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私のスケール/大森靖子「展覧会の絵」@『絶対少女』の感想

大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ

 

 

今回は、11曲目、「展覧会の絵」の感想を書きたいと思います。




(「展覧会の絵」は、2:20くらいから始まります)。
(歌詞と解説は こちら )



■個人的に好きな一節

この曲の歌いだし。


  有刺鉄線の向こう側の大学の
  知らない言葉を使う男が
  海へ行こうよって言っている気がした
  私は彼の喉仏を睨んだ



「私は彼の喉仏を睨んだ」というところが凄く好きだ。
「海へ行こうよ」という言葉、その言葉を発する(かもしれない)喉仏、外側に張り出した「喉仏」が示す男と女の身体の差異。
それらを総じて睨みつける「私」。
有刺鉄線越しに、知らない大学の男を、ストロー噛んで睨んでいる大森さんの姿を(勝手に)思い描きながら、私は、自分の中に時々生まれる感覚を思い出した。
喉仏とか、髭とか、性器とか。ふとした瞬間に、男性しか持ってない器官を、恨んだり、愛でたり、痛めつけたりしたくなることがある。
それは、「私にないものを持っている」といううらやましさや妬ましさと、「お前にはどうしたって私を分からない」という恨みと優越感が入り混じった感覚だ。
そういう感覚を、総じて「睨む」というのかもしれない。

「私」と「お前」の間に、"「私にはお前が分からない」/「お前には私が分からない」"という、どうしても踏み越えられない一線があることの爽快感(優越感)と絶望感。
展覧会の絵」という曲は、そんな裏表の感情を併せ持つ曲のような気がしている。

この曲は、「私」と「それ以外」の間にある境界線を殊更に強調したり、それを乗り越えたり、境界線の内側に引っこんだり、また、乗り越えようとしたりする。
この曲の19行の歌詞は、境界線をめぐってさまざまな展開をして、その展開の間に、その境界線に対する複雑な思いが滲み出している曲だと思う。
そして、その展開の仕方がとても潔くて、美しくて、私はとても好きだ。

なので、以下では、境界線を巡るこの曲の展開を、私なりに追ってみたいと思う。


■世界を真二つにする前半戦

この曲の一番は、以下の一節で終わる。


  世界は真二つだね バカみたいに あたり前に真二つだらけみたいだね


確かに、この曲の前半では、「世界は真二つ」なことが様々な方法で知らされている。

例えば、下記のような歌詞。

 「有刺鉄線の向こう側の大学の」

 「知らない言葉を使う男が」
 
「右の川沿いを私が ぬかるんだ左側をあいつらが」

「有刺鉄線」は、"有刺鉄線の向こう側/こちら側"を分け、「知らない言葉」は"知らない言葉(を話す世界)/知ってる言葉(を話す世界)"という二つの世界をつくり出し、「川」は"右/左”に世界を分ける。

「有刺鉄線」や「川」は世界を二つに割る境界線だ。
常に「私」は境界線が分ける世界のどちらかにいて、もう片方には「知らない言葉」が流通する、私にはあずかり知らない世界が広がっている。

このように、この曲の一番の歌詞には、「世界が真二つ」であることを示す単語がいくつも並んでいる。
上記の歌詞の中でも、特に「有刺鉄線」が面白い。
この歌詞の中で、「有刺鉄線」は風景だけど、同時に、ただの風景である以上の意味を持っている。
「有刺鉄線」が本来持っている意味は、部外者以外立ち入り禁止というくらいのものかもしれない。
けれど、「私」の目に映った瞬間、「有刺鉄線」の上には、私の大学/彼らの大学、知っている言葉/知らない言葉、私/彼、(女/男)というような、「真二つの世界」がどんどん重ねられて、「有刺鉄線」は色んな「真二つ」の象徴みたいになる。
「世界が真二つ」であるという「私」の感覚は、自分が見ている「有刺鉄線」の風景に重ねられるし、同時に、「私」は「有刺鉄線」という風景によって、「世界が真二つ」であることを思い知らされる。


■真二つになった世界を横断もする前半線

しかし、「有刺鉄線」のような境界線は完全なる隔絶を意味しているのではない。
この曲では境界線を横切るものについても、歌われている。
もう一度、この曲の歌いだしを引用すると、下記の通り。


  有刺鉄線の向こう側の大学の
  知らない言葉を使う男が
  海へ行こうよって言っている気がした
  私は彼の喉仏を睨んだ



ここで「私」は「向こう側」に「海へ行こうよ」というメッセージ的な何か(?)何かを読み取り、それに対して「こちら側」から「睨む」というアクションを返している。
ここでは、「海へ行こうよ」というメッセージ的な何かと、「睨む」という視線が、「有刺鉄線」という境界線を飛び越えているのだ。
世界は真二つだけど、「私」は「向こう側」を完全に無視しているわけではない。
「私」は、「有刺鉄線」という境界線を挟んで、「向こう側」の男と向かい合い、対峙している。
いや、二人とも同じ場所にいては、「対峙」することなどできないので、むしろ、「有刺鉄線」という「境界線」こそが、対峙することを可能にしているのだとも言える。


■「こちら側」という一つの世界を歌う中盤戦

一番の歌詞では、世界が真二つである様が歌われていた。
真二つの世界で、「私」は真二つの世界の「こちら側」から「向こう側」を見ている。
「向こう側」と正面に見合い、対峙している。

だが、二番では少し様子が違う。


  有刺鉄線のこちら側の大学の


と歌いだされるように、二番では、「こちら側」にいる「私」の世界のことが歌われている。


  すみの小さなアトリエで絵を描いている
  夢のなかで君と手をつないでみつけた
  真っ黒な海の絵を描いている
  展覧会にかざる絵は
  これが私の人生だって言うつもり



「私」が描く「真っ黒な海の絵」という「私の世界」。
ここに出てくる「君」は、「私」と「手をつないで」いる。
一番では、「私」と「彼」「男」「あいつら」の間に境界線が引かれていたけど、「私」と「君」はつながっている。

更に、手をつないだ、「私」と「君」は二人で「真っ黒な海」を見つける。
「見つける」という部分も、一番の歌詞とは対照的だ。
というのも、ここで、二人は同じ方向を見て、同じものを見て、同じ光景を見つけている。
それは、「私」と「男」や「彼」が有刺鉄線越しに向かい合って、視線を交わしていたのとは対照的であると言っていい。(と思う)

「私」にとって「君」は、「私」と同じ世界に立ち、同じものを見つめる、「こちらの世界」の住人だ(たぶん)。
「君」と「手をつないで」みつけた「真っ黒な海の絵」=「展覧会にかざる絵」とは限らない。
けれど、「これが私の人生だっていうつもり」というくらいなのだから、「私」は「絵」に「私」の「こちら側の世界」を映し、描き出そうとしているのではないかと思う。

一番が、「向こう側」と「こちら側」の間の境界線を強調していたのとは対照的に、二番では、私がいる「こちら側の世界」に焦点が当てられていて、その様態が歌われている。


■一つの世界を分かちもする中盤戦① 展覧会

しかし、「展覧会にかざる絵は これが私の人生だって言うつもり」という一節は、「私の人生」という「こちらの世界」について歌っているのと同時に、もう一度、世界を「真二つ」にし直す歌詞でもある。


  展覧会にかざる絵は
  これが私の人生だって言うつもり
  でも君のはしっこに勝てない気がした
  有刺鉄線の向こう側の



この曲が「夢のなかで君と手をつないで見つけた」風景を絵にしている「私」の様を歌っているように、現在進行中で「絵」を「描いている」瞬間というのは、それこそ「夢」のようなものなのかもしれない。
完成のその瞬間まで、「絵」を見るのは「私」だけだ。
「絵」の上には、「私」だけに見える風景、私の頭の中にだけある世界が広がっている

しかし、「絵」が完成して、「展覧会」に飾られる時、「絵」の中に描かれた「私の世界」は「私」だけが見る「夢」のようなものではなくなる。
展覧会の絵」は私ではない誰かに見せるために展示されるからだ。
額縁に入れられ、壁に架けられた展覧会の絵」は、その前に立ち止まった誰かの目と、向かい合い、対峙することになる。

そんな「展覧会の絵」と鑑賞者の関係は、一番で歌われていた、「有刺鉄線」越しの視線のやり取りにも似ている気がする。
「有刺鉄線」を挟んで「私」が「彼」を睨んだように、「絵」の鑑賞者は額縁越しに「絵」を睨む(同時に「絵」も鑑賞者を睨んでいるだろう)。
そ して、鑑賞者は、「私」が「海へ行こうよ」というメッセージ的な何かを受け取ったように、「これが私の人生だ」というようなメッセージ的な何かを受け取 る……可能性がある(もしかしたら、もっと違うものを受け取るかもしれないし、何も受け取らずにさっさと次の絵に行ってしまうかもしれない)。

「こちらの世界」という「私の世界」を描いていた絵は、「展覧会の絵」になった途端、「向こう側」の世界と対峙させられる。
「こちら側」にある「私の世界」は、いつまでも「一つの世界」のままではいられないのだ。
「こちら側」はいつか、その世界の外側の視線に晒され、相対化される。


■一つの世界を分かちもする中盤戦② 「君」

上で引用したけど、特に触れなかった、この歌詞。


  展覧会にかざる絵は
  これが私の人生だって言うつもり
  でも君のはしっこに勝てない気がした
  有刺鉄線の向こう側の



展覧会の絵」は、「こちら側」の世界を鑑賞者に対峙させることで、「あちらの世界」を「こちらの世界」に相対化させた。
それに対して、上記の太字の歌詞においては、「君(のはしっこ)」が、「こちら側」を内側から分裂させ、相対化していると思う。

夢のなかで、「私」と「君」は手をつないで、一緒に「真っ黒な海」を見つけた。
そして、「私」はそれを絵にした。
しかし、「君」と一緒に見つけたはずの「真っ黒な海」を描く「私の世界」=「私の絵」は、「君のはしっこにさえ勝てない」。

「私」が「夢」から覚めれば、「君」は「私の世界」の外に出て行き、「私の世界」とは違う「君の世界」を持っている人間として、「私」の前に現れるのだ。
「私と君の世界」は、「私の世界」と「君の世界」という二つの世界に分裂し、分離した「君の世界」によって、「私の世界」は、「はしっこにさえ勝てない」という敗北感を突き付けられる。
「夢」の中でつながれていた手はほどかれ、「私の世界」は、「君のはしっこにすら勝てない」自らのスケールの小ささを思い知らされるのである。

私の世界に溶け込み、一緒に同じ世界を見てくれる「君」から、「有刺鉄線」という境界線によって分け隔てられた「君」へ。
ここで、「こちら側」は、「君」によって相対化され、再び「真二つ」になるのである。


■真二つになった世界をちょっとつなげる終盤戦




(「展覧会の絵」は6:15くらいから。この「展覧会の絵」は終盤戦がすごい)

しかし、この曲は「私」と「君」を分裂させただけでは終わらない。
一番の歌詞では「睨む」という視線が「有刺鉄線」を飛び越えていたけれど、この曲の後半でも、「私」の「君」の間の「有刺鉄線」を飛び越えるものがある。
それは、「愛してるんだ」という気持ちだ。


  君のはしっこを
  はしっこだけを愛してるんだ
  3秒だけ You You You



しかし、「愛してる」のは「君のはしっこだけ」「3秒だけ」。
私が「愛してる」「君」はとても限定的だ。
「愛してる」という気持ちが「私」を「君」に繋げることを許すのは、「君」のほんの一部、ほんの数秒だけ。

この部分の歌詞は、聞く人によっていろいろと感じ方は違うと思うんだけど、私は、"私に愛せるのは所詮君のはしっこだけ"という哀愁を感じるし、同時に、ほかでもない「君のはしっこ」を愛することの尊さ、みたいなものも歌われているように感じる。

どちらにせよ、少なくとも、「私」は「君」のすべてを愛せるなんて思っていない(たぶん。
「私」は自分のスケールを過信していないのだと思う。
「私」は「君のはしっこにすら勝てない」というように、自分のスケールを小さく、小さく見積もってる。

どんな人間だって相手の100%を理解することなんてできない。
どんなに仲が良くても、人と人の間には、超えられない境界線がある。
境界線の向こう側には「私」の「知らない言葉」でできているような、「私」には理解できないし、掌握できない世界がある。
それは当たり前のことだと思うけど、時に人は過ぎた理解を相手に求めてしまうし、逆に、自分が相手を100%知っていると思い込んで、自分の思う「相手像」を相手に押し付けてしまったりする。
相手と自分の間に引かれている「有刺鉄線」を見落とした瞬間に、人間と人間の関係は歪になる。

だからこそ、ほんの一部分「だけ」を「愛している」ことが重要になるのではないだろうか。
「愛してるんだ」という宣言は、「はしっこ」だけ、「三秒」だけ、「君」と「私」の世界を交差させる。
しかし、本当は、ほんのわずかでも、人と人の世界が交差することは、とても難しいことなのかもしれないし、本当に誰かを愛せるのなんて、三秒くらいが関の山なのかもしれない。
「君のはしっこに勝てない」「私」が「君のはしっこ」を愛するということは、「私は相手のはしっこだけしか知ることができないし、愛せない」という現実を認識することでもあるし、「はしっこ」だけでも「君」を愛することにプライドを持つことでもある気がする。


展覧会の絵」は、あたり前に真二つだらけの世界を、「愛してる」という感情で少しだけ横断する。
「はしっこだけ」の君を愛してるんだ、と、「3秒」だけ全力をかけて、呟くように歌う。
この曲は、「真二つ」になった世界で、「こちら側」に閉じこもりそうになる自分に、「向こう側」の世界の存在を知らしめて、3秒だけでも「向こう側」と「こちら側」を交差させようとする、そんな曲であるのではないかと思う。

 

この記事は、http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/6/21に公開したものです。

 

 

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