ニワノトリ

ハロプロ、大森靖子さん、宇多田ヒカルさん、amazarashiなどのJ-popの楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いているブログです。カテゴリ「このブログについて」に記事のまとめと更新情報があります。ご連絡はTwitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.comまで。

「超歌手大森靖子 MUTEKI弾語りツアー」中野サンプラザ公演(2018/1/20)に行ってきた

Twitterで、

大森さんの中野サンプラザ公演に急に行けることになったけど、すでにSold Outだった!

みたいなことをつぶやいたら、親切なフォロワーさんのお陰で行けることになった。大森さんを好きになった頃からフォローしているフォロワーさんだったので、なおのこと嬉しかった。縁あって隣の席の方とも少しお話したが、日ごろの行いが良いことが推察される親切な方だった。

ライブを見られたことはもちろん、そもそも、行けることになったという事実そのものがとても嬉しかったので、お礼をブログにも書いておきたかった。

ありがとうございました。

 

以下、「超歌手大森靖子 MUTEKI弾語りツアー」中野サンプラザ公演(2018/1/20)公演の感想文です。

 

 

***** 

 

 

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大森靖子さんの「音楽を捨てよ、そして音楽へ」には、"抽象的なミュージック止めて"という歌詞があり、実際、この曲では、この歌詞の後、音楽が数秒間停止する。

この停止の間、CD音源では悪口が聞こえるのだが、超歌手大森靖子 MUTEKI弾語りツアー中野サンプラザ公演(2018/1/20)でこの曲が演奏された際、私たちが音楽が止まった瞬間に「見た」のは大森さんの背後に浮かび上がる魔法陣だった。

"抽象的なミュージック止めて"という言葉と共にステージが暗転し、「魔法陣」が浮かび上がる。私たちはさっきまでも大森さんの背後に大きく描かれた「魔法陣」の絵を見ていたはずだった。真ん中から突き出すように伸びたビルが作る、多角形の魔法陣。けれど、今は、魔法陣の中に丸い球がたくさん浮かんでいる。直線から曲線へ。魔法陣の、さらに後ろに潜んでいた魔法陣が、音楽の停止とともに、私たちの目に晒される。

 

 

音楽が止まったその瞬間に浮かび上がる風景があるとすれば、それこそが音楽の魔法なのかもしれない。音楽が流れる前とも、音楽が流れている最中とも異なる、音楽の後にだけ広がる風景。
この魔法に出会うためには、私たちは、好きな音楽ですら届きえないほど、奥深くにある魔法陣に会いに行かなくてはならないのだろう。だとすれば、私は大森靖子にすら歌えない自分を掴むためにこそ大森靖子を聞かねばならない。音楽が止まった瞬間に浮かび上がる魔法陣のように。歌を歌う大森さん自身には背後にある魔法陣を見ることができないように。その風景を見ることができるのは私自身だけなのだということを、大森靖子の音に証明しなければならない。

 

Ex. "私が君に会いに来た 私も君に会いに来た" in '流星ヘブン'

 

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まったく大森さんとは関係のない本なのだが、今読んでいる、ある作家についての評論に次のような一節があった。

 

彼は、彼の読者に何度もやってみせてきた。彼ら自身を深く覗き込み、彼ら自身の内なる「声」に従事し、その声を彼らの取り囲む世界を知覚し、作り変えるために使うことの大切さを。*1

 

この評論はこの作家の本に、それぞれの人の中にある「内なる声」によって物語が紡がれる様子を読み取っている。この社会にはあらかじめ用意された物語やシステム(例えばイデオロギーのようなもの)があり、それらは、そこに暮らす人々にそのシステムにのっとった物語を生きるよう強いる。それは同調圧力と言い換えてもいいかもしれない。
そうした、圧力に回収されず、それに抗するものとして、それぞれの人の中にあるのが「内なる声」である(ざっくりいうと)。
この論を読みながら、私は、その作家のことではなく、大森さんのことを考えていた。
大森さんはずっと、人の心を押しつぶしてまでも「同調」を求め、分かりやすい物語ばかりを繰り返す社会に抗する言葉を歌ってきていたはずだ。

 

Ex. "死を重ねて生きる世界を壊したい" in 'オリオン座'

 

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そうした社会を壊すためには、どうすればいいのか。バンド編成の大森さんのステージは、それに真っ向からぶつかって行く。
対して、今回の弾き語り公演は、音楽と「共に爆発する」ことよりも、音楽と対峙することを際立たせるものだった。音楽に体を揺らすことよりも、耳を澄ませること。息をひそめて、次の展開を、次の音を一つ残らず掴み取ること。
大森さんの音楽を聞くとき、私たちの耳が聞いているのは「大森さんの音楽」なのだろうか。もちろん、それは「大森さんの音楽」で、大森さんの声で、歌で、音なのだけれど、きっと、大森さんの音楽というものは、掴んだ掌を開いたら、そこにあったのは、なくしたと思っていた自分自身の「内なる声」だった。というようなことをやっている。一人だろうが二百人だろうが二千人だろうが「あなたのことを歌うんだ」と言い切る大森さんがやろうとしているのは、大森靖子の音楽を聞くことが、あなたが聞いたことのないあなたの声を聞くことに限りなく近づく。そんな空間を創り上げることなのではないか。 

私たちは大森靖子の音楽が止まった瞬間に、大森靖子の音楽を聞かなければ見ることのできなかった「私だけの」風景に出会う。それは大森さんの背後に広がっており、大森さんには決して見ることができない。ならば、いつも、「音楽、お客さん!」と叫ぶ大森さんの目に、観客一人ひとりの背後にある魔法陣が見える瞬間が見えることもなければならないだろうし、そうした瞬間をもたらさなければならないだろう。互いに、互いがなければ見えなかった風景を、共有できない静寂で見る。

 

 

 

物を創り上げるというのは本当に途方もない作業で、ましてやそれを人前に晒し、一人ひとりに届けるとなるとなおのことだ。ステージの上に立つ人やステージを創る人はみんな比喩でなく命を削って必死にやっている。しかし、往々にして、観ている側はその必死さを知ることができない。
だが、今回の大森さんの中野のステージは、大森さんが一人で楽器を弾いて、歌って2000人の観客を一手に引き受けており、繊細に丁寧に作り込まれた縷縷夢兎の衣装や青柳さんの美術は、そのステージをそのステージでしかないものにするためだけにそこにあった。1秒のタイミング、1c㎡の空間、1mmの縫い目。照明に照らされるほこりの一粒一粒も美しく見えるように、手作りで作り込まれたステージは、創り手がいかなる「本気」を込めて観客と対峙しようとしているのかということが、ダイレクトに伝わってくるようだった。

 

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これは、中野サンプラザの会場に「インスタ映え」スポットとして設置された、「内臓」である。縷縷夢兎の東佳苗さんが作った「内臓」。身体という枠組みの外側にぶちまけられた内臓は、こんなにも「生々しく」存在している。内臓であるからには、かつては何かの器官であったはずなのに、こうも中野サンプラザの客席にぶちまけられてしまっては、もはやそれがかつて何の役割を為していたのかは分からない。

彼らはずっと、身体の内側で、こうして外に出る瞬間を、待ち望んでいたのかもしれない。あるいは、もしかしたら、最初から身体なんてなかったのかもしれない。

 

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今回の公演は、弾き語りも、美術も、衣装もすべて、私たちの内側で見失ってしまっていたもの。それら一つひとつ丁寧に拾い上げようとするような、繊細な試みの上に成り立っていたのだと思う。
拾い上げられたそれを握りしめて見る風景は大森さんの後ろに広がっている。拾い上げたそれが何たるかを知るのは「私」しかありえない。大森靖子の歌はそれが「何」かということではなく、そこにそれが「ある」のだということを歌っている。そこには大森靖子の歌ですら見たことのない風景が広がっていて、その風景を見ることができた時に、はじめて、「狂ってるのは君のほう」「世界だって君にあげる」('ミッドナイト清純異性交遊')という歌詞の意味が分かるのだろう。

 

 

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端的に、考えさせられるライブだった。帰りの電車の中で青柳さんの絵を買った。一か月の光熱費と天秤にかけられないような矜持が私にもあるんだなと思った。

 

 

*1:Matthew Carl Strecher(2014), The Forbidden Worlds of Haruki Murakami, University of Minnesota Press, Chap. 4。私訳