ニワノトリ

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19歳のあの子を思い出す時、あの子はいつも縷縷夢兎を着ているだろう/東佳苗監督“Expiation in a dream”@『muse.vol.1』の感想文

突然ですが、ハンドニットブランド縷縷夢兎の写真集『muse.vol.1』にはDVD付のものがあり、そのDVDには "Expiation in a dream"と"dress for me"という映像作品が収録されています。
昨年、「縷縷夢兎」の個展に行った際にこの二作品を見て、とても良い作品だと思ったので、DVDほしい!見たい!と思ったのですが、もうDVD付のものは手に入りませんでした。
が、TwitterでDVD見たいのに見れない……とボヤいていたら、親切なフォロワーさんが貸して下さり、家でもう一度見ることができました(ありがとうございました)。
せっかく見ることが出来たので感想文を書きました。まずは、"Expiation in a dream"の方です。ネタバレはあまりないです。いつも、文章が無駄に長くなるので、4000字程度になるよう心掛けました。

なお、『muse.vol.1』は、以下のサイトから購入することができます(DVDはついていない)(でも、写真集だけでももちろん読み応えあります)。

vvstore.jp

東佳苗監督“Expiation in a dream”@『muse.vol.1』の感想文

 

“Expiation in a dream”越しに、私の青春の記憶を引っ張り出すと、私がこれまでに出会った 「あの子」は皆、縷縷夢兎を着ていたのだということに気が付く。
「縷縷夢兎を着ていた」とは、比喩である。
縷縷夢兎を着るように、あの子は生きていた。
「あの子」とは、私が大好きだったあの子であり、私が苦手だったあの人であり、“Expiation in a dream”を見る私自身のことでもある。要は、私の10代の思い出に登場する主な登場人物たちのことだ。
“Expiation in a dream”の45分の中には、「私(たち)」が通過して来た、縷縷夢兎のような青春が鮮やかに映し出されていたのである。縷縷夢兎って美少女だけのものだと思ってたけど、そうとも限らないかもね? そんなことを思わせてくれる“Expiation in a dream”は、縷縷夢兎を通して、「私(たち)」の青春を再定義する、そのような映像作品だった。

 

縷縷夢兎は、東佳苗さんのハンドニットブランドである。ニットブランドである以上、それは「服」なのだけれど、“Expiation in a dream”で縷縷夢兎を着ているのは誰だっただろうか。おそらく、この映像の一つの試みは、「青春」のような、「10代」のような、女の子が通過する時間そのものに、縷縷夢兎を着せることにあったのではないかと思う。
“Expiation in a dream”は、バーに集まった女子3人(ひめ、まほ、のん)の会話から始まる。 

「そういえばさあ、美人姉妹覚えてる?」

 

美人姉妹こと、詩織と夢。
バーに集まってお酒を飲んでいる3人。
この5人に、るうこを加えた6人が“Expiation in a dream”の主な登場人物である。

 

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上記の会話は次のように続いて行く(一部抜粋)。

「めっちゃかわいかったよね」

「あたし嫌いだったな」

「えーそうなん、結構好きやったかも」

「嫌いっていうか酷かったよね」

「やってることが酷かったよね」

「誰でもやってたやろ?」

「私、やっぱ嫌いだったかも」

大人になった3人の回想として、“Expiation in a dream”は始まる。3人が思い出すのは、6人が一緒に過ごした、ある夏の出来事である(あの夏の風景を回想と捉えるか否かについては、観客の解釈によるところが大きいと思うが、私は、今回は、あれを回想として捉えてみようと思う)
夏を思い出す大人の彼女たちは縷縷夢兎を着ていない。彼女たちは雑誌から抜け出して来たような"きれいめ"の格好をしている。
縷縷夢兎を着ているのは、記憶の中の6人だけだ。
“Expiation in a dream”において縷縷夢兎を着ているのは、彼女たちの「記憶」なのである。

 

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物語の序盤、記憶の中の少女6人は、色々な場所を歩き回る。雑踏、ファミレス、カラオケ、ドンキ。彼女たちは縷縷夢兎を着ているから、その当たり前の風景に馴染めない。ピンク色やラメのキラキラとした色が、彼女たちの存在を否応にも浮かび上がらせる。そうして浮かび上がった彼女たちのとる行動と言えば、飲酒、喫煙、振り込め詐欺、援交。そうした行為をするには、目立ちすぎなのではないかと危惧してしまうほどに、彼女たちは異質な格好をしている。*1
しかし、一方で、彼女たちの「異質さ」は次のことを指示してもいるだろう。私たちは恐らく、街を歩くたびに、そうした行為をしている女の子とすれ違っている。けれど、彼女たちが制服を着て、 “普通の”格好をして、街の風景に馴染んでいるから、私たちは彼女たちに注目をしない。“Expiation in a dream”の少女たちは、我々が見過ごした風景の中にいた少女を炙り出すかのように、縷縷夢兎を着ている。*2
私たちが少女の「ちょっとした」「よくある」罪を見過ごすように、彼女たち自身も、自らの行為を「見過ごして」大人になったのである。というのも、本作の監督である東佳苗さんは、このように言っている。

 「Expiation in a dream」 は【夢の中で罪滅ぼし】とゆう意味です。 決して人には口が裂けても言えない、 昔あったあんなことやこんなこと 現在進行形でしてるあんなことやこんなこと そういう諸々を抱えながら女の子達は何事も無かったかのように綺麗な大人になっていく。 […] Expiation in a dreamは、 女子特有の其々己の自己保身から来る曖昧に愛したり犯したり隠したりする超Lightな罪の感覚を比喩的に描いています。*3

煙草をふかし、ほろよいを飲み、「おばあちゃん、お姉ちゃんがお金に困ってるの」と公衆電話で電話を掛ける。大人になった彼女たちは、そうした過去などなかったかのように、「きれいめ」にオシャレをして、華やかに女子会を開いている。日々、後悔に苛まれるほどでもない、足元を掬われるほどでもない、 “Light”な罪。
しかし、そうした “Lightな”罪は、彼女たちの記憶が縷縷夢兎を着ることにより、鮮やかによみがえり、存在を主張するのだ。

「あなた、こんなこと、やってたよね?」

灰色の街並みから浮かび上がる、縷縷夢兎のピンク色は、日常の隣にある「ちょっとした」悪事に手を伸ばした過去が、大人になった彼女たちの内側のどこかで息をし続けているのだということを、縷縷夢兎という形で再認識させるかのようだ。

 

しかし、そうした罪の浮上は、“Expiation in a dream”の序章に過ぎない。
物語の進行と共に、“Expiation in a dream”はより、残酷に、彼女たちの “罪”の深層に迫って行く。

 

“Expiation in a dream”は、後半、街の中から、山奥のキャビンへと舞台を移す。
山梨県の山奥、6人以外誰もいないキャビンの中は、ぬいぐるみが並び、天蓋のようにレースが落ち、キャンドルが並んでいて、縷縷夢兎の個展を彷彿とさせる空間になっている。

 

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そんな山奥の縷縷夢兎的空間へ「現実逃避」しに向った6人は、そこで、とある事件に遭遇することになるのだが、そうした、6人しかいない空間で剥き出しになるのは、前半で描かれた罪の意識が、「あの子が好き」「あの子が嫌い」という好悪の感情と表裏一体であることである。

 

「嫌いっていうか酷かったよね」

「やってることが酷かったよね」

「誰でもやってたやろ?」

「私、やっぱ嫌いだったかも」

 

大人になった彼女たちが話していたように、“Expiation in a dream”において、「誰でもやっている」(私もやっている)(援交のような)”酷い”行為は、「あの子嫌い」というような、 "仲間内の誰かに対する何らかの感情"と同時に語られる。
キャビンという社会から隔絶された空間において浮かび上がるのは、援交のような彼女たちの行為の裏側で形成される、彼女たちの人間関係(あるいは権力関係)である。
6人は、決して、均等に仲が良いわけではない。6人の女の子は、その6人の相関図の中で、様々な共犯関係を結ぶ。
ある2人は、「元締め」をするあの子(詩織)に不信感を抱き、「何かありそう」とその不信を確かめ合う。
ある二人は、誰にも(観客にも)聞こえないひそひそ話をして、「飲み物買って来るね」といなくなる。
あの子にだけLINEを送る。目を合わせる。手を繋ぐ。しかし、もっと好きな女の子が来たらその手を解く。
など。
街中において(公的な)「罪」を犯す時、彼女たちはいつも共犯関係にあるが、その共犯関係の奥には、もっと私的な共犯関係が複雑な編み目を作っているのだ。
キャビンで描かれるのは、家族、学校、新宿……様々な「社会」の中で「少女」という位置づけを生きる彼女たちが、同じ位置づけにある者同士で形成する、「女の子」という社会のありようだ。
彼女たちが形成する社会、その編み目の中に行き交うのは、様々な好意/悪意/不信/愛/嫌悪といった、「私ではないあの子」に対する何らかの感情であり、彼女たちが張り巡らせた感情は、最終的に、“Expiation in a dream”の核となるある「事件」に行き着くことになる。
それは、少女の少女に対する事件である。この、「ある事件」についてはネタバレになるので詳細は控えよう……と書きたいところだが、実際のところ、この「事件」が「何」だったのかは、恐らく、誰にも分からない。
少女たちの証言や行動を見ていると、ある少女はその事件の一部を「見ていた」し、ある一人は、何らかの形で「関係していた(手を貸していた?)」ようにも見える。
しかし、何を見たのか? 何をしたのか? 肝心な部分は語られず、また、カメラにも映らない。そのため、事件の全貌はつかめない。
この曖昧さは、少女たちが、敢えて、それを思い出さないようにしているかのようである。喫煙、飲酒、援交のような(公的な)罪が堂々とカメラに映されていたのに対し、この事件の全貌、事件への個々の「関わり」は、カメラから逃れ続ける。
肝心なところを映さないのに、それでも、彼女たちにカメラを向け続けるカメラは、まるで、彼女たちにこう問うているようでもある。

 

「あなた、あの時、何をやったの?」

 

カメラの前に告白されない罪は、“Expiation in a dream”の中に、その気配だけを色濃く漂わせている。
そうした「罪」の一つひとつは、おそらく、「ちょっとした」ものなのだ。
あの子が嫌いだから、見て見ぬ振りをした。面倒だから、何も言わなかった。好きなあの子に頼まれたから、ちょっとだけ手を貸した。
それらは、彼女たちの、「あの子」に対する感情が引き起こした、女の子の女の子に対する私的で些細な罪である。しかし、それらは「些細」であるはずなのに、公的な罪の奥にさらに奥深くにその存在を隠し続ける。まるで、そちらの方が、「隠した方が良い」ものであるかのように。
山奥のキャビン。その空間で起きる「事件」。
山奥にひっそりと、作り上げられた縷縷夢兎の世界は、女の子が心の奥にひっそりと隠している、 “女の子の女の子に対する”罪の存在を象徴するかのようだ。

 

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そうした象徴としての縷縷夢兎は、「あなたの奥にももしかして……?」と観客の記憶をノックする。
あなたの記憶の奥底でも、「あの子」から逸らした目があったのではないか。離された手があったのではないか?
援交の経験はなくとも、そうした記憶には何らかの心当たりがあるのではないだろうか。
そうして、“Expiation in a dream”を見れば、忘れかけていた10代の思い出が、毒がまわったようにじくじくと痛みだす。“Expiation in a dream”が、誰の奥底にもある、縷縷夢兎のような罪の記憶を呼び起こすからだ。

 

“Expiation in a dream”は、女の子たちの「罪」の記憶を、社会的な「罪」と私的な「罪」双方の関係性の中に描き出す。この時、縷縷夢兎は「衣服」というよりは「比喩」である。
“Expiation in a dream”とは、すべての女の子と、その奥にある罪に、縷縷夢兎を着せ、「縷縷夢兎のようなあなたの記憶」を意識の上に浮かび上がらせる。そのような企てなのだと思う。

 

※文中で使用している写真は全て、 「rurumu 2nd Exhibition"PLAYHOUSE"」で撮影したものです。

 

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*1:6人のうち、夢ちゃんだけは少し立ち位置が違って、夢ちゃんの服は、制服⇒縷縷夢兎⇒制服という変遷をたどるのだけれど、そのことについてはまた違うところで考えてみたいです

*2:街の中で、彼女たちはあゆを歌い、LINEで会話をします。彼女たちは、90年代~10年代までの街を歩き回っているようにも見え、それは、メールで援交が始まった90年代から今まで、「女の子」は変わらずに罪を抱き続けているのだということを、示しているのかもしれません

*3:http://www.imgrum.net/media/1057592981044089885_17636300