ニワノトリ

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1.大森靖子「絶対彼女」と『絶対少女』の感想文を書き直した。

■「絶対彼女」の感想文を書き直しました。

 

 

 「今作は […] とにかく全ての女の子を肯定しようと思いました」[i] 

 

大森靖子は彼女の二枚目のフルアルバム《絶対少女》について、このように述べている。

 

「全ての女の子を肯定する」。

 

この一文は、まず、この世の中を、すべての女子が肯定されていないものとして定義している。同時に、そんな世の中にケンカを売っている。「全ての女子を肯定する」という文章は、世界の定義と世界に対する抵抗を同時に行っている。
このアルバムは……というよりも、大森靖子という人は、そのような世界観の作り方に長けた人である。

 

大森靖子は時に「激情派」と呼ばれるシンガーソングライターである。確かに、彼女のパフォーマンスは過激だ。「大森靖子」でググれば、野外フェスのステージ上でファンとディープキスしただとか、スクール水着でパフォーマンスしていただとかいう情報がすぐ手に入るだろう。

 

良識的なリスナーは、そうした情報の低俗さと「話題集め」感に一気に引いてしまうかもしれない。しかし、良識なリスナーにこそ、彼女の楽曲を聞いてみてほしいのだ。どれか一曲でいい。恐らく、その曲は、彼女がただやみくもに暴れているわけではない、ということを示してくれる。

 

彼女の作品は、「この世界はこんなんだ」「だから嫌なんだ」と実に理詰めに暴れている。その視線は、最初から激情的であるのではなく、初めは冷静なのだ。冷静に世界を見つめているからこそ、その矛盾を看破してしまう。その瞬間に、「なんでこんなことになってんの」「は? ふざけるな」という怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻き、加速して行く。彼女の作品には、冷静さと激しさが同居している。
世界に対する視線は冷静だが、世界に中指を立てるエネルギーは実に激しい……そんなギャップこそが、彼女を「激情派」たらしめている。

 

《絶対少女》に話を戻そう。
大森自身が述べている通り、本アルバムは「女の子」という切り口でもって、世界を看破し、怒りを渦巻かせている。本書は、その言葉に乗っ取り、《絶対少女》という作品を通して、「女の子」なる切り口によって、この世界、あるいは社会が、どのように見えてくるのか。検証してみようとするものである。

 

もちろん、彼女の作品の魅力を限られた文字数の中ですべてを伝えるのは無理であるし、そもそも音楽を文字にするという時点で大幅な歪みは生じざるを得ない。音楽を聞いて得た感動のすべてを文字に落とせるわけがないのだ。

 

しかし、本書では、その歪みを利用して、より長く、大森靖子という人の作品の前で立ち止まることを試みてみようと思う。彼女の作品は他のJ-popと同じく、どれも一曲五分、あるいはそれ以下の長さだ。聞き流そうと思えばいくらでも聞き流せるし、YouTubeのリンクをたどって即座に次の曲に移ることもできる。そうした音楽の軽快さに比べれば、文字を書き、それを読むという作業は、実に時間がかかるしまどろっこしい。本書のささやかな試みは、そうしたまどろっこしさを利用して、音楽の消費のリズムを少しだけ遅らせるということだ。書かれた文字は、それについて思考し、解釈する時間を生み出す。本書を通して、一人ひとりの読者の中にそうした時間を少しでも生み出すことができれば、幸いだ。

 

言うまでもないことだが、本書に描かれたことは一リスナーによる一つの解釈であり、勝手な妄想に過ぎない。
しかし、大森靖子の作品こそが、とあるリスナーを動かし、「あ、この人のことについて文章にしたい」、と思うに至る契機を作りだしたのだということも、また、強調しておきたいと思う。

 

 

 

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[i]"アルバム「絶対少女」に寄せて"
 セカンドアルバム 絶対少女 | 大森靖子公式ページ http://oomoriseiko.info/zettaisyoujo/index.html(2014/9/22閲覧)