ニワノトリ

Twitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.com

amazarashiの「アノミー」について考えたこと(急に)

■amazarashiの『アノミー』という曲について考えたよ

こんにちは。ハロプロ大森靖子さんのことばかり書いているこのブログですが、今回の記事では、amazarashiというバンドの『アノミー』という曲について考えていることを書いてみたいと思います(唐突)。
本当はクリスマスの時期に書こうと思っていたんですが、延び延びになってしまいました。 

私、amazarashiというグループのすごいファンで、アルバム全部聞いてます!
……とかそういう人間ではなくて(すみません;)、一年ほど前、YouTubeさんにたまたまおススメされた動画をきっかけにこのバンドに興味を持ちました。
YouTubeさんをめぐるうちに、特に『アノミー』と『ラブソング』が気に入って、この二曲が収録されているアルバム『アノミー』『ラブソング』を手に入れました。今は、このアルバムをちょっとずつ聞いている途中です。

 

アノミー」と「ラブソング」はこんな曲です。

 


amazarashi 『アノミー』 - YouTube

 


amazarashi 『ラブソング』 - YouTube

 

この二曲。
一言で言うならば、「箴言的な曲」と言っていいのではないかと思います。
うぇーい、「箴言的」っていう言葉を使いたかっただけだよー……って感じですが、警句的(社会に警鐘を鳴らす)とか、皮肉っぽいとか、そんな感じのニュアンスで使ってます。
例えば、『ラブソング』のこの歌詞。

 

未来には期待しないよ 息も出来ないよ 夜の闇の中 不安で眠れない
愛されるだとか 愛するんだとか それ以前に僕ら 愛を買わなくちゃ
消費せよ 消費せよ それ無しではこの先 生きてけない
消費せよ 消費せよ それこそが君を救うのだ

 

この四行の歌詞は、「愛される-愛する」という人と人の関係性が「消費される-消費する」という商業主義に取って代わられる様、それを「消費こそが君を救うのだ」と皮肉りながら、現代の消費主義に警鐘を鳴らしています。
「警鐘を鳴らす」という点において、amazarashiの曲は、たぬきやきつねに人を喩えながらそれを聞く人々に何らかの教訓を残す、寓話のような側面を持っているといえます。

しかし、昔ながらの寓話とamazarashiの曲が異なるのは、彼らの曲が、「倫理」とか「道徳」とは何か、それ自体がよく分からなくなってきている現代社会において、そもそも何を「教訓」にすればよいのか分からないことへのもどかしさ、そのこと自体への危機感にあふれている(ように聞こえる)という点でしょうか。

 

 

私は基本的には単なるハロオタです。世界平和を割と本気で信じてる感じのポジティブさがあったり、「ふざけんな、ばーか」みたいに具体的で直接的な言葉が使われている曲が好きです。なので、amazarashiの曲が好みですか?と言われたら、正直、「超好み!」ではないんです。

 

それでもamazarashiの曲をリピートしてしまうのは、amazarashiの曲に、(キリスト教的な)「愛」なるものに対する葛藤みたいなものを感じるからです。 

 

 

amazarashiは『千年幸福論』というアルバムを出してますし、「アノミー」一曲だけでも、アダムとイブ、禁断の果実、神、愛、罪、許し、とキリスト教感満載の単語が出てくるので、少なからず意識はしてるんじゃないかと私は思っています。仮に本当に意識しているとして、作り手自身にキリスト教的なものへの何らかの思いがあるのか、西洋主義や資本主義の精神をキリスト教的なものとして読み取っているのか……。ざっとインタビューを拝見した限りでは、直接的な言及はされていなかったように思うので、本当のところどうなのかよく分からないんですが……(でもすみませんウェブ上のやつしか読んでないです……)。

 

……とりあえず、『ラブソング』と『アノミー』という二曲は、(私が)そういう「愛」への葛藤を(勝手に)読み込める曲だから好きです。(開き直った) 

 

ということで、前置きが長くなりましたが、以下、amazarashiの「愛」なるものへの葛藤について、私が勝手に思っていることを書いていきたいと思います。
いつものように無駄に長くなってしまったので;、今回は、『アノミー』についてだけ書きました。
もしかしたら、そんなんじゃねーよ、とか、そんなこと言われなくてもわかってるわ、とか、そんなことばっかり書いてるかもしれません; 

 

 

■テーマとしての「愛」

上で、「愛」「愛」書いてますが……。
『ラブソング』はタイトルからして、「愛」が一つのテーマであることはほぼ間違いないと思いますが、『アノミー』という曲もまた、「愛」をテーマの一つとした曲なんじゃないかなあと思います。

アノミー』のサビの歌詞はこんな感じです。

 

愛って単純な物なんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ
アノミー アノミー
そんなら そのあばずれな愛で 68憶の罪も抱いてよ アノミー アノミー

 

愛って特別なものなんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ
アノミー アノミー
そんなら その尻軽な愛で 68憶の罪も許してよ アノミー アノミー

 

このサビの歌詞では、二つの「愛」が対比(?)されていると思います。

 

一つは、愛を歌うJ-popが巷に溢れ、愛への欲望が止まらなくなった現代社会における軽薄な「愛」。

もう一つは、キリスト教的……というよりは、人々の罪を背負って十字架に磔にされたキリスト的なイメージを持つ「愛」。

 

まずは、①の方から見てみましょう!

 

……と勢いよく行きたいんですが、そのためには、まず、アノミーってなんやねんという話をしなければならない気がします。しかし、言葉の定義とかしだすと、なんかもう難しすぎてヒガシズム……本気でやろうと思ったら社会学やってる大学院生を召喚しなければならない……

ので。

 

ここは辞書様のお力をお借りします。

 

社会的規範の動揺、弛緩、崩壊などによって生じる混沌状態、あるいは成員の欲求や行為の無規制状態(日本大百科全書)

 

……だそうです。
とりあえず、アノミーとは、ざっくり、「そのへんにしとけ」「それはやめとけ」と個人のやりたいことを制限する社会のルールがくずれて、個人の欲望にブレーキがかからなくなっている状態ということにしておいて、先に進みたいと思います。

 

で。

 

そんなアノミーが、amazarashiの『アノミー』という曲では何を示唆してるんだと考えながら、この曲のサビを聞くと。
まず第一に思い浮かぶのは、“愛”に対する欲望が際限なく肥大している=アノミー状態になってるんじゃないかっていうことです。これが、上でいうところの①です。
この「愛」への欲望の際限のなさは、「尻軽な」「あばずれな」という形容詞が「愛」の前についているところに表れてるんじゃないかと思います。
ラブソングばかりが入れ替わり立ち代わりヒットチャートを占拠する現代社会における「愛」の節操のなさ。日々、多くの歌が愛を歌い上げているのを耳にすると、(誰でもいいから)とにかく恋愛すること、(何でもいいから)愛を歌うこと、それを聞いて感動すること……「愛」が何かを考える前に、「愛を歌う」ことそのものが目的になっていて、「愛」自体が空洞になっているようにも感じます(そして、求めるべき「愛」が空洞だからこそ、「愛」が達成されることなく際限なく歌が生まれ続ける)。
アノミー』という曲は、「あばずれ」「尻軽」と、「愛」を歌っても歌っても、すぐに次の「愛」を求める、満たされることのない「愛」への欲望へ皮肉な視線を投げかけています。

 

そして、「あばずれ」と罵った後に、「68憶の罪も抱いてよ」「68憶の罪も許してよ」と続く。

 

「罪を抱いてよ」「罪も許してよ」

 

こう歌う時にイメージされているのは、やはり、人が生まれながらに背負っているとされる「原罪」というやつじゃないでしょうか。
そうだとすると、『アノミー』のサビは、CDランキングを占拠し、アノミー状態にある「愛」を、「68億の罪を抱いた」キリスト的な愛(これが上でいう②です)に対比しているということになってきます。

こう考えると、『アノミー』のサビは、現代社会における「愛」をキリスト的な「愛」に対比させることで、「愛というのは、神とか、罪の許しとかそういう生きる根源に関わるものであって、そんなCDショップにいっぱい並んで消費されるもんじゃないんじゃなかったのか」みたいな問いを立て、現代社会における「愛」なる言葉の軽さに疑問を投げかける、みたいなことをしていると言えると思います。

 

 

 

■「愛」を殺したのはだれか 

それこそ、(神の)「愛」とか(キリストの)「愛」って、なんなんだって言い出すと定義が大変なことになってしまいますが……。
私は、『アノミー』という曲で重要なのは、「愛」の定義云々よりも、「愛」なるものの絶対性が崩落する様が描かれていることだと思っています(逃げてすみません;)。

 

例えば、『アノミー』には、現代社会に生活する「アダムとイブ」の姿が描かれます。

 

アダムとイブが風俗ビルの空き屋に住むって現世の虚無

 

アダムにとって知恵の樹の実とは イブの連れ子か パチンコ玉か
某都市の歓楽街で エデンはどこに? いたるところに

 

聖書でh、神が最初に作ったとされる人間であるアダムとイブがいたのがエデンで、そこでイブがヘビにそそのかされた結果、二人とも禁断の果実=知恵の樹の実を食べてしまうわけですが……

上記の歌詞では、アダムとイブが住んでいるのはエデンではなく風俗ビル。最初の人間であるはずのイブにはすでに連れ子がいて、知恵の樹の実は一粒いくらのパチンコ玉かもしれない。しかも、歓楽街にエデンが散在しているようです。

 

アダム、イブ、知恵の実、エデン……といった、アダムとイブのはなしに出てくるモノや人は、『アノミー』の歌詞の中では、その唯一無二の絶対性を引きはがされていきます。
現代社会においては、イブにはアダムの前に他のアダムがいるのだし、ヘビに食べろと唆されずとも世の中にはすでに多くの誘惑にあふれているし、人間はすでに多くの「知恵」を身に着けてしまっている。
こうした、「現代社会にすむアダムとイブのたとえ」は、「神」のように、これまでに信じられてきたはずのものの「絶対性」が崩れてしまった、近代社会の寓話であるととらえることができます。


その寓話が意味するところが、最も端的に歌われている歌詞は、以下の歌詞だと思います。

 

神様なんて信じない 教科書なんて信じない
歴史なんて燃えないゴミだ 道徳なんて便所の紙だ
全部嘘だ 全部嘘だ って言ってたら全部無くなった
愛する理由が無くなった
殺さない理由が無くなった

 

「神様も、教科書も、歴史も、道徳も、もはや確かなものなど無くて、何も信じられない」

それこそが、近代化以後の社会というものです。
昔は、神様とか伝統とか、そういうものさえ信じていれば、基本的にはそのまま生きて行けました。しかし、近代化とともにそういうものが科学的に、理論的に、「これ不合理です」「これ、嘘です」みたいに次々と「証明」されてしまう。そうして、これまで信じていたものが証明され、解体されまくった結果、じゃあ、俺は何を信じればいいんだと路頭に迷ってしまう。
そういうのが現代社会です(近代化自体が悪いことである……とかではなく、近代化に伴って発生している問題がてんこ盛りなのはみなさんご存じのとおりです)。
アノミー』はアダムとイブの喩えを用いながら、信じるべきものの権威が失墜した、現代社会の寓話を語ってみせます。

 

そして、さらに。
アノミー』という曲は、近代化した社会の抱える問題について、ほかの何よりも「神」あるいは「愛」と「私」の関係性から考えようとしている曲でもあると思います(たぶん)。

 

そのことを最も感じるのは、次の歌詞です。

 

禁断の果実齧ったって 羞恥心は芽生えなかった
神を殺したのは私 神に殺されるのも私

 

"禁断の果実は、もはや私に羞恥心をもたらさない"。おそらく、「私」は、この「現代社会」が聖書にしるされた言葉の先に行ってしまったと感じています(たぶん)。

上記の歌詞の後に、サビが始まって、「愛って単純なものなんです なんて歌ってる馬鹿はどいつだ」と続くのですが、「馬鹿はどいつだ」と「私」が怒りを露わにするとき、その矛先は、決して、その歌を歌う特定の一人に向けられているのではないと思います。
なぜなら、「神(の愛)を殺した」のは、アダムとイブを風俗ビルに追いやった現代社会そのものなのであり、何より、そんな社会を生きる「私」自身であるからです。
この曲は、愛のアノミー状態に陥っている社会をその外側から皮肉るのではなく、ほかの誰よりも、自分自身がそうした社会の内側に生きていることを強く意識している。
そして、おそらく、そのこと自体が、「罪」として「私」自身を苛んでいるのではないでしょうか。

 

 

 

■それでも「救ってよ」と言ってしまうということ

 

……というようなことを考えながら聞いた結果。

私が「アノミー」で一番重要だと思う……っていうか、一番心惹かれてしまうのは、この曲の最後の部分です。

 

愛って複雑な物なんです なんて歌ってる馬鹿は私だ アノミー アノミー
そんなら この神経過敏な愛で 救えた命はあったか? アノミー アノミー
救ってよ

 

アノミー」は、社会を寓話のように皮肉しながらも、その矛先を、結局は自分へと向けます。
その動作自体がとても近代的なものではあると思うのですが、それより重要だと思うのは、この曲が、最終的に「愛」の問題を、「私」の内側に着地させているところです。

 

この曲が最後に歌うのは、「尻軽」「あばずれ」「馬鹿」「神経過敏」「信じない」「ゴミだ」「便所の紙だ」と罵りながらも、「愛」について考え、歌うことをやめられない。「愛」なるものを捨てることができない。そんな「私」の心の在り様です

この曲は、単に現代社会を客観的に寓話化して、批判しているだけじゃない。
そこには常に、自分の内側にある「愛」や「罪」への葛藤があると感じます。
それは、おそらく、「私」の「信仰」であるとか、「思想」であるとか、そういう問題なんじゃないかと思います。
それでも、「愛」を捨てられない。捨てても捨てても捨てきれない。そんな「愛」への絶望と希望が最後の「救ってよ」という一言にある気がします。

 

「私」が最後の最後に「救ってよ」というとき、その言葉は、だれに向けて発せられているのでしょうか? 
「単純な物なんです」と歌われるあばずれな愛なのか。
風俗街に転がる(神の)愛なのか。
おそらく、これは「だれ」に向けられたものでもないのだと思います。
なぜなら、「私」はすでにそれに応えてくれる「だれ」などいないことを知っているからです。巷にあふれるラブソングが歌う「愛」はアノミー状態に陥り、ただ、膨れ上がる欲望に応えるためだけに量産されているだけです。かといって、救いを求めるべき「神」も現代社会には存在しえない(かもしれない)。「救ってよ」という声に応えてくれる「愛」は現代社会のどこにも見当たりません。
しかし、それでも「私」の唇からは「救ってよ」という声が漏れだす。
この時、「私」の中で一度終わりかけた「神」や「愛」の問題が、もう一度、「私」の中で設定しなおされるのではないでしょうか。
向こうに「だれ」がいるかも分からないのに、「救ってよ」と言ってしまうということ。
それは、ある意味、誰でもいいから、何でもいいから、とにかく「愛」を求めるあばずれな「愛」にも似ています。
でも、最後の「救ってよ」は、「だれでもいい」のではなく「だれもいない」からこそ発せられた言葉であると思うのです。それは、自分の中の孤独を埋めるためにではなく、自分の中の孤独を認め、孤独を刻み付けるためにこそ発せられた言葉なんじゃないか(そういう孤独の中で「救ってよ」という声を拾い上げる対象が、時に、「神」と呼ばれるのかもしれません)。

 

……なんか、よく分からんこと書いてしまいましたが; 

 

私が「アノミー」という曲が好きなのは、「アノミー」が単に警鐘を鳴らしているのではなく、「愛」の問題をほかならぬ「私」自身の内側にあるものとして捉えていること。そして、「愛」なるものを通して、「社会」と「私」、そのどちらか一方だけでなく、その間にある関係性について葛藤し、思考している(ように聞こえる)ところです。
アノミー」という曲には、社会を客観視してため息をつくニヒリズムでも、「私」の痛みを拡張するナルシシズムでもない、「社会」と「私」との関わりそのものに対する問題設定みたいなものがあるんじゃないかと思います。

 

■あとがき

え、これで終わりかよ、って感じですが; ほかにも色々、ここはこうだな、とか、ここはこうなのかな、とか、あるんですが、とりあえず、「愛」とかそういうことについて、「アノミー」を聞いて考えたことは大体こんな感じでした。

神とか愛とか信仰とか書いてますが、私自身がキリスト教信者とか、神学学びました、とかそういうことじゃありません。なので、本当の(?)信者の方が読んでいたら「ん?」と思う部分があるかもしれません。

また、ここに書いたことは、私自身の主観的な思い入れが解釈に関係しているので、きっと、もっと幅広かったり、深かったりする解釈がたくさんあるのではないかと思います。

でも、そういう解釈をこうだよね、こう思うよ、って言い合うことも大事だと思うので、ここに考えたことを残しておきました。

 

(続き)

niwanotori.hatenablog.com