ニワノトリ

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follow the pink methuselah /大森靖子「ピンクメトセラ」の感想文です

2016/8/24に発売された、大森靖子さんのシングル『ピンクメトセラ』を聞きながら考えた雑感をまとめた記事です。

 

『ピンクメトセラ』は、大森靖子さんが声優をするWebアニメ「逃猫ジュレ」のテーマソング。 "ピンクメトセラ"は、「逃猫ジュレ」に出て来るピンク色の木馬(ジュレが愛用してるらしい)のことだそうです。*1*2

 

youtu.be

以下、『ピンクメトセラ』の個人的な感想文を書いておりますが、シングル発売にあたり、大森さんはウェブでも色んなインタビューを受けていて、ご本人の解説も読むことができます。ご本人の解説がやっぱり一番分かりやすいです。

簡潔さでいうとこれが一番短くまとまっていると思います。 → 81.3 FM J-WAVE : Beat Planet

 

■『ピンクメトセラ』の変拍子に大森さんの夢を見る

 サクライケンタさんによって編曲された「ピンクメトセラ」は、巧みな変拍子に仕上がっていて、聞き手が音楽に乗ろうとしたその瞬間にリズムを狂わす。
足を引っ張るように鳴るドラムの音に、どのように身体を揺らせば良いのか分からない。けれど、『ピンクメトセラ』の確信的に変則的なリズムはとても僕的に「大森靖子的」だ。
というのも、大森靖子という人の曲はいつも、「こうやって進んで行くんだろう」という、聞き手の予測を裏切るようにして進んで行く。

突然、感情を爆発させたり。罵ったり。
かと思えば、繊細な言葉で聞き手の心を突き刺したり。

そういった数々の曲の中で、大森さんの曲は、僕に、「自分の運命に抗え」と、脅迫的なまでに強烈に僕に訴えて来た。

 

似合わない街 にいこう 睨まれて帰りたいな (イミテーションガール)

どうして女の子がロックをしてはいけないの? (マジックミラー)

まあ、こんなもんか、の安易な運命で、
決め打ちしないでおいてよかったな(劇的JOY!ビフォーアフター

 

「僕はどうせこうだ」「お前はどうせこうだ」「女ならこう振る舞え」「男なら男らしくしろ」

そうした、それぞれの人の身体に、その人自身やその人以外の何かが書きこむ「かくあるべき自分像」。大森さんの歌はいつもそれに抗する。
歌詞も、曲調も、「最初からお前がこうなるって分かってたよ」とあざ笑う誰かをあざ笑い返すかのように聞き手の予想を裏切り、混乱させる。その混乱に僕はいつも救いを見出して来た。

前置きが長くなってしまったけれど、だから、僕は「ピンクメトセラ」の変拍子に「大森さん的」なものを感じて、好きだ。

そして、僕はこの、次を予測できない「変拍子」が、『ピンクメトセラ』の歌詞の世界観そのものでもあるような気がしている。

 

 

 

■『ピンクメトセラ』のSNSリアルについて

 

『ピンクメトセラ』は、次のような歌詞で始まる。

 

リンシノモリのウイルス
感染ルートは僕の下書き保存 ナチュラルな死にたみを吸いこんだリンゴさ
盗撮した水色に 鍵をかけたはずなのに
僕を見透かして笑う 現実と夢の彼岸にて

 

「ウイルス」「下書き保存」「死にたみ」「鍵をかけた」

この歌詞を10年前の僕が聞いたら、 “mixiの曲だな”と思ったかもしれないし、20年前の僕だったら、インターネット空間を連想したかどうかも分からない。

けれど、今の僕は、もちろん、真っ先にTwitterを連想する。

『ピンクメトセラ』では、上記の他にもクラウド化」拡散希望「一斉送信」「匿名希望」と、TwitterあるいはSNSに結び付く言葉が多用されている。「鍵をかける」これが、家のドアの鍵よりも、アカウントの隣に表示される鍵マークを先に連想させるようになるとは、10年前には予想もしていなかった。僕たちのリアルを表現する言葉は、徐々にSNSの世界に上書きされつつある。

映画「マトリックス」には、「起きているのに夢を見ているような感覚」という台詞が出て来るけれど、アンドロイドの画面を見ながら道を歩いて車にひかれそうになり、近所のドラッグストアがドラッグストアである前にポケストップである僕の現実において、スマホの中と外のどちらがリアルかなどという線引きは、もはや意味をなさなくなっている。

またしても前置きが長くなってしまったけれど、要は、僕は、『ピンクメトセラ』はまさにそうした2016年の「リアル」を、そのまま歌に取り込んでいるじゃないかということを言いたかった。

 

もっとも「リアル」だと思うのはこの歌詞だ。

 

僕を見透かして笑う 現実と夢の彼岸にて

 

『ピンクメトセラ』のMusicClipで、青い髪の猫(たぶん、この猫がジュレ)はずっと何かから逃げているのだけれど、この歌詞を聞きながらジュレを眺めていると、彼女は、SNSリアルな世界で、「僕を見透かして笑う何かから逃げているのではないかと思えて来る。

 

というのも、僕のTwitterのタイムラインを見ていると、僕の140字も含めて、TLの上に居る人は、みな、「僕を見透かして笑う」何かから逃げようとしているように見える。

Ex.突然のツイ消し。
Ex.敢えて深夜の誰もいない時間にするツイート。
Ex.メンヘラだから○○するという防衛線。
Ex.表に出せずに溜まって行く下書き保存。
Ex.突然生まれる鍵アカウント。

みんな「何か」を恐れている。
拡散炎上特定クソリプブロックリム誤フォロー威嚇ふぁぼetc…
SNSにはリスクが溢れている。

 

僕について言うと、僕が恐れるそうしたリスクたちの根本にあるもの、それは「誤解」だ。

「そうじゃない」「そういうことが言いたいんじゃない」

僕が言いたいことじゃないことが伝わるのが怖い。
SNSが僕のリアルでもある今、SNSでの否定は、そのまま僕自身の否定とイコールだ。僕が言いたいことじゃないことが伝わって、たった140字で僕の全てを見切られる(と思われる)のが怖い。

僕の知らない人が、その人の価値観と正義で、僕のツイートを精査し、インターネットの上にしかない情報で、僕そのものをカテゴライズする(僕が他の人の呟きに対してそうしているように)。それが多くの人に「大連鎖」したら、僕にもたらされるのは、炎上のごとき「大ダメージ」だ。

 

いくつもの正義にがんじがらめなんだ
ピンクメトセラ 逃げよう
いのち賭けで 逃げよう


インターネットという空間で、すべてのリスクを避けるためには、「誰にとっても正しく、誰もが傷つかず、誰もが等しく、同じく、解釈できる140字」を呟くしかない。

「このアカウントの人間が呟くにふさわしい140字」と誰もが見なす発言を続けていれば、リスクは格段に少なくなる。

けれど、そうした平板な140字は、それこそ、「誰にとっても予測可能な」140字でしかない。
そうした、いくつもの正義に配慮した140字によって、僕は僕を「どうせ僕はこうなんだ」という枠のうちにどんどん追い込んで行く。

 

 

■木馬に仕込まれたウイルスと誤読される言葉について

 

ピコピコハンマーラブも大連鎖したら大ダメージ
希望の残骸
甘く煮詰めた溜息で空腹しのいだ

 

そうしたことを考えながら、「ピンクメトセラ」を聞いていると、「ピンクメトセラ」のMuicClipで描かれるファンタジーな「リンシノモリ」の世界は、そうした、「言葉から零れ落ちた “僕”の残骸」が可視化されたもののように見えて来る。

伝わると思っていたのに伝わらなかった気持ち。呟いてみたのに誤読された僕の気持ち。呟くことすら諦められた僕の気持ち。言葉だけでは表現できない僕の悪意。

言葉という記号では拾い上げられず、零れ落ちて行った「僕の現実」が具現化した森。それが「リンシノモリ」なんじゃないか。

 

1秒毎に終わりが降り注ぐおわりが痛い 痛い 痛い
大切が過ぎていくまでわからないよ
ピンクメトセラ おねがい
ピンクメトセラ 連れてって

 

言葉というものは常にそうだけれども、言葉は伝えたいものを100%拾い上げないし、100%伝えない。何回どんなに呟いても、どんなに文字数を重ねても、それは変わらない。呟いた瞬間に、そのうしろには、言葉から零れ落ちたものの残骸が積み重なっている。1秒ごとに更新されるTLでは、今日も、そこには言葉ではない何かが廃棄され続けているのだろう。

しかし、そうして、後に残ったものの中にこそ、「僕(だけの)のリアル」がある。「大切」は言葉を発した後にしか分からない。

 

 

だとすれば、僕が「ピンクメトセラ」に連れていってほしいのは、僕の気持ちが100%誤解されずに伝わる、魔法のような世界なのだろうか。

 

……もちろん、そうではないと思う。

 

喜びも悲しみも
一秒毎全部君に伝えたい 痛い 痛い 居ない
踊らなきゃ 言わなきゃ ぎゅっと抱き合わなきゃ
さみしかったでしょ おかえり
ピンクメトセラ おかえり

 

この歌詞を聞いた時、僕は、「ピンクメトセラ」は、「言葉の外にあるものを放棄するな」ということを歌っているのだと思った。

というのも、そうした「言葉の外にあるもの」の遣り取りは、「君」「僕」の間にしか生まれえないからだ。

 

時にSNSで正論を振りかざし、「炎上」させる人々は、その140字の後ろにある背景を無視して、額面通りの正義を振りかざしてその人の人生を台無しにする。例えどんな事情があろうとも、そこでその写真を、その言葉を、発したことそれ自体が悪であるのなら、それは断罪されるしかない。そこでは「こうかもしれない」という余白が、全て正義によって塗りつぶされており、「お前はこうやって振る舞うのが正しいんだからそうしろよ」という正解しか用意されていない(そして、こうした時、たいてい、彼らが見ているのは特定されるべき名前、住所、家族構成……といった「僕」のデータに過ぎない)。

 

先ほど、僕はそうしたリスクを避けるために「「このアカウントの人間が呟くにふさわしい140字」と誰もが見なす発言を続けていれば、リスクは格段に少なくなる。」ということを書いたのだけれど、しかし、そうした僕というキャラクターに相応しい140字があるとするのなら、それはYouTubeAmazonが僕におすすめするあの作品たちと何が違うというのだろう。

僕の住んでいる場所、使用する言語、性別、購入履歴、行動時間。僕は大きなデータベースの中で処理され、最も適切な情報を提示する。下書き保存しようと、PWをかけようと、僕の書きこんだ僕の情報は、「僕を見透かして笑う」アルゴリズムによって処理される。ネットの情報を元に「誰か」をカテゴライズすることは、人よりもアルゴリズムの方がはるかに上手だ。

 

いずれにせよ、僕のクリックや呟きに基づいて、ネットの上の顔のない誰かや、もっと巨大で正確なデータベースが算出する「僕の好みを予測して与えられる選択肢」や「僕が呟くべき140字」は、「かくあるべき僕の姿」しか提示してくれない

 

 

しかし、例えば、僕の目の前の「君」が、僕の言葉を聞いて、「君はそういうけど、私はそう思うよ」「私はあなたの言葉を聞いてこれを思い出したよ」と言ってくれたなら。

それは、時に、データベースの外側にある新しい可能性を「僕」に提示してくれるかもしれない。

「僕」が「君に伝える」ために言葉を発するとき、「君」は「あなたがどういう選択を取るべきか」という最適な回答を導くために「僕」の話を聞くのではない。
「僕」と「君」は、君と僕の間に言葉を交わし、お互いの思考に想像力を巡らせることそれ自体に意味があり、目的がある。
言葉から漏れ落ちるリンシノモリは、「僕」と「君」が次の言葉を発し、交流を深めるための動力源のようなものだ。

君は時に、「僕」の意志を汲み取り切れずに、「僕」を誤読するかもしれない。
しかし、その「誤読」は、「僕」に思ってもいない新しい解釈を見つけさせるかもしれない。

「私の言葉をそのままあなたに受け取って、あなたには私と同じように解釈してほしい」という暴力的な願望よりも、「あなたがどう考えるのか知りたい」という「あなた」と共にあろうという姿勢が、僕を僕の運命の外側に連れて行く。

 

「誰か」の正義に怯えて、「君」に伝えることを放棄していては、「僕」はかくあるべき「僕」の運命から逃れられないのだ。

 

言葉は誤読され、解釈され続ける。「誤読」されることのない言葉があるとすれば、そこには、解釈のできない死んだ脳か、解釈する余地がない、平板な正義に支配された、死んだような言葉しか残されていないだろう。

「言葉で伝える」こと、それは、誤読をするかもしれないあなたに向って言葉を伝えるということだ。

 

トロイの時代から、現代まで、木馬の中にはいつもウイルスが仕込まれている。

 

ピンクメトセラ おかえり

 

変拍子のように何が飛び出してくるのか分からない木馬と共に生きて行かなければ、自分自身を裏切る新しい言葉を手に入れることなどできやしない。

ディスったやつに薔薇の花束を贈るように、今日も、ピンクメトセラはあなたと私の間を往来する。

 

 

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