ニワノトリ

ハロプロ、大森靖子さん、宇多田ヒカルさん、amazarashiなどのJ-popの楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いているブログです。カテゴリ「このブログについて」に記事のまとめと更新情報があります。ご連絡はTwitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.comまで(http://n1watooor1.exblog.jp/は愚痴用になりました)。

I cannot live without you. / 大森靖子「歌謡曲」@『魔法が使えないなら死にたい』の感想

大森靖子さんの曲の感想文シリーズの24曲目?くらいの記事です。

今回書いたのは、大森靖子『魔法が使えないなら死にたい』と大森靖子&THE ピンクトカレフトカレフ』に収録されている、『歌謡曲』という曲についての感想です。

 

 

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孤独は共有することができない。けれど、孤独を抱えた者同士が、一緒に踊ることはできる。一緒に生きることはできる。

青臭い表現になってしまいましたが、そんなことを感じながら、大森さんの『歌謡曲』という曲を聞いています。
『歌謡曲』は私にとって不思議な曲で、聞けば聞くほど孤独になって行くような感覚と、同じ音楽を聞き、音楽に包まれている人たちの体温を肌に感じるような感覚。
そんな相反する二つの感覚を同時に呼び起こされる曲です。

最初に、そんなことを感じ始めたきっかけは、この歌詞でした。

 

でかいギターをかかえたら 君と手も繋げない
だからこの歌で踊って 下手くそでもいいよ

 

この歌詞を聞いた時に、最初に感じたのは、下手くそでも音楽に身を任せて踊ることの楽しさ……ではなく、「君と手も繋げない」ことの寂しさでした。
例えば、君がでかいギターを抱えて歌い出したなら、それがどんなにつらい曲でも、寂しい曲でも、君の手を繋いだり、抱き締めたりすることはできない。
歌をうたう君は最初から最後まで孤独で、そんな君が放つ「踊って」という言葉は、君と私の間にはどうしても共有できない孤独があるのだということを突きつける言葉であるように感じました。

 

その言葉に従って、私が君のギターで踊り始めたのなら、私の中にも、君とは共有できない孤独が生まれるのだろうと思います。
私が大森さんを初めて聞いたのはちょうど一年前ですが、この一年間、熱心な大森さんファンの方のライブレポートや、大森さんについての絵、文章を拝見しては、同じ音楽を聞いても、それぞれが描く世界はこんなにも違うのだということを教えられました。
同じものを聞いても、私たちは決して同じ世界を共有できない。私の中には私の音楽が流れていて、君の中には君の音楽が流れている。

 

しかし、そんな、人を孤独にする「音楽」というものは、一つの空間に流れることで、私たちを同じ現場に立ち会わせてくれもします。
同じ音楽を同時に聞くこと、同時に同じ音に包まれること。
どんなに互いが孤独でも、同じ世界を共有できなくても、「踊る」その瞬間に、私たちは同じ時間を共有し、同じ時間を生きることができます。

 

『歌謡曲』という曲は、「私」と「君」の中にある、絶対に交わりえない孤独を感じさせながら、同時に、同じ時間を生きさせてくれる。
……私にとって、『歌謡曲』は、「この曲を聞く私の孤独」と「この曲を聞きながら誰かと「共にある」こと」を同時に教えてくれる。
そんな曲です。

 

 


 

『歌謡曲』の歌う「物語」について考える時、私は、「踊って」という歌詞を聞いた時と同じような「孤独」を感じます。
『歌謡曲』の歌う「物語」とは何か……これは『歌謡曲』に限った話ではないのですが、私は大森さんの曲を聞いていると、単調な物語……すでに誰かによって語られている、定型文のような物語をなぞるような人生みたいなものが突き破られて行く様をリアルタイムで体感しているような、そんな気にさせられます。

 

例えば、『歌謡曲』には、いろんな「朝」が訪れます。

 

  •  やわらかくして フライパンのままでかきこんだ
     遅すぎる朝 終わってる 終わってるはじまり
  •  あたらしい朝 お気に入り 使い古した絶望

  •  最後の夜にときめいたまま
     つぎの朝さめざめとまたはじまる

 

 

 「朝が来て、夜が来て、朝が来て、夜が来て」。
私たちが生きる毎日は、24時間をかけて、そのリズムを繰り返しています。
誰が死んでも、誰が生まれても、私が絶望しても、私が歓喜に震えても、朝はいつも同じように訪れて、日は同じように沈んで行きます。
そんな「朝」と「夜」を単調な繰り返しと呼ぶとしたら、『歌謡曲』では朝が遅すぎたり、あたらしかったり……「私」のその日その日の感覚が、繰り返しの単調さを崩して行きます。

 


そして、また、『歌謡曲』において、「はじまり」はすでに終わっていたり、「最後の夜」のつぎに「朝」がまたはじまったりします。
この曲では、「はじまり」も「おわり」も狂っていて、「はじまり」に始まることができないし、「おわり」で「おわる」ことができない。
仮にこの曲に「物語」があるとしたら、それは常にねじれています。もし、その曲の「物語」を誰かと共有したいと思っても、どこから話し始めて、どう話し終わればいいのか分からない。
ここにあるのは、誰にも読み聞かせることのできない物語です。

 

私は、ここにも、この曲の「孤独」があると感じます。共有することのできない物語。私たちはこの曲を聞いて、全く同じ物語を頭の中に描くことはできない。そこにあるのは、序破急のようなストーリーのある世界ではなくて、フレーズとフレーズを、点と点を飛び飛びに繋いで行くような世界です。

 

しかし、それでも、私たちは、この曲がライブで流れれば、心地よい音楽に身を任せることができる。
『歌謡曲』、あるいは、大森さんの曲を聞いていると、私たちは互いを100%理解し合なんてできないんだということ。だけど、互いが生きる時間が重なることは十分にありうるのだということ。生きることの孤独も、孤独じゃない部分も、同時に感じさせられます。

 

音源化されている『歌謡曲』には、大森靖子名義の『魔法が使えないなら死にたい』に収録されているものと、大森靖子&THE ピンクトカレフ名義の『トカレフ』に収録されているものがありますが、前者を聞いていると、孤独が色濃く、後者を聞いていると孤独じゃない部分を色濃く、感じます。

 

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半端ですが、感想文は以上です。

 

私事ですが……
お久しぶりです。しばらく、インターネット環境から離れていたので、ブログからも、Twitterからも離れていました。
ようやくネット環境が整ってきたのですが、まだしばらくは安定しなさそうです(Twitterに至ってはログインができません……!)。

しばらくインターネットから離れてみると、インターネットの中では、同じ音楽を好む人を探して、その人のつぶやきを読みながら、孤独を忘れることに必死になっていたなーと思います。特にTwitterでは、どうしても、理解や共感ばかりを求めてしまいがちになってしまう……。
この一カ月くらい、承認欲求とか、共感とか、そういうものを求めて、埋めるためにライブに行ったり、音楽聞いているわけじゃないよなあ……とか、音楽について言葉にすることの意味とか無意味さとかそんなことについて考えたりしていました。でも、そんなことを考えているとやっぱり肩に力が入ってしまって、全然自由に音楽を聞けなくなってしまいます。
なので、この記事は、ああ、もうもっと力を抜こう、何も気にしないで考えないで音楽を聞こうと思って、今回は、あんまり頭でっかちにならないように記事を書こうと思って書きました。
……音楽を聞くのは難しいです。でも、楽しいです。

 

 

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