この記事の続き……というか、個人的なメモです。
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もう一回、『ワンダフルワールドエンド』を見に行きたいので、その時のために、考えたことをメモしておきます。
この記事にはネタバレ満載です。
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□「来ないで」の一言が素晴らしい
前の記事で、この映画は、いわゆる「少女漫画」みたいな映画じゃないということを書きました。「さよなら男ども」というキャッチコピーにあるように、この映画は男に「さよなら」を言います。「さよなら」を言うどころか、ボコボコにしてしまいます。
この映画の最後、詩織(橋本愛ちゃん)は画面に向かって「来ないで」と言います。その先には、観客と共に、二人を追いかけるゾンビみたいな川島もいるわけですが。
この台詞を聞いた時、この世の中に、最後の最後であの一言を飲み込んでしまう女性がどれだけいるのだろう。と思いました。
情 の生き物だとか母性がどうとか言われる女性ですが、最後の最後で「来ないで」じゃなくて「しょうがないな」とか。「私を助けて」とか。「捨てないで」と か。そういうことを言ってしまって、またどうしようもない男との生活に舞い戻ってしまう。そういう女の子って結構いるんじゃないだろうか。
だけど、最後の最後で、この映画は「来ないで」という。
あの言葉こそが、本当の女の子たちの反撃ののろしで、その後、二人がチェキ会?的なことをしている台詞→稲葉くんと二人のチェキ写真が写る。
ここで、彼女たちは、男(稲葉くん)に「見られる」=「消費されること」を、「見られる」=「(男を)消費する」ということに転換していて。
要は、最後の最後で稲葉くん=川島は身体的にだけでなく、経済的、あるいは社会的にも女性にボコボコにされようとしている。
最後の最後まで男を否定し、排除し、ボコボコにして、女の子の明日に向かっていく。前も書きましたが、この映画を見終わったとき、ああ、私はこういう映画を待っていたんだ。と。そう思いました。
そして、そんなボコボコにされるイケメンを演じた稲葉友くんは、間違いなくこの映画の功労賞だと思います。
あの役ってただイケメンなだけじゃダメじゃないですか。「憎めないところが憎い」っていう、あの感じ。
最 後、彼がゾンビ化して亜弓と走っているシーン。映画館で笑いが起きてましたが。あのシーン、川島が「ふざけんな女(とかいてアマと読 む)!」とか 言ってブチ切れる可能性もある(っていうかその可能性の方が高い)わけじゃないですか。でも、そうじゃなくて、亜弓ちゃんと一緒に二人を追いかけた上に 「来ないで」とか言われてしまう。
あの展開、まあ、ある意味では超展開というか、あり得ない、幻想的な展開なんですが。あのシーンが笑いと共に成り立ってしまうのは、稲葉友くんのあの憎めない感じあってのものだと思います。
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そして、功労賞と言えば。
前にも書きましたが、そういう「そうそう、女の子ってこんな感じ」という共感を呼ぶ橋本愛さん(もはや「愛ちゃん」とは呼べない……)の演技と存在感はもちろん素晴らしかったです。
もちろん、彼女の顔は圧倒的にかわいいんですが、顔だけじゃなく、表情、話し方、目線、感情の出し方、すべてに、「あ、これが女の子だ!」っていう説得力が すごくあって。彼女抜きにこの映画は成り立ちえない。そう言い切れるほど、完ぺきな演技を見せてくれていたと思います。
個人的には、最後のチェキのシーンって、ツイキャスをやりながら詩織が抱えていたズレ(後述)みたいなものと関係あると思うので、そのあたりを気にしながらもう一回見たいなあ。
□お母さんと亜弓の関係(スマホはチート説)
前の記事で、この映画は「女の子だけにしか分からない世界」を描いている、でも、この映画は決して、女の子の全能感――快楽や、「女の子にし かわからない」という陶酔のようなもので――出来上がったものではなくて、むしろ、その世界はその脆さや痛みと隣り合わせです。……とも書きました。
事実、詩織(橋本愛)と亜弓(蒼波純)が作ろうとした「女の子だけの世界」は、割とあっけなく危機を迎えています。
そのきっかけとなるのは、やはり、亜弓をお母さんが迎えに来たことです。
詩織と亜弓の世界は「親子」という社会的な関係には太刀打ちできません。亜弓はお母さんに家に連れ帰られます。
この後のシーンで、「親子」という社会的な関係と、スマホを介してできあがる、亜弓と詩織の関係が対比が見れます(たぶん)。
家に帰った亜弓のためにお母さんは鍋を作っていて、二人は「親子の会話」をするのですが。
「亜弓が好きなアイスクリームのバニラ、買ってきたから」
「私が好きなのは、チョコレート」
「そうだっけ。お母さん、勘違いしてた」
「でもチョコレートでもいいよ」
とか
「鍋はゴマだれかポン酢、どっちがいい」
「どっちでもいい」
「ゴマだれにするね」
「……だったら、ポン酢がいい」(※台詞、うろ覚えです)
みたいな感じで、会話はとてもちぐはぐ。
その間、亜弓はスマホをいじっていて、LINEで「しおりちゃんに会いたいよー!」と、詩織ちゃんと相思相愛トークを繰り広げている。親子の会話の中には常にスマホのメッセージ受信音が流れていて、亜弓はそれに返信するのに必死です。
なので、亜弓はお母さんにスマホを取り上げられてしまうのですが、それがいやな亜弓は「返して! 私のスマホ返して!」とお母さんに迫る。
そしたら、突然、お母さんが目の前の鍋に顔を突っ込んでぶくぶくやり出す。
「ごめんね、お母さん、ちょっと疲れてるみたい」
「……お母さんごめんなさい」
このシーンを見て、正直、私は「いやいやいやいや、疲れてるみたい」じゃないし! ってなりました。私もいい年なので、お母さんの方にも肩入れしてしまって、「いや、ここはもうお母さんキレたり泣いたりしていいんじゃね?」とか思ってしまったわけなんですが……
亜弓はたぶん、頭がよくて察しのいい子です。
そして、お母さんもすごく良い人で、優秀なママなんだと思います。
だけどだからこそ、二人はまったく本音をぶつけない。
お母さんが「何、スマホばっかいじって! あんた、私がどれだけ心配したと思ってんのよ!」とぶち切れたり、亜弓が「詩織ちゃんはこんなに素敵な人なんだ。私は詩織ちゃんがこんなに好きなんだ。だから返してほしい」と訴えたりすることもない。
二人は、「仲良く食卓を囲む親子」を演じるばかりで、二人がその奥で何を抱えているのかっていうのは、お互いに伝えていなくて、あんまり通じ合っていない感じがします(そして、こういう母子のすれ違いは、観客にとって「あるある」だと思います)。
二人は「親子」だからこそ、「親」と「子」という関係を演じているし、その役割が邪魔をして二人の間に一定の距離を保ちます。
一方の詩織と亜弓の関係。そこに「親子」のような社会的な縛りはありません。
そこにあるのは「好き」という気持ちだけを元にしたつながりです。
だからこそ、亜弓は、詩織が「好き」という気持ちをまっすぐにぶつけることができる。
はっきりと言葉にできないときは、スタンプで気持ちをたくさん送ればいいし、スマホの上で交わされる亜弓と詩織の交流の中には、親子間では全く行われていない気持ちの交流があります。
亜弓がツイキャスをしている場面がありますが、あそこで、亜弓は、自分が思っていること、悩んでいることをそのまま喋っているように見えます。
スマホの中の空間で、亜弓は自分が何者かということを考えることなく、自分が思っていることをしゃべることができる。そして、そんな自分に共感してくれる人とつながることができる。
対面の関係では踏まないといけない社会的な手順とか、気にしなければならない距離感とか。そういうものをすっとばして、ただ「分かる!」「かわいい!」だけでつながることができて。誰の目線も気にしないから、誰にも話せない悩みまで話せてしまう。
そんなインターネット空間は、チートだな。
……と、いうようなことを、あのお母さんと亜弓のやり取りをみながら考えてました。
すぐに繋がって同じ世界を共有できてしまうネット空間のチートさと、そんな関係をすぐに断ち切れてしまう、現実空間でのチート性を発揮する親子という社会的な関係性。
あの鍋でぶくぶく場面には、そういう対比関係が見えてくるような気がしました。
亜弓ちゃんを演じる蒼波純ちゃんは、ほとんど演技初挑戦?みたいなことを伺ったんですが。
だからなのか何なのか? 亜弓ちゃんが目をそらしながらお母さんに「ごめんなさい」っていうあのリアリティ。そんな亜弓ちゃんが「しおりちゃーん!」って叫ぶリアリティ。
あれはなんなんでしょう。下唇をかんでじっと見つめる視線とか、ぼそぼそとした喋り方とか。亜弓ちゃんっていう女の子のリアリティが……すごかったです。
□カメラ越しの視線の意味
私、ワンダフルワールドエンドを見る前にもブログを書いたんですよ。
予習編として(これですが。
ここで、「カメラ越しの視線の意味が気になる」って書いたんですけど……そこについてあんまり考えないまま見終わってしまいました;
実際に映画を見ていたら、カメラ、そして、カメラを介したインターネット空間での繋がりというものは、この映画に広がる「女の子」の世界にとって大きな意味を持ってました。
特に、ブログを書き、ツイキャスをやる詩織にとっては、インターネット空間で人が自分の映像を見てくれること、コメントをくれることが、モデルを続ける一つの糧となっているようにも見えます。
しかし、一方で、詩織は、インターネットから注がれる眼差しと、その目の前にたっている自分、その間にある微妙なズレをずっと抱えているようにも見えます。
例えば、詩織はツイキャスをやっていて、時々、「脱いで!」という風なコメントが入る。そして、そういうコメントは、ツイキャスを見る人数が増えれば増えるほど、増える。
また、詩織は、おそらく、自分の知名度を上げるには、仕事として、脱いだり下ネタを言ったりするのが早いということに気づいて(?)、そのような仕事もどんどん引き受けようとするようになる。
インターネット空間というのは、上述のような、女の子同士の共感を形作る場である一方で、そういった、男性的な眼差しに晒される空間でもあります。
ツイキャスで「絶対脱ぎません!」という詩織は、自分に注がれる男性的な欲望の視線と、ツイキャスで自分が話したいこと、ツイキャスをやってファンを増やした先にあることの間に、ズレを抱え続けていて、そのズレとの距離感を測り兼ねているように見える。
でも、そのズレについてはあんまりじっくり見られなかったから、もう一回映画見たいなあ。
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やっぱり、映画を観たが一回目なので、私が共感したところに目線が注目してて、亜弓の詩織(と川島)に対する気持ちとか、亜弓と詩織の関係性とか、ゴスロリを着る意味とか、あのぬいぐるみのシーンとか。大森さんの楽曲とか!!
何か色々、注目しそびれた感があります……。社長さんもいい味出してたよね……大森さんの役はめちゃくちゃ美味しかったよね……。
あと、詩織が川島を殴るときに、「男なんかに邪魔させない」って言ったあのシーン。
あそこ、川島の名前じゃなくて、「男」って言ってるところがすごく気になる。
あー、やっぱり、もう一回、観たいなあ。
次は頑張って友達誘って見に行きたいです。