ニワノトリ

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『葛城事件』(赤堀雅秋監督)の感想

2016/6/18(土)に公開された、映画『葛城事件』(赤堀雅秋監督)を観に行って来たので、感想文を書きます。

普段、このブログで書いてるハロプロや大森さんとは全く関係ない映画ですが、見たらどうしても感想を書きたくなったので書きます。

 

本当に感想しか書いてないです。あらすじなど、詳細は公式サイトをチェック。

 

katsuragi-jiken.com

 

www.youtube.com

 

 

以下、感想です。
ネタバレ注意です。

 

 

**

 

 

“抑圧的な父親”を演じる三浦友和の存在感は、スクリーンの中の家族だけでなく、それを覗き込む私たち観客まで威圧するほどで、私は、彼がスクリーンに映るたびに息を潜め、彼が次に何を言うのか、いつ、怒鳴り声を鎮めるのか、彼の顔色をじっと窺わずにはいられなかった。
少し気を抜けば、彼の存在感に私の想像力まで威圧されて、「抑圧的な父親によって家族が崩壊した」「あの父親が次男を犯罪者にした」、そんな結論で、映画の全てに納得をして、それでお終いにしてしまいそうだ。

 

けれど、そうじゃない、そんなことは許さない、と、この映画はずっと囁いている
「あの父親が悪い」。それでは、事件を引き起こした “悪者”が “犯人”たる次男から父親にすり替わっただけだ。

赤堀監督が、

 

 「こういった現実がわれわれの地続きにある」という想像力を喚起したい。

 

と言っているように、『葛城事件』は、凶悪事件を引き起こした、私たち「一般市民」とは違う「悪者」を炙り出すための作品ではない。

 

 

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公式サイトのキャプチャです。

 

『葛城事件』の「葛城」とは、とある無差別殺傷事件を引き起こした「犯人」の名字であり、同時に、この映画の主人公である、その「犯人」の父親の名字であり、その父親を中心にこの映画が映し出す「葛城一家」全員の名字である。

 

今、「とある無差別殺傷事件」と書いたが、この映画を見終わった私は、ひとまず、この事件を「とある」ということしかできない。というのも、この映画において、この事件に、社会的な名前はない。「秋葉原無差別殺傷事件」というような、 “世間”の人が名前を聞いて「ああ、あれね」となるような名前はついていないのだ。映画を見ていても、「犯人」たる葛城家の次男が、どこで、いつ、何人を殺し、傷つけたのか。私たちがニュースで目にするような情報は出て来ない。

「葛城事件」では、第三者に公表される情報としての「無差別殺傷事件」の姿は排除されている。そこにあるのは、テレビにもネットにも新聞にも映らない、とても私的な領域だ。「葛城事件」が描くのは、あくまで、葛城家の日常と事件であり、この映画においては、次男が引き起こした「社会的に大きな事件」も、葛城家の日常の先に起きた、葛城家の事件としての側面が強い。

映画に映し出される葛城家は、私たちが全く見たことのない家族ではない。彼らが住む郊外の街並みも、一戸建ての家も、街並みも、彼らが交わす会話も、表情も、家族の間に流れる気まずい空気も、私たちが生きている中で、どこかで触れたり、見たことがあるものばかりだ。

 

しかし、だからこそ、私には、最後の最後まで、分からなかった。
パンフレットにも書いてあるこの一文。

「普通の家族が、なぜ崩壊し、無差別殺傷事件を起こした死刑囚を生み出してしまったのか」

それが分からない。
保が、なぜ、あの選択をしたのか。
稔が、なぜ、人を殺したのか。
葛城家が、なぜ、崩壊したのか。

葛城家の日常があまりにリアルだからこそ、いつから、私たちの「日常」が「非日常」の側に吸い寄せられてしまったのかが、分からない。

 

それぞれの崩壊の中心に、この映画の主軸たる父親の存在があることは間違いないだろう。

「ああいう人っているよねえ」
「あんなお父さんだったら、こうなるよねえ」
「あそこで、父親が、もっとあの子と向き合っていたらねえ」

と噂話をすることは、きっと、私にもできる。
しかし、そんな噂話だけでは、「葛城事件」は分からない。

レシートの裏に書かれた五文字で、保の何が分かるだろう。
伸子の壊れたような笑いで、伸子の何が分かるだろう。
稔もそうだ。彼があの浅い言葉を積み重ねれば重ねるほど、彼が本当は何をどう思っているかなんて分からないということが分かっていく。

 

手持ちの想像力を使って「もしかしたらこうなのかもな」と想像はしてみても、どこかで彼らに置いて行かれる。
彼らが個々に抱く思いの一つ一つには、共感できるところがあるのに、それらが複雑に絡まって、私の想像力の及ばない悍ましい出来事を作り出して行く。

彼らの住む世界は私の住んでいる世界とこんなに地続きで、彼らの気持ちだって「分かる」のに。彼らは気づいたら、私が住んでいる世界の向こう側に立っている。「日常」と「非日常」に明快な境界線があるとすれば、どこに境界線があったのか、いつの間に彼らがそれを飛び越えていたのか、分からない。「向こう側」と思っている場所が、もしかしたら、私の隣なのかもしれないけれど。

 

いっそ、葛城家の誰かが、「父親が悪い」と言ってくれたなら。もっと「分かりやすかった」のかもしれない。しかし、もちろん、この「映画」に、そんな分かりやすい「なぜ」はない。

「普通の家族が、なぜ崩壊し、無差別殺傷事件を起こした死刑囚を生み出してしまったのか」

この映画は、明確な「なぜ」を用意していない。
順子は「愛してあげる人がいなかったから」稔が事件を起こしたというが、葛城家の姿を追えば、そんな「○○だから」という一面的な説明は、決してこの家族に当てはまらないということが分かる。
この映画には、ワイドショーやWikipediaの素早い解説にはない「分からなさ」が充満している。

 

敢えて言葉にするなら、『葛城事件』とは、いつ、どこに転がって行くか分からない日常の「分からなさ」こそを、可視化する映画なのかもしれない。

 

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※映画のパンフレットの表紙は、「葛城事件」と書かれた薄い紙をめくると、事件の前、落書きをされていない葛城家になる仕様で、葛城家の事件以前/以後を感じさせる(と思う)。

 

 

 

「なぜ」が分からない。あるいは、伝わらない。
これは、『葛城事件』という映画を覆う閉塞感を作り出している一つの要因でもあるのだと思う。

伸子がなぜ、家を出たのか、なぜ、家に戻ったのか。清には伝わらない。
あの場面で、「早く仕事決めろよ」という言葉を絞り出す保の思いは、稔に伝わらない。
「あなたを愛したい」という順子の願いは稔に伝わらないし、稔の言葉も順子に届かない。
清の「強い思い」は、もちろん、家族に届いていない。

 

登場人物はみな、彼らはどんな感情も、思いも共有しておらず、また、殆どの場合、思いを吐露しないまま、次の選択肢へと移って行く。
「吐露しない」どころか、彼らは常に「お前に何が分かる」「俺のことを分かった振りをするな」と、激しい言葉で、あるいは無言で、他者の理解を拒み続ける。
だから、ますます、それを見ている私には、最後まで、分からない。
何が、どうして、こうなったのか。
なぜ、伝わらないのか。
“清が一体、何をしたのか”

 

何度も繰り返すように、私にだって「推測」はできるのだ。
けれど、それはあくまで「推測」に過ぎない。
本当に「分かる」人間がいるとすれば、きっとそれは、葛城家の人間だけだろう。

だからこそ、この映画は恐ろしい。
「なぜ」かが分かっていれば、私の家族が葛城家にならないような手が打てる。
しかし、明確な原因・理由なんて分からない。
分からないから、いつ、私が「葛城家」の世界に足を踏み入れるかが、分からない。いざ、自分が「葛城家」になった時、それに自分で気づけるかどうかも分からない。
「本当は分かってるんでしょ」、そう問いかけられる前に、気付くことができるのかも、分からない。

 

どうしてそうなったのか、どこなら引き返せたのか、分からない。
分からない、ばかりが残る映画だった。
ワイドショーやWikipediaの素早い解説にはない「分からなさ」。
この「分からなさ」は受け止めるには重すぎて、未だに映画のシーンが頭の中をぐるぐると回っては、だけど、何の説明も解説もできなくて息苦しくなる。

 

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