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ニワノトリ

ハロプロ、大森靖子さん、宇多田ヒカルさん、amazarashiなどのJ-popの楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いているブログです。カテゴリ「このブログについて」に記事のまとめと更新情報があります。ご連絡はTwitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.comまで(http://n1watooor1.exblog.jp/は愚痴用になりました)。

“女の子に生まれたけど 私の一番似合うのはこの色”/大森靖子「KITTY’S BLUES」@『魔法が使えないなら死にたい』の感想

魔法が使えないなら死にたい 楽曲感想 大森靖子

※『魔法が使えないなら死にたい』の感想を一曲ずつ書いていっています。→ 魔法が使えないなら死にたい - ニワノトリ
※『絶対少女』の感想企画もやりました。→ 絶対少女 - ニワノトリ

 



大森靖子の1枚目のアルバム『魔法が使えないなら死にたい』の一曲目、「KITTY’S BLUES」の感想を書きたいと思います。

 

***






■はじめに

『魔法が使えないなら死にたい』の歌詞カードはカラフルで、曲によって背景の色が異なっている。
『KITTY’S BLUES』の背景は青い。くすんだような濃い青地に白色で歌詞が書かれている。青い背景に浮かび上がる『KITTY’S BLUES』という白い文字は、ハローキティの白色を連想させる。
『KITTY’S BLUES』直訳すれば、「キティのブルース」。もしくは、「キティの憂鬱」。
あの、つぶらな瞳で世界中の女の子たちを魅了するあのハローキティから、どのようにしていてこれほど沈鬱な「ブルース」が生まれたのか。
この記事では、歌詞を手掛かりにしながら考えてみたい。



■この曲の基本的な(?)構造
 ――具体的な行為→心情の定義

この曲では、冒頭からさっそくキティちゃんが登場するのだが、そのイメージは、簡単に「ハロー」と言えないくらい沈鬱である。
まず、歌い出しからサビの前までを引用してみたい。

  キティちゃんの白いところ
  6Bで塗りつぶす
  夢は汚いほどかなうもの
  かわいくないから 待ちぼうけ

  消しゴムでごしごしやってたら
  グシャって破れて ぼろぼろだけど
  私はこれでいいのよ
  私はこれでいいのよ


白色の猫として生まれ、製造されているキティちゃんは、歌い出しから黒く塗りつぶされる。
白いキティちゃんが、どんな目にあっているのか、この歌詞で歌われているキティちゃんに対する行為だけを取り出してみると、

キティちゃんの白いところを黒く塗りつぶす
 → それを消しゴムでごしごしやる
 → グシャっと破れてボロボロになる

という展開が見える。
この展開、すべて、あとに起きたことが、前の行為の意図を裏切っている。
「白い」キャラクターとして生まれたキティちゃんは「黒く」塗りつぶされ、「黒く塗りつぶす」という行為はその後に「消しゴム」をかけられることによって無駄になり、「消しゴムでごしごしやる」行為はそれが「グシャっ」となることによって無駄になる。
前に起きた行為はすべて、あとの行為によってその達成を阻止されるわけだ。
傍に立っている人がいれば、「さっきから、何、意味ないことやってんの」と冷たい目線を向けられてしまうかもしれない。

そうした展開を確認した上で、ここで着目したいのは、
①この歌詞が行っている「しりとり」と、②それぞれの行為の間に挟まれた「夢は汚いほどかなうもの」「私はこれでいいのよ」という独白にも似た心理描写である。


①しりとりについて
まずは、「しりとり」。
この曲の冒頭は、正確には「き・き・きてぃちゃんのしろいところ・ろ・ろ・ろくびーでぬりつぶす」と歌われており、「しろいところ→ろくびー」というしりとりを行いながら、一行目から二行目に移行していく。
このしりとりは、その二行下でも行われており、四行目から五行目においても、「かわいくないから まちぼうけ・け・け・けしごむでごしごしやってたら」というしりとりがされている。
このことから、最初に確認したような、「キティちゃんの白いところを黒く塗りつぶす → それを消しゴムでごしごしやる → ぐしゃっと破れてボロボロになる」という展開が、、音の上ではしっかり関連付けられ、連続したものとして捉えられていることが分かる。
「白いところを黒く塗りつぶし、そこにまた消しゴム」をかける、とは、行為だけ見れば、前の行為の意図と後の行為の意図が一致しない、バラバラで無意味な行為だ。
しかし、それらの行為は「しりとり」によって、結び付けられ、バラバラに見える行為も、この曲の内部においては連続した行為なのだということを言外に訴える。

この「しりとり」が象徴しているように、「一回塗りつぶしたものを消しゴムで消す」というような一見、一貫性に欠ける行為も、この曲の主人公の中では連続している。
す なわち、傍から見れば「何、意味ないことやってんの」と言われるような行為も、それをやっている「私」にしてみれば、それぞれに必然的な連続性があるので あり、白いキティちゃんは黒く塗りつぶしたくなるものだし、そんなキティちゃんを見たら消しゴムでごしごしする衝動に駆られるし、それは力を入れ過ぎてぐ しゃっとなるものなのだ。


②心理描写について
「しりとり」は時間的な遡及ができない行為である……要は、「しりとり」は「白いところ→6B」というように、前の単語があって初めて、それに続く後ろの単語が生まれるのであって、特別なルールでもない限り、後ろから前へとさかのぼって行くことはできない。

①で書いたような、本曲の「しりとり」が「音」によって、前から行為の連続性を示しているのだとすれば、それぞれの歌詞の間にある心理描写は、後ろから行為の必然を保障する。
例えば、上記の引用の最後にある「私はこれでいいのよ」という歌詞。
この歌詞は、「グシャって破れてぼろぼろ」になるというキティちゃんの帰結を見届けた後に、「これでいいのよ」という肯定をする。
「私はこれでいいのよ」という言葉によって、キティちゃんを黒くぬったり、消しゴムをかけたり、それがぐしゃっとなってしまったり、一つひとつの行為が無駄になったり、うまくいかなかったりすることも含めて「私」になる。
「これでいいのよ」という私の心は、これまでの行為の矛盾や出来事の裏切りを包括し、人からは非難されてしまいそうな一貫しない自分自身の行為を私自身に納得させる。
それは、「夢は汚いほどかなうもの かわいくないから待ちぼうけ」という歌詞においても同様で、この歌詞は、白いところを塗りつぶす理由を、「私」なりに述懐し、説明しているようにも見える。

このような
・前半:具体的なもの・行為を歌う/一行目と二行目の間には矛盾や切断が見られる
・後半:抽象的な心情を歌う/上二行の矛盾する行為を自分に納得させる(ようにも見える。)
という構造は、冒頭の引用だけでなく、『KITTY’S BLUES』という曲の中にいくつも見られるものであり、この曲の基本的な構造と言ってよいのではないかと思う。

**

このように、この曲は、他の人から見れば矛盾していたり意味がわからなかったりするであろう私の行為に、しりとりや心理描写によって、一貫性を与える、そんな試みを行っている曲である。



■心の形

上記のような構造……矛盾しているかのようにも見える行為が、最後の二行によって「私」に統一される……というような構造は、本曲のサビにも見られる。

  交番に引きずりこまれて
  わけもなく いいわけをした
  スカートから零れるブルースが
  みつからないように
  みつからないように


単純に解釈すれば、「スカートから零れるブルースがみつからないように」というのが、「わけもなく いいわけをした」わけ(理由)である。
ここでも、「わけもなく いいわけをした」という行為のあとに、それを動機付け、説明するような「私の心情」がやって来ている。
恐らく、それは、二番にある「愛だっていえるくらい ちゃんとしたい ぼろぼろだけど ちゃんとしたい」もそうである。

ここで特筆すべきは、前述のとおり、そうした自分の行為を自分に納得させるような「私の心情」が、すべて、行為の後に紡がれるということだ。
すなわち、「心情」(の説明)は、「行為」の後にやってくる。

恐らく、その「行為」を行う「私」は、実際にその行為を為している現在進行形のただなかにおいては、自分がなぜそんなことをしてしまうのか、自分でもよく分かっていないのではないかと思う。

「私はこれでいいのよ」
「スカートから零れるブルースが みつからないように」
「ぼろぼろだけど ちゃんとしたい」

これらの歌詞は抽象的だが、しかし、端的に「私」の何かを言い当て、説明している。
こうした、あとからやって来る、幾分、抽象的な心の叫びは、その前の行為を抽象的な言葉に置き換えることで、自分の行為に心を与える、あるいは、隠されている意味を発見しようとしているということができるのではないだろうか。
それは言い換えれば、自分の行為の中に、自分の心を見つけだすということができるかもしれない。

『KITTY’S BLUES』は、きっと「私」の「行為」とそれを自分に納得させる言葉を併せて歌い上げることで、見えない心が形になるまでの過程を「ブルース」としてしたためた曲なのだ。


■過去ではなく果てを見るブルース

それでは、そうした、見えない心を形にするような「ブルース」はどうして生まれたのだろう。
この曲には、こうやって「ブルース」が生まれたのかな……と解釈できなくもない歌詞が出て来る箇所がある。

  ちょっと古いうたを聴いても
  懐かしくならないで

  悲しみの果ては おまわりさん
  この道の果て
  BLUE BLUE
  ブルース
  ぶら下がって 揺れる夢


シンプルに、「BLUE」が二つでブルース……なのだとすれば、道の果てを埋め尽くすような「BLUE」を目撃したことが、「私」にブルースを歌わせるのかもしれない。

上記に引用した歌詞は曲調として、他の部分とは異なっているいわゆるCメロに当たる箇所になるかと思うのだが、歌詞的にもこれまでに引用してきたような歌詞と異なる特徴がある。
と いうのも、他の部分の歌詞が、どちらかと言えば現在形に近く、現在、あるいは、最近、「私」に起きていることを描写していているように見えるのに対し、上 記の歌詞では、「懐かしさ」や「果て」のような、「過去」をふり返ったり、「先(未来)」を見たりするような視線が入り込んでいる。
そして、ここでは古い歌を聴いて懐かしむ「過去」への気持ちは否定され、ノスタルジーへの安住ではなく、この道の果てにある、あるいは、この道の「果て」を見つめることの「BLUE」が歌われる。
この歌詞は、まるで、過去を向いた首を無理やり前に向かせ、その向こうにあるBLUEをその目に見せつけ、絶望を突き付けているかのようだ。
恐らく、過去への安寧と決別し、その道の果てにあるBLUEに身を晒したとき、「私」は「私」の悲しみを歌い上げる「ブルース」を手に入れたのではないだろうか。
すなわち、「私」の現在を懐かしい過去の延長としてではなく、そこから脱出しようともがき苦しむ「果て」への過程として位置づけようとする時に、「ブルース」が生まれるのではないか。

掠れた声で歌い上げられる「この道の果て BLUE BLUE ブルース」という歌詞は、「私」の心……私の抱えるもがきや悲しみ、苦しみ=BLUESに言葉を与える、「私」の「ブルース」が生まれるまさにその瞬間を再現するものであるかのように聞こえる。


■「私」のブルースから「KITTY’S BLUESへ」

この曲は最後に、もう一度このサビを繰り返す。

  交番に引きずりこまれて
  わけもなく いいわけをした
  スカートから零れるブルースが
  みつからないように


「私」のブルースは「私」のスカートから零れ出す。
恐らく、「私」は「私」の「BLUES」を抱えきれていない。
「私」からあふれ出す「BLUES」は、「私」にキティちゃんを塗りつぶさせたり、それを消しゴムでごしごしやらせたり、「私」を交番に引きずりこませるような行為に掻き立てるだろう。
しかし、そうした行為を貫く「私」の「ブルース」は「私」だけのものだ。
だから、「私」は、「私」の「BLUES」を誰かに踏みにじられたり、汚されたりしないように、「わけもない」言い訳を並べて、見つからないように隠そうとする。

しかし、最後の最後で、この曲は以下のように歌う。

  HELLO 馬鹿女 KITTY

「私」は何者かに「HELLO」と呼びかけられ、更には、「(馬鹿女)KITTY」という名前を呼ばれる。
一人でブルースを抱え込む「私」から、誰かに呼び掛けられる「私」へ。
ここで「私」には「KITTY」という名前が与えられる。名前を与えられることで、「私」の世界は一気に、「私」の名前を呼ぶ第三者のいる世界へと広がる。
しかも、そこで与えられる称号は「馬鹿女」だ。
しかし、「馬鹿女 KITTY」という名前が、「私」に相応しくない……すなわち、「私」が「それは私の名前だ」と認識しうるものでなければ、その呼びかけは「私」に届かない。
「馬鹿女KITTY」という呼びかけに答えることによって、「私」は「私」を「馬鹿女」として世界に位置づけ、「KITTY」という名前を手に入れる。
きっと、この最後の一行は、「私」だけの世界の外側で生じる、「私」と「私」の名前を的確に呼ぶ「誰か」との出会いを意味している。

この曲の最後、誰かに名前を呼ばれることで、「馬鹿女KITTY」はスカートからこぼれ出すブルースの中から白く浮かび上がる。
この歌の先には、きっと、「馬鹿女 KITTY」という呼びかけにふり返った「彼女」と、「彼女」に呼びかけた誰かとの出会いが待っているのだろう。




※タイトルは宇多田ヒカルの『BLUE』の歌詞から取りました。
 『心の形』は、梨本うい(あらいやかしこ)の曲のタイトルです。







■あとがき

TwitterでこのブログをRTしてくださった方のツイートで知ったんですが、大森さんファン(オタ??)の方々のこと、KITTYって呼ぶんですね。
確かに、この曲は大森さんのことを本当に……というと語弊とか誤解が生まれそうですが……好きな人たちの曲なのかもしれないなあと言う気がします。

『魔 法が使えないなら死にたい』全体に言えることなんですが、『絶対少女』は全体的にポップで外向きで一般向けの部分がかなりあったと思うので、私としても比 較的聞きやすかったんですが、『魔法が使えないなら死にたい』は私にとってはハードル高いです。共感したり、入り込んだりできる部分は『絶対少女』よりか なり少ない……でも、それでも、もう少し大森さんの曲に近づいてみたかったので、感性というよりは理屈(?)で迫ってみたけど、そうすることによって更に 距離が遠のいていくような気もする。


■一緒に聞きたいハロプロ

私はまだまだKITTYは名乗れなさそうですが、ハロオタ(6級)くらいは名乗れると思うので、無理やり、この曲と一緒に聞いたら面白いかもしれないハロプロ曲を紹介してみます。
いや、個人的に、大森さんの曲とつんくさんの曲って通じるものがあるような気がするんです。慰めてはくれないけど励ましてはくれるところとか……。

などと、大森さんとつんくさんの曲の共通点とか相違点について考えがてら、以下に二曲あげました。

今回はブルーつながりで。

①リゾナントブルー




確か、大森さんがハロプロにハマるきっかけになった曲だったのではないかと記憶しております。
「共通点とか相違点について考えがてら」とか言いましたが、曲としては「KITTY'S BLUES」と比べられるほど、重なる部分はあんまりないかなあという気がするんですが、言いたいのはただ一つ。
この中から、さゆこと道重さゆみを見つけてみて欲しい……! 


まっさらブルージーンズ



「KITTY'S BLUE」とはまったくテンション違いますが。
同じBLUEと言っても、こっちは、抜けるような青空ですし……。

でも、この曲で着目したいのは「まっさらぴんのブルージーンズ おもいっきり汚して そこから始まる神秘は 分析不能さ」という歌詞ですね。
いや、「KITTY'S BLUES」では、零れるブルースをスカートの中に隠そうとしていたじゃないですか。
まっさらブルージーンズ」は、まっさらなブルージーンズを汚すところから神秘が始まるんですよ。
なんか、同じ「青」を冠にした曲でもすごい真逆(?)なことを歌っている気がして一緒に聞くと何かゾクゾクします。

 

※この記事は http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/7/9に公開したものです。

 

 

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