンドルを切ろうとしていたのに、この曲では、方向が逆方向に切り替わっていて、ちょ、急にどうしたどうしたw ってなります。
■「あなたがいれば」→「それでも変わってしまうの」――前半から後半への展開について
この曲は全7行のとても短い曲です。
それでも、この短い7行の中で、「わたしの名前も変わってしまうの」という1行目は、6行目には「わたしの名前もさらってくれるの」と変化する。
この曲の前半。
わたしの名前も変わってしまうの Feat.赤い花 少女3号
揺れる心を支えてくれた あなたがいればここは東京
悪い街でもいい
「名前」とは他の誰でもない「わたし」を証明してくれるものだ。
しかし、東京という人に溢れた街の中では、「わたし」以外の他の誰でもない「わたし」は、「少女」「3号」という単なる記号に置き換えられてしまう。
そんな、「わたしの名前も変わってしまうの」という、たゆたう不安は、この曲の前半では、「揺れる心を支えてくれた あなたがいれば」という、あなたの存在、あなたとの関係、あなたへの気持ちによって支えられている。
しかし、二番(?)の歌い出しは「それでも変わってしまうの」。
詳細は分からないけれど、「揺れる心を支えてくれた」あなたは確かにいたはずなのに、何かが変わってしまったらしい。変わったのは、あなたとの関係なのか、あなたへの気持ちなのか。ここで、「心」は支えを失って、また揺れ出したようにも見える。
それでも変わってしまうの Feat.音楽 But少女はNo
悪い夢をみている
どんな夢も、支えも、存在も、ふとした瞬間に姿を変えてしまって、悪い夢と化す。
変化の早い東京の街では、「わたし」あるいは「少女」は、「悪い夢」しか見られないのかもしれない。
■「東京」に晒される「少女」
東京は「わたし」を「少女」にする街だ。カテゴライズする、と言い換えてもいい。
「少女」であること、若くて無垢な女であること。そこには価値がある。「少女」は色んな人に求められる。
けれど、「少女」はそれ自体が記号だし、少女であれば、それは1号でも2号でも3号でも何号でもいい。
「わたし」を「少女」にする「あなた」がいる限り、「少女」は色んな「あなた」に出会えるけれど、「あなた」に出会える「少女」は「わたし」だけではない。
大 森さんの解説に綾波レイの「私は死んでも変わりはいるもの」ことが書いてあったけれど、綾波レイだって、もはや、この先数十年、あるいはもっと、もしかし たら半永久的に、日本からも世界からもその存在が消え去り、忘れ去られることはないだろう。しかし、それでも、彼女は、包帯を巻いた美少女として、「私は 死んでも変わりはいるもの」という代名詞をたずさえて、萌えキャラとして、様々な場所に増殖し続けることになるのだろう。
「少女」の裏には常に、一人の「少女」をただの記号にし、記号化されえない部分をズタズタに引き裂いてしまうような、「悪い夢」への引力が潜んでいる。
上記の歌詞に続く最後の2行で、最初に「変わってしまう」ものであった「わたしの名前」は、「さらってくれる」ものへと変わる。
わたしの名前もさらってくれるの
But少女はずっと少女3号
「わたしの名前もさらってくれるの」
この6行目の歌詞にあるのは、「悪い夢」を見てしまう「わたし」の目を、脳を、存在を、「名前」ごとさらってくれる、そんな東京という街への期待かもしれない。
■「But」「でもいい」という肯定
じゃあ、最後の「But少女はずっと少女3号」は何を意味しているんだろう。
それは、たとえ「名前」をさらわれても、少女3号は3号であって、1号でもなければ2号でもない、4号でもなければ5号でもないということなのだろうか。
そ れは、「わたしはわたし」ということなのかもしれないし、3号は永遠に3号で1号(1番)にはなれないよという自虐なのかもしれないし、どんなに頑張って も「わたし」は「わたし」以外にはなれないという諦念なのかもしれないし、少女は少女である限り、「3号」的な記号であることから逃れられないのだという 怒りなのかもしれない。
この曲の中には、「少女」として生きながらも、「少女」という記号という記号の受け入れがたさに身を捩ってもいる「少女」の姿があると思う。
悪い街でもいい
少女はそうして、街を肯定しなければ、東京では生きていけないのかもしれない。その街に生きる「わたし」すら肯定できないのかもしれない。そうやって肯定することは、もしかしたら、悪意にかじを切ることよりも、辛くて苦しいことなのかもしれない。
しかし、同時に、「悪い街でもいい」というフレーズの文字の大きさには、それでも、この街で生きることを何とか肯定してやろうという、少女の意地みたいなものも見えていると思う。
少女の「悪い街でもいい」。そう思わせてくれるほどに、「揺れる心を支えてくれた」「あなた」との関係や、「あなた」への想いは、きっと少女にとって単なる記号ではない。ここには、それらを「悪い夢」に、都合よく回収させやしないという意地がある気がする。
「悪い街」で、変えて欲しいものと、変えて欲しくはないものを見誤らずに、生きていくのはきっととても難しい。
けれど、東京という街には、それでも、その難しさを一つひとつ解きほぐしながら、生きていきたい、そんなことを思わせる魅力があるのかもしれない。
そんな東京の引力と少女の駆け引きが見られるのが、この「少女3号」という曲である気がする。
※この記事は http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/5/11に公開したものです。