ニワノトリ

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amazarashiの「ラブソング」について考えたこと(再び)

■amazarashiの「ラブソング」について考えてみた

 先々月に、amazarashiの「アノミー」という曲の感想を書いたんですが、その中でちょっと書いた「ラブソング」についての感想文が、なんか中途半端に終わっていて気持ち悪かったので……。
今回は、「ラブソング」という曲の感想を書こうを思います。
なので、本記事は、この記事↓の続き、みたいな側面があります。

 

niwanotori.hatenablog.com

 

***

 

「ラブソング」はamazarashiが2012年前に発表した、『ラブソング』というアルバムのリード曲です。
タイトル通り、愛についての曲……なんですが。

 


amazarashi 『ラブソング』 - YouTube

 

再生ボタンを押すと同時に流れ出すこの重い音……。
amazarashiの「ラブソング」は、「うまく伝えられないけど君が好きだ」とか「会いたいけど会えない」みたいな、「君」への甘い思いとか辛い思いを吐露するタイプの「ラブソング」ではありません
むしろ、今の音楽市場で「ラブソング」が飽和することで、「愛」の価値が見失われている現代社会、みたいなことを歌っている曲だと思います。

 

私がこの「ラブソング」が好きなのは、「アノミー」でも書きましたが、(キリスト教的な)「愛」なるものに対する葛藤が読み取れる(と私は思う)からです。
前回、「アノミー」の感想文を書いたのですが、「アノミー」は、「(その愛で)救ってよ」、愛への希望を捨てきれずに終わるのに対し、「ラブソング」は「愛を買わなくちゃ」と、愛が資本主義に敗北する(?)ような表現で終わるので、その点では「アノミー」と「ラブソング」は割と対照的だと思っています。

 

ということで、前置きはこれくらいにして……。
以下では、「ラブソング」という曲が、「ラブソング」なんていうタイトルであるにも関わらず「愛」が敗北するっぽい結末を迎えてしまう過程について、歌詞を追いながら、考えながら、つらつら書いて行こうと思います。

 

 

 

■「愛こそ全てと信じること」vs「消費すること」

 「ラブソング」という曲の歌詞には、二つの命令型の文章が出て来ます。

一つは「(愛こそ全てと)信じ給え」。
もう一つは「消費せよ」。

「ラブソング」の曲の中では、全体的に、この二つの命令文の中にある、「(愛を)信じること」と「(モノを)消費すること」という二つの価値観が対比されていると思います。

 

この対比について、まず、一番の歌詞を見て行きたいと思います。
まず、以下に引用したのが、一番の歌詞のAメロとBメロです([Aメロ1]とかは私が付け足してます)

 

 [Aメロ1]
未来は無いぜ 陽も射さない 時代葬ったカタコンベ
油田から昇る黒煙に 咳き込む妹微笑んで
西のバラックに配給を 取りに行った兄は帰らない
「お買い求めはお急ぎを」 とテレビだけが嫌に賑やかだ

 [Aメロ2]
満たされた時代に生まれた と大人は僕らを揶揄した
どこに安寧があるのだと 気付いた時にはもう遅かった
不穏な煙が立ち昇り あれは何だと騒ぎ立てた
奴から順に消えて行った 今じゃ町ごと墓場だ

[Bメロ]
愛すら知らない人が 居るのは確かだ
それを無視するのは何故だ それを無視するのが愛か?

 

このAメロ1、Aメロ2、Bメロは、

 

街の現状の描写(Aメロ1)→現状に至るまでの過程の描写(Aメロ2)→そうした現状に対する疑問(Bメロ)

 

という流れになっています(と思います)。

 

最初に、Aメロから。
Aメロ1では、油田から黒煙が昇ったり、そこで暮らす妹が微笑んだり。街やそこで暮らす人々の様子が描写されています。
一方、Aメロ2は時代の描写です。Aメロ2では、「満たされた」はずの時代が、街を煙で満たし、街を殺して行った様子が描かれています。

 

上では「描写」と書きましたが、Aメロ1とAメロ2はそれぞれ、それだけで箴言や寓話として成り立つような、一つの物語みたいにもなっています。恐らく、それぞれ、一行を一コマの絵にしたら、四コマ漫画として成り立つんじゃないでしょうか。この物語の語り手は、単に街の様子を語っているだけではなく、黒煙の昇る街の風景と「お買い求めはお急ぎを」というテレビと対比させることで、「満たされる」ための欲望こそが街を墓場にした、そんな街の顛末を皮肉っている。
大量にモノを作り、消費する生活は、街に安寧ではなく、黒煙をもたらし、妹の肺を冒して行く。「消費する」ことがむしろ街や人を貧しくしていくのだと、Aメロでは、「消費すること」に対して、どちらかというと批判的です。

そうして、Aメロで、街を眺めた後、Bメロでは、

 

愛すら知らない人が 居るのは確かだ
それを無視するのは何故だ それを無視するのが愛か?


と歌います。
Aメロが、物語の語り手として、街を傍から眺めるような、俯瞰的な視線を持っていたとすれば。「それを無視するのが愛か」と疑問を投げかけるBメロは、かなり主観的です。Bメロは、何かの描写というよりは、「心情の吐露」みたいな形をとっています。
曲の流れから解釈すると、「それを無視するのが愛か?」という疑問は、Aメロで描写された街の様子に対して曲の主人公(?)が抱いている思いの吐露ということができるのではないでしょうか。

 

そう解釈すると、Bメロでは、「消費すること」によって死んだ街の中で、「愛」が失われていることが述べられています。
「消費すること」が「愛を殺した」のではないか。
そして、「愛」は、消費によってもたらされた貧困から、人々を救うことができるものなのではないのか。
Bメロで、主人公(?)は、「消費すること」と「愛」を対比させながら、「それを無視するのが愛か?」と「愛」に対して疑問を投げかけます。
ここで、主人公が「愛」に対して疑問を投げかけるのは、「愛」を信じていないからではなく、むしろ、全ての人々を救うであろう「愛」なるものを心のどこかで信じているからこそ、「なぜ、無視するのか」「なぜ、黙っているのか」という怒りにも似た感情が沸きあがってしまうのではないでしょうか。

 

このように、「ラブソング」のAメロ〜Bメロは、

  1. Aメロで「消費」を追い求めた結果、貧しくなってしまった街の姿を描写し、
  2. Bメロで、そんな街に対して何も身動きが取れない「愛」への疑問が沸きあがる。

そんな構造をしていると思います。

 

 

 

 

■「愛を信じること」から「愛を消費すること」へ

さて、こうしたAメロ、Bメロに続くのがサビです。
AメロとBメロで「消費」と「愛」というものが対比されていたとすれば、サビでは、その両者が交差する……というか、「消費」と「愛」の境界が見えなくなる。みたいなことが起きていると思います。

『ラブソング』のサビはこんな歌詞です。

 

ATM 電気椅子 ストレルカとベルカ 紙幣と硬貨
愛こそ全て
再来世と来世 社会性 人の指の首飾り 花飾り
愛こそ全て 信じ給え

 

それまでは主語があって述語があって……という文が続いていたのに、いきなりの単語の羅列。
羅列だからこそ、単語ごとに、ここは色んな解釈をしうる部分だと思いますが、ここで一つずつやってるとますます長くなってしまうので、ここはざっくり……。

 

この単語の羅列を聞いて私が、イメージとして抱くのは、「情報の飽和」と「消費社会」です。消費社会で消費されるのは、何もモノばかりではありません。信頼も、命も、宇宙も、宗教も、街も人も感情も。何もかもが情報となり、消費されて行きます。
矢継ぎ早に重ねられて行く単語の羅列には、このような、情報が洪水のように溢れ出る様をイメージさせられます。


そして、そうした単語の間にある「愛こそ全て」という言葉。
ここでは、私は二つの心情をイメージをさせられます。
一つは、「愛こそ全て」ということによって、「そんな消費社会であっても、愛だけは別個の価値を持ち続けるはずだ」と懇願するような信仰心。
もう一つは、そんな情報過多の中で「愛こそ全て」と信じることの虚無。あるいは、「愛」もまた、消費の対象となってしまうことへの皮肉。

 

どちらかというと、後者のイメージの方が強くて、噴き出すように羅列される単語の中に、なだれ込むように挿入さっる「愛こそ全て」という言葉には、そうした信仰心ごと消費の対象となって、足元が沈んでいくような感覚があります。


……というようなことを考えながらサビを聞いていると、Bメロでは「愛」こそが消費社会の中の人を救うのではないかと信じられ、「消費」と「愛」の間に境界線がしっかりと引かれていたのに、サビでは、その境界線が融解し、「愛」の方が「消費」に引き込まれてしまう。そんな構造が見えて来る気がします。

 

 

 

 

 

ここで注目したいのが、この曲のCメロから最後に至るまでの流れです

 

[Cメロ]
愛されるだとか 愛するんだとか それ以前に僕ら 愛を買わなくちゃ
消費せよ 消費せよ それ無しではこの先 生きてけない
消費せよ 消費せよ それこそが君を救うのだ

[サビ3]
社会性不安 売春 輪廻転生 ラブソング ラブソング
愛と平和 無銭飲食 墓石
愛こそ全て
自動小銃 生命保険 物欲ビデオゲームと人殺し
愛こそ全て

[サビ4]
急いで買いに行かなきゃ 誰よりも多く買わなきゃ
奪ってでも手に入れなきゃ
愛を買わなくちゃ

 

 

 

特に注目したいのは、「消費せよ それこそが君を救うのだ」という一節と、この一節の後、サビから「信じ給え」という一節が消えていることです。

 

この「消費せよ」と「信じ給え」は、この記事の最初に書いた、この曲に出て来る、二つの命令形の二つです。
……ということを考えると、Cメロを境に、「信じ給え」という命令が、「消費せよ」という命令に取って代わられている、と見ることができます。

 


つまり、ここでは、主人公(?)の信仰の対象が、「愛」から「消費すること」へとすり替わっている。
「信じること」から「消費すること」へ。あるいは、「愛を信じること」から、「消費を信じること」へ。こうした価値観の遷移は、「愛を買わなくちゃ」と、愛すらも消費の対象となり、社会の中で愛の価値が失われて行くその様を描いているといえるのではないでしょうか。

 

まとめると、「ラブソング」では、消費社会に、愛が敗北(しそうになる)寓話を描いた曲であると言えるのではないかと思います。
消費主義の中で、モノや情報があふれているのに、町はどんどん死んで行く。
そんな資本主義の精神の中では、「ラブ(愛)」までもが消費の対象となり、商売の道具となってしまってしまう。この曲は、「ラブソング」が消費されることそのものが「愛」の価値を崩落させるのだということを、描いている曲であると言えるのではないかと思います。

 

***

 

 

アノミー」でも、「愛の崩落」みたいなものが描かれていた……と思うんですが、「アノミー」では、最後の最後まで「愛を信じること」みたいなものに対する足掻きがありました。
私は、割とそういう、足掻きみたいなものが好きだったりするんですが、「ラブソング」の方は、そういう足掻きではなく、「愛を信じること」が「消費」に取って代わられる、という結末を迎えていて、より、寓話的だと思います。メッセージ性?という観点から考えるなら、「ラブソング」の方がより寓話的で、伝わりやすい形になっている気がします。

 

***

 

感想文は以上です。

 

……途中でどこかで引用しようと思っていたんですが、引用し損ねたamazarashiの秋田さんへのインタビューはこちら

 

natalie.mu

 

このインタビュー読めばこのブログの記事は必要ないんじゃないかっていう……。

 


■あとがき

「ラブソング」に入ってる「ハレルヤ」という曲の感想文をちょっとずつ書いていたのですが、何か、書いてる途中で「分からああああああん!!!」ってなって、一旦、挫折し、「ラブソング」に立ち返ってきました(いや、でも、音楽って、本来、言葉だけではとらえきれないものだと思うので、「分からん!分からん!」ってなってる方がいいのかもしれません……)。
前にも書いたように、私、本来はamazarashiの世界観って苦手な方なんじゃないかって思い込んでたんですけど、何か、歌詞とか世界観にすごく引っかかるところがあって、すごく聞いてしまいます。

 

そして何より……ブログでは歌詞についてあーだこーだ書くことしかできないんですが、amazarashiの何が好きって、多分、一番好きなのは、歌詞じゃなくて、ボーカルの秋田さんの声とメロディーにすごく急き立てられてるみたいな気分になるところです。

 

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ところで、前回の記事を書いた時に、amazarashiファンの方から幾つか反応を頂いて、嬉しかったです。ありがとうございました。いや、ここで言ってどうするって話なんですけど……。
amazarashiはamzって略すとか、何か秋田さんご本人が降臨するファンクラブサイトがあるらしいとか、この二か月くらいでamzarashiのことについて少しだけ詳しくなりました(本当は詳しくなってからこういう記事書くべきなんですけどね……)。
ライブに行ってみたいなーと思ってちょっと調べたんですが……sold outばっかりだった……(そりゃそうだ)。今年中に、もし、席に余裕があるライブがあったら行ってみたいなあ。

 

 

 

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