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きらきらきらい≦プリクラ≧進化する豚 /大森靖子「婦rick裸にて」@『絶対少女』の感想

大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ

 

 

今回は、7曲目、『婦rick裸にて』の感想を書こうと思います。


■「嫌い」→「好き」→「嫌い」→「好き」→「嫌い」


『絶対少女』の7曲目、「婦rick裸にて」。

この曲について考える前に、この曲に至るまでの流れを、歌詞の一部分を抜き出しつつ、(恣意的に)並べてみた。

3.エンドレスダンス(きらきらきらい)→ きらい
4.あまい (なるべくずっとこうしていようよ)→すき
5.Over The Party(エッチだってしたのにふざけんな)→きらい
6.少女3号(あなたがいればここは東京 悪い街でもいい)→すき


3曲目から6曲目をかなり単純化して並べてみると、それぞれの曲からにじみ出る感情は、「きらい(好きじゃない)」→「すき」→「きらい」→「すき」と、交互に並んでいるように見える。

この並びで行けば、7曲目の「婦rick裸にて」は「きらい」になるわけだが、まさしく、そして、この曲は「きらい」の方向にベクトルが向いている曲だと思う。
そして、「婦rick裸にて」で描かれる「きらい」という感情は、「エンドレスダンス」より、「Over The Party」より、鋭角で、とりつくしまもない気がする。



「婦rick裸にて」の歌詞と解説はこちら


「エンドレスダンス」では、相手のことを「おぼえていないふり」をしながら、相手を「好きじゃな」くなる瞬間を探していた。
「Over The Party」では、「メアドが変だから好きじゃない」と、(良好な)関係の「おわり」が宣言され、そうした宣言へと彼女の背中を押す暴力的なエネルギーが爆発していた。

しかし、「婦rick裸にて」の「私」の中で、すでに「君」との関係は終わっている。
「エンドレスダンス」や「Over The Party」は「好きじゃない」にせよ、侮蔑にせよ、相手に向かって何らかの感情のこもった視線を向けていたけれど、この曲では相手に対して抱いていた感情が放棄され、「君」は「どうでも」よくなっている。


 付裏苦楽で君なんてどうでもいいから
 明日友達をやめましょう
 明日のケンカの理由なら お金のことにしときましょう
 本当は彼氏のことだけど はやく1000円返してよ


「彼氏のこと」というケンカの本当の理由。それはおそらく、複雑で面倒くさい問題で、それについてケンカをすることは「私」の感情を乱したり、傷つけたりするだろう。
しかし、「私」は「お金のことにしときましょう」という。
感情のやり取りから、金のやり取りへ。
「お金のことにしと」くことによって二人の間にある関係は、貸したものを返してもらえばそれで終わり、というシンプルなものと化す。
ふたりの関係がお金に換算されることで、「私」と「君」の間にある様々な事情、読まなければならない空気や相手への気遣い、好意、嫌悪、憎悪といったものは払い落とされ、清算可能なものになる。

「私」は、「エンドレスダンス」や「Over The Party」のように、何らかの感情をもって「君」を見つめようとはしない。
この曲が興味を持っているのは、「君」ではなくて、「君」によって「私」の中にもたらされた、「ふくらみすぎた」感情や思いを、どう清算するのか、どういう方向に持っていけるのか、それだけのように見える。


しかし、これは、逆に言えば、「清算可能」で「シンプル」なものに置き換えざるを得ないほどに、「私」の中で、「君」に向けた感情が膨れ上がってしまったということでもあるのだと思う。
手に負えなくなるほどに「私」の「君」に対する感情はぐつぐつと煮えたぎっていて、「私」は自分の内側にあるそうした感情に付き合いきれなくなったのかもしれない。
だからこそ、「私」は関係の清算を試みるのだ。

 ふくらみすぎた そのぶん笑うよ

ひたすら悪意に沈み、黒い感情に駆り立てられるだけではなく、「ふくらみすぎた そのぶん」をどうやって清算するのか。
お金に置き換えたり、笑ったり。
この曲は「ふくらみすぎた」よくない感情に対して、どのような処理を講じるのか、その方法をずっと考え続けているように聞こえる。



■「プリクラ」について

この曲の1番で、「私」はすでに「君」を諦めていて、「君」がもたらした「ふくらみすぎた」自分の中の感情の対処法ばかり考えているけれど、まだ「君」という単語そのものは出てきていた。

しかし、2番では「君」という言葉すら出てこなくなくなる。

1番で「君」へ向けられていた視線は、「大人」へ向けられて行く。
一番では、「友達」との関係が清算されようとしているが、二番では「大人」が清算されようとしている。


 大人になってからみる夢は NHK教育の番組みたい
 はやく大人をやめましょう はなから大人をやめときましょう
 大人の病気はややこしい チョコレイトを食べてもなおらない
 交通事故死した弟のことでずっと病気です



このように、1番の「明日友達をやめましょう」という歌詞は、2番では「早く大人をやめましょう」に変わっている。
この歌詞を読む限り、「大人」になることは、ややこしくて厄介な上に夢がないようだ。
しかし、ここでいう「大人」や、「大人の病気」とはなんだろう。


ここで、この曲のタイトルについて考えてみたいと思う。
この曲のタイトルは「婦rick裸にて」だ。
読み方は「プリ(ッ)クラにて」(おそらく)。

なぜ、ここで唐突にタイトルのことを持ち出して来たのか。それは、「プリクラ」が「大人」のものではないし、「プリクラ」が一番の歌詞には出てきても、二番の歌詞には出てこないからだ。
一番に出てくる「プリクラ」はすでに上記で引用していて、「付裏苦楽」は「プリクラ」と読む(たぶん)。

 アイドルになりたいな 付裏苦楽で君なんてどうでもいいから

「プ リクラ」なんてもう何年も行ってないのでよく分からないが(私ももう大人なので!)、自分がティーネイジャーだったことを思い返せば、プリクラというと、 基本的には「友達」と撮りに行くもので、だいたい、写真を撮り終わったあとの落書きタイムには、「なかよし」とか「ずっとともだち」とかそういうスタンプ を押しまくると相場が決まっている(と思う)。
最近の若者事情はよく分からないが、表現が「ズッ友」に変わったとしても、プリクラに映し出されるべき 関係性、みたいなものの方向自体は、あまり変わっていないのではないかと思う(メンタリティは大分変わってると思うけど……)。

し かし、 そのようなプリクラに映し出されるべき「友達」なんて、そもそもスタンプとして「友達」とか「ずっと仲良し」というのが用意されている時点で、すでにすご く規範的で、プリクラには、「一緒にプリクラに入る人とは「友達」で「ずっと仲良し」でなければならない」(少なくともプリクラの箱の中では)という強迫 観念みたいなものが付随している。

だから、プリクラのカメラの前では仲良さげなポーズをとれたとしても、本当に「仲良し」であるかどうかは分からないし、その裏ではむしろ、「君なんてどうでもいい」「明日友達をやめましょう」という気持ちが渦巻いているのかもしれない。
ゆえに、プリクラはたんなる「プリクラ」ではなく、色々な感情の渦巻く「付裏苦楽」なのであり、そこに映っているのは、むしと、友達と見せかけた女性たちの、もっと剥き出しのえげつない関係性の方なのかもしれない。


この曲の一番では、そういう、「プリクラ」に映し出された笑顔の裏に渦巻く感情を「1000円返してよ」に置き換えたり、や「笑」ったりすることによって、なんとか処理しようとしている。



■プリクラから大人へ


そんなプリックラな一番に対して、二番は、「大人になってからみる夢は」と始まる。
すなわち、「大人になる」ことから始まるのだ。

二番の歌詞をどういう解釈をするのか、人によってすごく分かれるところだと思うのだけれど、私は、「プリクラ」を撮るような「子ども」(若者)だった「私」が、二番で「大人」(の年齢)になったんだろうと、解釈をした。
一番では、「はやく1000円返してよ」と、(たった)1000円が友達である/ないの境界線になっている。
子どもの頃のプリックラ的な病気は、ある意味、「1000円」という力技でなおせるものだったのかもしれない

対して、「大人の病気」は、「チョコレイトを食べてもなおらない」ほどに「ややこしい」。


 大人になってからみる夢は NHK教育の番組みたい
 はやく大人をやめましょう はなから大人をやめときましょう
 大人の病気はややこしい チョコレイトを食べてもなおらない



子どもの頃に見ていた「(NHK)教育の番組」が、大人になってからみる「夢」となる。
それは、「将来の夢」的な夢なのか、夜に見る夢なのか。
ど ちらにせよ、NHK教育的な表現法や世界観、価値観は「私」の中に沁みついていて、それは「大人になっ」た私の前に、夢となって姿を現す。「私」はいつま でも、NHK教育的な世界から逃れられない。教育は子どもを大人にするために施されるものだから、大人になった私の中にNHK教育が浸み込んいるのならそ れはNHK教育の成功であるし、いつまでも、NHK教育の世界から逃れられないのなら、「私」は永遠なる子どもで、真の大人にはなれないのかもしれない。


一番で「友達」が諦められていたように、二番では「大人」(になること)が諦められている。
しかし、「友達」と違うのは、「大人の病気」は「ややこし」くてなかなか「なおらない」こと、そして、「友達」が「君」という他者であるのに対して、「大人」は「私」自身でもあるということだ。
二番の歌詞で、「私」は「大人をやめましょう」と「大人」というものを客体化しようとしているけれど、「大人」をうまくやめられない限り、「私」は「私」が「大人」であることからは逃れられない。
「友達をやめ」ることは、「明日」にも可能だったけれど、「大人をやめ」ることは明日すぐにというわけにはいかない。
一刻も「はやく」やめるか、「はなから」やめるか。
「はやく」やめるにしても、終わらせる方法が分からないならやめられないし、「はなから」やめるというのは、すでに「大人」が始まってしまっている以上は難しい。

「友達」との関係の場合、関係を「お金」に換算することで、問題をシンプルにしようと試みることができた。
しかし、「大人」との関係の場合、「大人」は「私」 自身の内側にもいるので、関係性をシンプルな、換算可能なものに置き換えたところで、「換算不可能なもの」は自分の中に体積していくばかりで、終わりは見えない。
1番で「友達」に向けられていた「きらい」は、「大人」に対して向けられることで、どんどん、「私」の内側に対して堆積していく。


 誰かの不幸をねがうこと それが私の幸せよ
 ふくらみすぎた そのぶん歌うよ


ここで、「私」の「きらい」という悪意の対象は「君」から「誰か」へと移行している。
「大人になってからみる夢」も「病気」も、プリクラのように何かに映し出されるわけではない分、抽象的でつかみにくいから、対処法が分からない。「大人の病気」は、「君」との関係を変えれば解決するとか、そんなシンプルなものではないのだ。
そうして処理しきれない「病気」が「誰かの不幸をねがう」という、呪いのような「私の幸せ」につながっていく。
「私」の悪意は、「君」へと直線的に向かうのではなく、私を「大人」にする、もっと不特定多数な誰かへと、放射線状に広がって行く。


■笑う→歌う


しかし、最後の最後で、この歌は、一つの「私」なりの「対処法」的なものを提示している。
というのも、

1番の

 ふくらみすぎた そのぶん笑うよ


という歌詞は、2番では、

 ふくらみすぎた そのぶん 歌うよ

に変化している。
「笑う」という行為は、何を笑うのか、対象が明確だ。
対して、「歌う」という行為は、何を歌うのか、誰に向かって笑うのか、「笑う」という行為に比べれば、対象があいまいだ。
しかも、「笑う」は感情の爆発であるのに対して、「歌う」は、感情や思いを具体的に言葉にして、誰かに伝わる形にしなければならない。
プリクラの「なかよし」スタンプのような決まりきったテンプレに自分を当てはめるのではなく、自分で自分の言葉をつくり出さなければ、何も形にならないし、伝わらないし、保存されないのだ。

この曲は、2番において、「病気」を「言葉」に換算することで、自分を病気にする何らかのエネルギーを外に向け直そうとしている。といえると思う。
1番では、「ふくらみすぎた」ものに対して、「お金のことにしときましょう」とか「笑う」という対処法を講じていたけど、2番では、2番の歌詞を歌うことそのものが、対処法の模索になっている。

この曲では、「君なんてどうでもいいから」と「私なんてどうでもいいから」の境界が曖昧になりかけたときに、私を「どうでもよくない」ところに留めようとする、そんな曲だと思う。

 

この記事は、http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/05/18に公開したものです。

 

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