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「想像でものを書くものは 銃殺刑を覚悟せよ」/大森靖子& THE ピンクトカレフ「最終公演」@『トカレフ』の感想② 歌詞編

大森靖子& THE ピンクトカレフ「最終公演」@『トカレフ』の感想① Music Clip編 - ニワノトリ

 

この記事の続き……というか、大森靖子& THE ピンクトカレフの「最終公演」(『トカレフ』所収)という曲について、歌詞重視して考察してみたものです。

 

■「始まり」のない日常生活

 


20130916 EXTRA!!! vol.3 大森靖子&THEピンクトカレフ 「hayatochiri」「最終公演」 - YouTube

 

この前の記事で書いた記事で、私は「物語」という言葉を連発したのですが、一方で、「最終公演」という曲は、「物語」を拒否しているようにも見えます。
というのも、この「最終公演」という曲には、「最後」はあっても、「始まり」がない(ように思われる)んです。

 

「最終公演」というタイトルに誘われて、何かの「最後」を予感した頭でこの曲を聞き始めると、私は、まず、途方に暮れてしまいます。「最終公演」があるからには、最初に「こけら落とし」みたいなものがあるはずです。「始まり」がなければ「終わり」はないからです。
しかし、この曲はまず、「始まり」を否定することから始まっています。

 

west side おじいさんが 飛んだり跳ねたりするという
僕はもうbabyじゃないよ 飛んだり跳ねたりできないという
目覚めても芋虫じゃない
食べてすぐ寝てもウシにならないし
モウ 

 

この部分の歌詞、全然、物語を始めてくれません。
例えば、「west side おじいさんが 飛んだり跳ねたりするという」という一行。
「〜という」という伝聞調は、何らかの物語の始まりを想起させます。
例えば、「その昔、西の方に飛んだり跳ねたりする翁がいたという」という語り出しのおとぎ話があるかもしれないし。RPGでこんなセリフを言うモブキャラがいたら、「これから西に行けば何かイベント始まるんだろうな」と思うし。
「〜という」という語り口を聞くと、その後に「そのおじいさんはこんな人で、こんなことをしていて〜〜」とか「そのおじいさんがなぜ飛び跳ねているのかというと〜」みたいな、何らかの展開があるのではないかと、その先の物語を予想してしまいます。

しかし、次に「僕はもうbabyじゃないよ 飛んだり跳ねたりできないという」という歌詞が来る。

「え!」みたいな。

物語始まらなかったじゃん、飛び跳ねるおじいさんいないじゃん、ってなります。

 

このように、「最終公演」において、「物語」は始まると見せかけて始まらない。「目覚めても芋虫じゃない」も同じです。目覚めても人間のままで、「芋虫」になってないと、カフカの『変身』は始まりません。
「食べてすぐ寝てもウシにならない」も同じだ!……というと強引ですが、食べて寝て起きてウシにならずに「私」のままで、そこに何かの変化や「始まり」のきっかけがなかったのなら、そこに何の物語も始まらない。

 

そうした何も始まらない物語の後に、「最終公演」は、何の始まりも存在しない、いつも日常生活を描きます。

 

歯ブラシ鼻の穴に突っ込んで それなりに痛かった
そういえば恋の終わりも それなりに痛かった

 

ここにあるのは、ある日、夢から覚めたら毒虫になったりするような劇的な物語の始まりではなく、歯ブラシを鼻の穴に突っ込んで「それなりに」痛かったり、それをきっかけに「それなりに」痛かった恋の終わりを思い出したり……情けなくなるような日常生活です。

 

しかし、この次の歌詞で、そうした「始まり」のない日常生活の先に、「最後の祭」が始まります。

 

街一番の泣き虫は午後 街中の悲しみをあつめて
歌をうたえば
最後の祭

 

■「最後」しかない祭りの空間

何も始まっていないのに、いきなり始まる「最後の祭」。
「最後の祭り」ってなんなんだろう……「歌をうたえば 最後の祭」という歌詞にあるように、この「最後の祭」の中核にあるのは、「歌うこと」あるいは「踊ること」にあるように見えます。

 

上記の歌詞(サビ?)は、次の歌詞に続いていきます。

 

west side おじいさんが 飛んだり跳ねたりするという
東京の犬も真似して
飛んだり跳ねたりする踊りは
disco! 
life is dead.

 

この歌詞では、もう一度、飛んだり跳ねたりするおじいさんの話が始まっているのですが、最初の歌詞と違って、ここでは、そのお話が「踊りは disco! life is dead.」と続いていきます。ここでは、「歌を歌うこと」や「disco!」という踊りがもたらす最後の「祭り」=祝祭空間が、何の始まりもない日常生活に対比されている……いや、「対比されている」以上に、もう、「取って代わられている」ようにも見えます。
「life is dead.」とは、lifeの終わり、ではなく、どうしようもない日常のlifeから、disco!というまったく新しい空間へのトリップを感じさせる。

 

life is this.猛る音楽
on the stage,in the kitchen,
of ur head is alright!
猛る想い

(歌をうたえば 最後の祭)

 

「lifeはステージの上(あるいはあなたの頭の中の)、歌、踊り、猛る音楽にこそある」……上記の歌詞は、祭りに流れる音楽や、それに合わせて踊る身体、そこに溢れる思いといったすべてをひっくるめた、祝祭空間、音楽の流れるステージの上こそlifeなのだと、告げているように聞こえます。
音楽こそが、「始まり」のない日常生活を生きる「私たち」を解放し、そこにあるlifeを教えてくれる。

ここで、何も始まらなかった、どうしようもないlifeは、音楽空間へと位相を変えます。
そこにあるのは、始まりがあったり終わりがあったりする物語の時間の流れではなく、想いが猛る「その瞬間」だけです。「最後」しかない、始まりもなく、唐突に始まる、刹那の「最後の祭り」。その祭りこそが、始まりのない日々にくたびれた “life”に息を吹きこむのかもしれません。

 

 

「後の祭り」ではなく「最後の祭り」。
「後の祭り」は、もう取り返しがつきません。そこには「間に合わなかった!」という悔いや嘆きがあります。しかし、それが「最後の祭り」になると、間に合わないどころか、ギリギリ間に合っている。

「歌をうたう」ことは、いつの間にか始まっていて、いつの間にか流れてしまったもう取り戻すことのできない時間に対する、逆転の試みなのかもしれません。

「最後」を自分の手元に引き寄せ、自分の手で「最後」を告げる。
流された日々に「終わり」をもたらすことで、自らの「語る声」を取り戻す。

「歌をうたう」ことは、ステージの上でも、キッチンの中でも、頭の中でも、そんなことを可能にしてくれるのかもしれません。

 

  

 

 ■おわりに

前の記事にも書きましたが、大森さんのライブって、すごい、この『トカレフ』の裏ジャケットみたいなところがあると思うんですよね。

ステージの上からステージの下まで、それぞれの人が自分の色を発揮して、初めて、一つのステージができあがる、みたいな……私は、残念ながらTSUTAYAの特典ポスターは手に入れられなかったのですが、アルバムの裏ジャケットに必死に目を凝らして、自分の絵を見つけたときには正直、うれしかったです。私は昔から美術が苦手だったので……。

でも、同時に思ったのは、こうやって具体的に採用されて、わーいうれしいー!ってなるっていう、具体的な経験抜きでも、ライブの一部?になることってできると思うんですよ。
私はあのライブを見に行ったんだ、あのライブの一部になれたんだっていう誇りを持つことって、できると思う。ライブだけじゃなくて、CDでもそうだと思います。CDを聞いて、ライブを見て、私はこの曲を聴いたんだ、体感したんだっていう確かな感覚を自分の生活に持ち帰ることで、自分の生活を色づけ直したりすることは、ライブに行ったり、CDを買うために財布を開くことができる人なら、たぶん、だれにでもできる。

何が言いたいかっていうと、このトカレフ裏ジャケットの企画は、ステージと客席の力が拮抗してるみたいな、そういうステージをやりたいって言っている大森さんの企図がすごく分かりやすく提示されていて、だからこそ、ライブを見るときには自分の人生背負って行こう……っていう背筋が伸びるような特別な気持ちみたいなものをもう一度認識させてくれたました。そして、こういう企画を通して、君も絵をかいてごらんよ!って背中を押してくれる大森さんはなんか、メジャーでやるべきことをやっているんだろうなって思いました。

まだ、『洗脳』だって聞き込み足りないんですけど、『トカレフ』も、たくさん、聞きこんでいこうと思います。

 

この記事のタイトルは、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』から引用しました。
いや、この一節は絶対にこのアルバムのヒントになる!と思って引用したんですが、ちょっと不完全燃焼感……このタイトルについて、いつかもう一度、リベンジしたいと思います。

 

 

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