ニワノトリ

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2.大森靖子「絶対彼女」と『絶対少女』の感想文を書き直した。

大森靖子二枚目のフルアルバム《絶対少女》。
収録曲を聞き始める前からすでに、《絶対少女》には「少女性」が溢れている。

 

まずはピンク色だ。CDジャケット、CD本体、歌詞カード、このアルバムはどこもかしこもむせ返るほどにピンクである。ジャケットの真ん中に座っている大森靖子は、白い肌に 黒い髪、その上にピンクと水色の花を乗せて、リボンとフリルとレースでできたピンク色のキャミソールを着て、右膝を内股に傾けて柔らかそうなふくらはぎを見せつけている。ゴテゴテと飾り立てられ、ピンク色で埋め尽くされたジャケットは、あれもこれもという無邪気なグロテスクさも含めて、実に「少女」的だ。

 

これでもかというほどの少女性、そして、それをダメ押しするかのような《絶対少女》というタイトル。アルバムの「顔」とでも言うべき《絶対少女》のタイトルとジャケットに、非少女的なものが入り込む隙間はない。このアルバムは、視覚的にも、記号的にも、分かりやすく、絶対的に少女的である。

 

しかし、実際にCDを取りだし、このアルバムを聞き始めてみれば、このアルバムが標榜しているかのように見える「少女」の絶対性が、存外に絶対的でないことに気がつく。
例えば、本アルバムの一曲目である〈絶対彼女〉は、ポップなリズムに乗せて左記の歌詞を繰り返す。

 

  絶対女の子がいいな
  絶対彼女

 

「女の子」への肯定以外の全てがそぎ落とされたこの歌詞は、「女の子」であることを絶対的に肯定しようとしているように見える。「女の子」であることへの賛美、「女の子」を生きることの無邪気な喜び、「女の子」という幸せへの夢と信頼。そうしたものを抜きにして、「絶対女の子がいい」という歌詞は生まれないだろう。

 

しかし、この「絶対的な肯定」は、「女の子」の「絶対性」を前提としているだろうか。
すなわち、この曲は、絶対的に、無条件に、女の子が女の子である世界のことを歌っているだろうか。
「女の子がいいな」……ここで用いられているのは、「女の子だったらいいな」という仮定法、あるいは「女の子がいい」という選択(「女の子とそれ以外だったら、女の子がいい」)である。裏返していえば、この歌詞は「女の子」が「女の子以外のもの」である可能性を前提として成り立っている。そこにあるのは、「女の子の絶対性」というよりは、むしろ、「女の子の絶対性」の揺らぎあり、不安なのだ。

 

だからこそ、この曲は、その歌詞の頭に 「絶対」という言葉をつけるのだろう。「女の子」が「女の子」であることが絶対的な前提である世界で、敢えて、「絶対女の子がいいな」という歌詞を歌う必要がどこにあるだろう。「女の子」が「絶対的でない」ことを知っているからこそ、(それでも)「女の子がいい」という歌詞が生まれる。〈絶対彼女〉という曲は、「女の子」であることが諦められようとするような瞬間に向けて歌われている。〈絶対彼女〉は、「女の子」に「絶対性」を無理やりにでも接着し、「女の子」であることの「絶対性」を励まそうとしているのだ。
ここで、冒頭で引用した、大森靖子の言葉を思い出そう。

 

  今作は […] とにかく全ての女の子を肯定しようと思いました。2

 

単なる「肯定」ではなく、「肯定しようと」すること。
「女の子」の絶対性は自明ではない。《絶対少女》にあるのは、単なる「女の子」の「肯定」や「賛美」ではなく、「肯定しようとする」運動なのである。
《絶対少女》というアルバムは、無条件に少女の「絶対性」を肯定するものではない。むしろ、このアルバムに収録された「少女」をめぐる十五の作品の中で、少女の「絶対性」は常に脅かされ、揺るがされている。だからこそ、それを肯定するための様々な運動が巻き起こる。そして、そうした運動の中で、既存の「女の子」という概念そのものが宙づりになり、姿を変えて行く。

 

(肯定されるべき)「女の子」とは何か? 「女の子」とは誰か? 

 

《絶対少女》は、女の子を肯定するために、まず、「女の子」なるものの定義をトラブらせるのだ。

 

本書は、そんな《絶対少女》から、三曲を取り上げ、それぞれが、どのように「女の子」的トラブルを巻き起こしているのか検証して行く一冊である。

 

一章で取り上げるのは、先に取り上げた〈絶対彼女〉である。本章では〈絶対彼女〉という曲の中にある、「あたし」が「あたし」であることと、「あたし」が誰かに「女の子」と呼ばれることの間にあるギャップに着目をする。そして、「絶対女の子がいいな」という歌詞を、ほかの誰かに「女の子」と呼ばれる前に、「あたし」が「あたし」を「女の子」と呼ぶことで、そのギャップを蹴散らそうとしているものと捉え、分析して行く。

 

二章では〈ミッドナイト清純異性交遊〉を取り上げる。本曲は、二〇一四年十一月にモーニング娘。`14を卒業する、道重さゆみをテーマにした曲であり、歌詞にもミュージックビデオ(MV)にも道重さゆみへに関するアイテムや言葉が溢れている。本章では、〈ミッドナイト清純異性交遊〉で描かれるアイドルが、ファンタジーであると同時に、生身の女の子であるということを指摘したうえで、「私」という一人称を通して、オタクとアイドルの世界が交差する様子について記述している。

 

三章で取り上げる〈君と映画〉は、〈ミッドナイト清純異性交遊〉と関係の深い作品である。というのも、両曲のMVのストーリーには、連続性があり、時系列的に言えば、〈君と映画〉のMVの続きにあたるのが、〈ミッドナイト清純異性交遊〉のMVである。本章では、歌詞だけでなく、MVも参照しながら、〈君と映画〉を解釈する。着目するのは、〈君と映画〉から〈ミッドナイト清純異性交遊〉に移行する中で、物語から「男」が排除され、女子だけの世界が構築されて行く点である。そうした「男」が排除された世界で生まれる「私」と「君」の関係性が、「女子」たちをアンダーグラウンドから救い上げるのではないか? 本章では、そのような「私」と「君」の関係性が「女子」にもたらすものについて考察を行っている。

 

また、最後に、エッセイ「私が大森靖子に会った日」を掲載した。これは、二〇一四年十月に白百合女子大学にて開催された「白百合祭LIVE `14 ~絶対大森靖子がいいの!~」について書かれたものだ。このエッセイの中には、大森靖子に出会った瞬間に、その人の中にある「女子」性(それは、女性だから存在しているとか、そういうものではない)が発露する、そんな邂逅の瞬間がある。

 

以上が本章の内容である。それぞれの章、エッセイはそれぞれ独立したものとして読むことができるので、興味のあるものから、ページを捲っていただきたい。

 

なお、本章で引用、言及した作品の歌詞は『絶対少女』(2013年, PINK RECORDS)から引用しており、それぞれの作詞作曲はすべて、大森靖子自身である。
また、言及しているMVは、『大森靖子 Youtube Channel』(http://www.youtube.com/channel/UCNOmXQPlJpFzLbe1Gymsy6w)を参照している。

 

 

 ← 1 参考文献 →

 

 2 "アルバム「絶対少女」に寄せて"
 セカンドアルバム 絶対少女 | 大森靖子公式ページ http://oomoriseiko.info/zettaisyoujo/index.html(2014/9/22閲覧)