ニワノトリ

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大森靖子& THE ピンクトカレフ「最終公演」@『トカレフ』の感想① Music Clip編  

 

 

 大森靖子& THE ピンクトカレフのファーストアルバムにしてラストアルバム、『トカレフ』が発売された。

トカレフ』には「最終公演」という曲が収録されている。
「最終公演」ときいて連想してしまうのは、ピンクトカレフ解散という、すでに公表されている歴然たる事実だ。しかし、「最終公演」の「最終」がピントカの終わりを意味するのかと言えばそんなことはなく、「最終公演」は二年前に発売された大森さんの一枚目のフルアルバム『魔法が使えないなら死にたい』に収録されている曲で、大森さんも、大森靖子 & THE ピンクトカレフも、ずいぶん前から「最終公演」を演奏してきている。「最終公演」というタイトルに勝手にセンチメンタルを誘発されて、曲の中に、ピンクトカレフの「最後」の匂いを見つけ出そうとしてしまいそうになるのだけれど、それは今、2015年の状況や情報が私にそうさせているだけのことだ。

 

「最終公演」の中にあるのは一つの具体的な「最後」だけでなくて、もっと普遍的であったり、もっと個人的であったり、人によって、時代によって、形を変えうるような「最後」という概念だと思う。
だから、「最終公演」を聞けば聞くほど、頭の中で色んな最後を感じたり、探したり、想像したりしてしまう。
人によってそれが形を変えるのなら、ここで私が色んな推理をしたり解釈をしたりしても意味がないのかもしれない。けれど、この曲を聞いて、私の頭の中にぼんやりと思い浮かぶ「終わり」とか「最後」とかいうものを、一度、目に見える形に表してみたい……

 

という願望が私の中にあるので。
前置きが長くなりましたが、この記事では「最終公演」とそのMusicClipの感想文を書いてみようと思います!! 

 

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■「最終公演」のMusicClipと『トカレフ』の裏ジャケットの話

 「最終公演」のMusicClipは、大森靖子&THEピンクトカレフの、これまでのライブ映像がつなぎ合わせられています。大森さんとピンクトカレフをずっと撮り続けてきた二宮さんという方が作ったMusicClipです。

 


大森靖子&THEピンクトカレフ「 最終公演 」MusicClip - YouTube

 

幾つもの「最終公演」が演奏されるこのMusicClipを見ていると、一つのMusicClipとして完成しているのに、このMusicClipに結末はない……そんな不思議な気持ちになります。

 

このMusicClipは、コラージュのように、一つひとつのライブ映像を継ぎ接ぎし、映像をスムーズに結び付けることで、一つの、4分15秒の「最終公演(のMusicClip)」という作品に仕上げています。
一度、YouTubeの再生ボタンを押せば、MusicClipは、終わりの4:15に向かって再生を始めます。
しかし、私には、画面上に次々と現れる一つひとつのライブ映像すべてが、一つの同じ物語を語り、全ての映像が、一つの結末/あるいは大団円に向かっているようには見えません。
カメラの向こうに移る大森さんとピンクトカレフはいつも違う格好、違う表情をしていて、その向こうにはいつも違うお客さんがいる。それぞれの映像一つひとつに、その日のライブにしかないそれぞれ独自の強烈な物語があって、その一部が(ある種)強引に切り取られ、結び付けられているような。そんな感覚。
「最終公演」という曲と巧みな編集が、それぞれのライブ映像を何とか一つの「作品」としてまとめあげているけれど、一つひとつの映像は、その時、そこにしかありえない躍動感、空間、熱、歓声、記憶……「最終公演」という一曲が生み出した、幾つもの唯一無二の空間の存在を想起させます。

 

このMusicClipは、ピントカの物語を一つの結末に向かって収束さていせるというよりは、むしろ、それぞれのライブ映像の奥にある、多様な物語の存在を感じさせてくれるように思います。

 

 

それは、ある意味で、『トカレフ』の裏ジャケットも同じです。

  

 

 

トカレフ』の裏のジャケットは、大森さんのファンの方が描いたイラストが何枚も採用されていて、その絵が「トカレフ」の形に並べられています。
ファンの人が一枚のイラストに託した大森さんへの想い。
その集合が作り上げる、「トカレフ」の形。
これもある種のコラージュと言えると思います(また、『トカレフ』の歌詞カードの最後には、ピンクトカレフと関係者のみなさんの写真が並べられていて、これもまた一つのコラージュになっています)

大森さんファンの思い入れ、それらが集合して一つの『トカレフ』というアルバムの一部となり、このアルバムを作り上げている……この『トカレフ』の裏ジャケットのコラージュもまた、「最終公演」のMusicClipのように、その一枚一枚のイラストの後ろに猛っているファンの思い、その奥にある無数の物語の存在を感じさせます。
この裏ジャケットは、一人ひとりのお客さんがそれぞれの人生を背負ってライブに挑み、ステージと観客がばらばらの物語を背負いながらも、一つの大森靖子のライブを作り上げる、そんな、大森さんのライブそのものが視覚化されているようにも思われます。

 

「最終公演」の話に戻ると、MusicClipを見ながら思うのは、「最終公演」は、何度も演奏されうるのだということ、そして、演奏されるたびにそれぞれの物語を生み出すのだということです。その独自の物語は、いつも、その日、その場所、空間でしか生まれません。全く同じ人が集い、同じことを感じ、同じ空間を作り出す、そのような「公演」は二度とありません。
全ての公演はすべて、いつもその場所でしか生まれえない、最初で最後の「最終公演」であるのだといえます。

 

トカレフ』という一枚のアルバムの中には、一度のライブ、一枚の絵、一枚の写真、一つの曲、一つの音……一回きりしかありえないモノたちが集まっています。
「最終公演」あるいは『トカレフ』というアルバムは、物語を完結させるというよりはむしろ、一つひとつの物語を活性化させ、それぞれをぶつかり合わせ、結びつけ、また新しい物語を始めるような、そのようなものでないでしょうか。

 

私は「「最終」公演」という曲に、そして、『トカレフ』というラストアルバムに、「最後」という冠がもたらす躍動感のようなものを感じます。それは、完結した公演の裏で、完結し損ねてしまった物語や新しく始まった物語、そういう、「次」を求める物語たちの蠢きみたいなものです。そうした蠢きが、いつか『トカレフ』の外側に飛び出してまた新しい何かを始めてしまう……そんな気配を感じてしまいます。

 

このMusicClipは同じライブ映像で始まり、終わっています。それは、ループというよりも、むしろ、その先に、また、もう二度とは訪れないたくさんのライブ空間が生まれるであろうという、新しい「始まり」を予感させてくれるものではないでしょうか。

 


この記事の続きです。

 

 

 

 

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