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『絶対少女』の奥深く/大森靖子『絶対少女』の感想/その1

大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ

今回は総集編(?)です。

 

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■「絶対」を接着する

 
大森靖子二枚目のフルアルバム『絶対少女』。
収録曲を実際に聞き始める前からすでに、『絶対少女』には「少女性」が溢れている。
CD ジャケット、CD本体、歌詞カードまで、このアルバムはどこもかしこも、むせ返るほどにピンク色で、ジャケットの真ん中に座っている大森靖子は、白い肌に 黒い髪、その上に花を乗せて、リボンとフリルとレースでできたキャミソールを着て、右膝を内股に傾けて柔らかそうなふくらはぎを見せつけている。
 

これでもかというほど分かりやすい少女性、そして、それをダメ押しするかのような『絶対少女』というタイトル。
アルバムの「顔」とでも言うべきタイトルとジャケットは、視覚的にも、記号的にも、分かりやすすぎるほどに少女的だ。
少女的でないものが入り込む隙間もないほどに少女性が詰め込まれたこのアルバムの体裁は、それこそ、「絶対的に」少女的である。
しかし、実際にCDを取りだし、このアルバムを聞き始めてみれば、このアルバムが標榜しているかのように見える「少女」の絶対性が、存外に、絶対的でないことに気がつく。

例えば、本アルバムの一曲目である『絶対彼女』は、そのサビで “絶対女の子がいいな”と繰り返す。
“女の子がいいな”
この歌詞が歌っているのは、女の子の「絶対性」ではない。
ここで用いられているのは、「女の子だったらいいな」/という仮定法、あるいは「女の子がいい」という選択(「女の子とそれ以外だったら、女の子がいい」)であり、裏返していえば、この歌詞は「私」が女の子以外のものになってしまう可能性を前提として成り立っている

だからこそ、この曲は、その歌詞の頭に “絶対”という言葉をつけるのだろう。
『絶対彼女』の歌詞は、冒頭でケチをつけてられていた「ふつうの幸せ」が最終的には「ふつうの幸せ守るの」と歌われる、そんな転倒するストーリーを描くのだが、"絶対女の子がいいな"という歌詞は、そんな転倒を貫くようにして幾度も繰り返される。
「ふ つうの幸せ」……多くの「女の子」が出会わざるを得ないであろう人生の転機、例えば「結婚」や「妊娠」、「出産」「子育て」は、女の子を「奥さん」にし、 「お母さん」にする。「ふつうの幸せ」を手に入れた女の子は、自分の幸せを守るためにも、「ふつうの幸せ」を守りながら生きて行かなければならない。しか し、そうした「ふつうの幸せ」を守ることは、「女の子」が、一人の「女の子」としてではなく、(誰かの)「お母さん」や(誰かの)「奥さん」として生きな くてはならないということを意味しているのだろうか。
「ふつうの幸せ」を取り囲むように繰り返される “絶対女の子がいいな”という歌詞は、そうした「ふつうの幸せ」を守ることによって「私」が「女の子」であることを諦めさせられてたまるか、と言っているように聞こえる。

恐らく、 『絶対彼女』という曲は、「私」によって「私」が「女の子」であることが諦められようとするような瞬間に向けて歌われている。
『絶 対彼女』は、自分が「私」を「女」として見なす、あるいは誰かに「女」と見なされる=「彼女」であることの絶対性から生まれたのではなく、むしろ、そこに 「絶対性」を無理やりにでも接着し、「私」が「女の子」であることの「絶対性」を励まし、維持し続けるために生まれた曲なのではないか。
 
 


『絶対少女』というタイトルも、おそらく、そうなのだ。
頭についている「絶対」は、「少女」の絶対性を保証するものではなく、どんなに私の中の「少女」が否定されても、それでも私たちは「絶対」女の子なんだ、女の子であり続けるんだという「宣言」なのだ。

大森靖子、二枚目のフルアルバム『絶対少女』は、そのタイトルに反して、少女の「絶対性」を保障するものではない。むしろ、このアルバムに収録された「少女」をめぐる15の作品の中で、少女の「絶対性」は常に脅かされ、揺るがされている。
『絶対少女』にあるのは無条件な「少女」の肯定ではない。各々の作品の中で、「少女」は何かに怯え、脅かされ、だからこそ、それを強く肯定するための様々な運動が巻き起こる。


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大森靖子『絶対少女』歌詞および解説はこちら

※この記事は、2014/7/12に http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、公開したものです。
 
 

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