ニワノトリ

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「アイドルのミュージカル」と「ミュージカル」の交差点/『LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇』の感想2 ※ネタバレ注意※

※これらの感想はすべて、2014/6/8にhttp://n1watooor1.exblog.jp/19878404/ にて公開したものです。一部、加筆、修正しています。
※この感想を書いた時点では、 "TRUMP"未見でした。

 

 

 

『LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇』の感想、その2です。

この記事では、ストーリーについての勝手な解釈を書いています。

その1はこちら:「アイドルのミュージカル」とは何かについての独り言。
その3はこちら:それぞれのメンバーについての感想


※ネタバレ注意 かなりのネタバレがあります※

※純潔じゃない勝手な解釈しています。ご注意ください※






 



■アイドルを模倣するヴァンプの世界

このミュージカルが描くヴァンプたちの「永遠の繭期(思春期)」とは、『LILIUM』を演じる「アイドル」たちが、普段、アイドルとして求められている「夢」に似ている。ミュージカルのタイトルにある「純潔」も同様である。
すなわち、彼女たち「アイドル」は常に少女性と処女性(=「少女純潔」)を求められ、その通りの世界を体現し続けなければならない。
「リリウム」(ユリ)という言葉の響きは、「ユリ(Liliy)」に「サナトリウム」を組み合わせた語であるようにも聞こえる。
「ユリ」は「純潔」を象徴する花だ。「サナトリウム」のように世間から隔離された「ユリ(純潔)の世界」に生きる少女、とは、まさしく、オタがアイドルに求める世界観そのものではないだろうか。

『LILIUM』において、そうした「少女純潔」な世界を作り上げたのは、工藤遥演じる「ファルス」である。
この物語のクライマックスは、以下のような構成になっている……と思う。

「ファルス」によって永遠の命を強制された少女(リリー、スノウ)が、「ファルス」の欲望に抵抗する。

 → 少女たちは「死」によってその欲望から解放される。

 → しかし、リリーだけは「ファルス」の欲望から逃れることはできず、永遠の命を手に入れてしまう。


「ファルス」の描いた夢の世界から解放され、現実に踏み出して行く仲間たちを尻目に、一人だけ永遠の花園に取り残されて、絶叫するリリーの姿は、実に苦しく、痛々しい。まったくもって救いがない。

そして、『LILIUM』の世界が仮に本当に「アイドル」の世界を模倣しているのであれば、おそらく、もっと救いがない。
アイドルは「少女性」を求められるが、時とともに身体はいつしか「少女性」を失う。
しかし、身体の「少女性」が失われても、「少女性」の呪い(いつまでも少女であれ、純潔であれ)が解けないとすれば、そして、自分ではその呪いを解くことができないとすれば……。
私は、最後のリリーの絶叫に、「アイドル」からの脱皮の難しさと、「アイドル」に課せられた残酷な運命を見せつけられたような気がした。


■これから「ファルス」の話をしよう

そんな「悲劇」的で美しい世界をつくり出した男、「ファルス」
「ファルス」……最初にどぅの役名としてこの名前が出た時には、「ふぁ、ファルス!?」とTwitter2chでざわざわしたものである。
パンフレットを読むと、「ファルス」の由来は、「False bindweed」(昼顔)だということだが……カタカナで「ファルス」といわれると、どうしても先に思い浮かぶのは、「false」ではなく、「phallus」の方だ。
(私は精神分析にはあまり詳しくないので、滅多なことは言えないのだが)「phallus/ファルス」とは、いわゆる男根を意味する言葉である。
精神分析の世界では、男根そのものというよりは、男根が象徴するもの、すなわち、「男性性」や「父性/父性的権力」を意味する言葉として使われている。

何が言いたいかというと、少女たちの「純潔」な世界に登場する「ファルス」とはあまりにも「あからさま」すぎる名前なのである。
実際、どぅ演じる「ファルス」は、『LILIUM』に二人しか登場しない男性のうちの一人である。
そして、それ以上に重要なのは、彼が『LILIUM』の世界を作り上げた「TRUE OF VAMP」(TRUMP)張本人だということである(ちなみに、かななん演じるキャメリアが本当に生物学的に「男」なのかどうかはちょっと怪しいと思っている)。
「クラン」を統治し、ヴァンプたちの意志を支配する「イニシアチブ」の頂点にある「ファルス」のポジションは、実に男性的で父権的だ。

かなり隠喩的に曲解すれば、


・「ファルス」は少女たちに噛みつく=その牙を、少女たちの身体に「挿入」する。
 → それによって、彼女たちの「イニシアチブ」を手に入れる。

・「ファルス」は、「お薬」を少女たちに呑ませる=「ファルス」自身の体液(血液)を少女たちの体内に注ぐ。
 
→ それによって、少女たちの身体を「不老の身体」=「ファルスが理想とする身体」へと作りかえる。


「ファルス」が少女たちに行ったことは、性行為の模倣であるようにも見える(かもしれない)
しかも、それはあくまでも性行為の「模倣」であって、実際に「やってる」わけではないので、この物語の中で、少女たちの処女性は保たれたままだ。
「ファルス」は、少女たちの処女性はそのままに、少女たちを「ものにする」のである。

ま た、「少女」たちが「ファルス」に「イニシアチブ」を取られ、「お薬」という「父の血」を体内に蓄積させて行く様は、女の子が「貞淑であれ」「純潔であ れ」という、「父」の視線を内面化して行く過程にも似ている。「お薬」は、女の子が、「父」や「男」の視線を内面化する過程の隠喩としても読み替えること もできる気がする。


■「ファルス」と「リリー」の戦い/「オタ」と「アイドル」の別れ

「ファルス」は少女たちを、自分の欲望の延長線上にある存在としか見なしていなかった。
というのも、「ファルス」は彼女たちを一人のヴァンプとしてではなく、自分の孤独を癒すための存在として考えている
「ファルス」にとって少女たちは、不老不死の身体を手に入れて、ファルスの理想の世界を実現してくれることに価値があるのであって、それ以上でも以下でもない。
だから、「ファルス」は自分が願う通りの、「純潔な身体」を少女たちの身体に押し付ける。
少女たちの意志や願いは大した問題ではない。

物語の最後、リリーはそうした「ファルス」の欲望を拒否した。
ヴァンプたちは自分たちの「死」を選ぶことで、「ファルス」の欲望の延長線上に位置づけられつつあった自分たちの身体を、自分のもとに取り返そうとする。

しかし、この物語のラストで、リリーの身体がすでに「ファルス」と同じものになってしまっていたことが明かされる。
リリーが自分の身体を殺そうとしてもそれは叶わず、もはや、自分の身体に刻み込まれた「ファルスの欲望」からは逃れられない。
この物語の先にあるのは、おそらく、リリーという少女による、内側に埋め込まれた「ファルス」との永遠の戦いだ。

そんなリリーの姿は、物語の序盤ですでに姿を消しているシルベチカとは対照的である。
シルベチカは、「ファルス」の欲望する身体を拒否し、老いた顔を隠しながら、塔の上から飛び降りていった。
一方、「純潔」であれという命を拒否することが叶わず、内側に刻み込まれたリリーは、「純潔」な身体を抱えたまま、それでも永遠に生きて行かなければならない。


私の解釈で言えば、シルベチカの「私を忘れないで」という台詞と、最後に心臓を何度も心臓を突き刺すリリーの叫びは、どちらも、自らの内側に「純潔であれ」という欲望を刻み込もうとする「ファルス」への呪詛の言葉であり、叫びである。

少女たちの亡骸を前に、自らの花園が死に絶えたことを知ったファルスは、「また作ればいいや」「それこそ時間は永遠にあるんだし」(詳細な台詞については記憶が曖昧……)と言って、舞台から去って行く。
「ファルス」は、失われた「少女純潔」を前に、他の場所に新しい楽園を求めて飛び立つ。

それこそ、オタたちが、若い子に流れて行くように。

リリーとシルベチカは、少女に「少女性」を求め、少女の内側に「純潔であれ」という規範を刻み込んだ挙句、最終的には他の若い子のところへ流れて行く男性たちを呪い返しているかのようにも見える。


…… このように、私は、このミュージカルを「アイドルのミュージカル」として見る視線にかなり囚われているので、どうも、「少女純潔」を「アイドル」という存 在に重ねずにはいられなかったし、だからこそ、『LILIUM』のラストが描いたラストが非常にえげつなく、非情に感じられて仕方がなかった。
おそらく、こうした視線抜きに、一つの「ミュージカル」単体としてこの作品を見られたのなら、きっと、違う感想を抱けたのだろうな、と思う。

 

 

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