ニワノトリ

Twitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.com

’18年2-3月日記 その1:青柳カヲルさん「0:00」

私が人生で初めて絵を買ったのは、2018年1月20日。土曜日の夜のことだった。東京駅では、スーツを着たり、お土産物をいっぱい手に抱えたりした人が、それぞれ違う方向に向かって、一心不乱に歩いていた。私は彼らの邪魔にならないように、駅弁屋さんの向かいにあるベンチなんだか手すりなんだかよくわからない丸い鉄の棒に背中をもたれかけさせて、スマホをにらみつけていた。16桁のクレジットカード番号、セキュリティーコード、承諾ボタン、「お買い上げありがとうございました」。一週間後にはアパートの郵便受けに不在通知書が入っていた。

 

絵画一枚8000円。私の一時間あたりの給料1000円。ライブに行く時も、グッズを買う時も、いつも頭の中で算盤をはじいている。このTシャツで電気代が払える、このライブ2回で奨学金が返せる。けど、その絵は計算する前に買ってしまった。その日、中野サンプラザのステージで、大森靖子の後ろから観客席へ、今にも溢れ出しそうな東京の夜景を見たら、すぐにでもその風景に返礼したくてたまらなくなった。MCで名前が出たから、誰がその景色を描いたのかはわかっていた。JR中野駅から家までの帰り道、90分の道のりを待てず、私はその人の通販サイトにアクセスした。

 

aoyagi.theshop.jp

 

目の前に完成された一枚の絵があるとき、その絵を構成する一本一本の線を見つめると、時間と時間の裂け目に落ちてしまいそうになる。幾重にも重なった線。完成という着地点にいたるまで、鉛筆を握った手が、この一枚の画用紙の上を何回も何回も往復したに違いない。なのに、絵というものは静止している。そこにいたるまでの時間を忘れたかのように、パキッと固まっている。一本の線を眺めればその途方もない時間を空想することができるのに、その膨大な時間と、今、目の前にある絵はすでに関係を持っていないように見える。描かれていた時間を忘れたように、描かれたものは描かれたものとして最初からそうであったかのようにそこにある。否、観客にとって、それは「最初からそうであったかのよう」なのではない。確かに、間違いなく、それは最初から「そうであった」。この絵は、『0:00』というタイトルを持って、この形を持って私の目の前に現れた。その初めから。

 

aoyagi.theshop.jp

 

私は絵を眺めるのは不得手だ。絵画を見た絶対枚数が少なく、美術系の本もあまり読めていない。見るためのパースペクティブが不足している。さらに、私はどちらかといえば文学作品について何かを考えたり書いたりする機会の方が多いので、物語、あるいはテキストを見たり、分析したりするのに “慣れて”いる。物語には展開がある。はじまりがあり、何らかの終わりがある。私は始めと終わりの間で、戻ったり行き過ぎたりしながら、何かを考えることに慣れている。このブログにもその特徴が如実に出ていると思う。私は大森靖子さんやハロプロの歌詞についていろいろと書いているけれど、基本的には私は歌詞を「追って」いる。5分の音楽の中で。変化するもの、あるいはしないもの。それを探し、追っては、その奥にある何かを探している。
しかし、「絵」にめくるべきページはなく、それは最初から始まっていて最初から終わっている。もちろん、何枚かの絵を並べれば何かを「追う」ことはできる。一枚の絵が、その作家の個人史のうちに生まれたことは間違いないし、その作家が生きる歴史、社会、思想。そして、その作家に至る美術史。その絵は様々な事象の関係性の中にある。そして、一枚の絵の中にも展開があって、物語があって、隠喩があって、ルーツがあって……追えるもの、追うべき時間性はたくさんある。膨大にある。けれど、絵の持つ、このパキっと止まったこの時間性には、その瞬間の全体、その瞬間そのものをとらえることを、最初に私に要請するように見える。

 

だから、ある種の絵というものは、自分の中にある「パキっと止まった時間」をクリアにしてくれる。
ということを思ったのは、この『0:00』という絵を購入して、部屋に飾ってからのことだ。

 

東京駅で『0:00』の注文をしてから、家を不在にする日が続き、絵の実物が私の部屋に届いたのは、2月1日のことだった。当時、私は3月に迫ったあるイベントの準備にまったく行き詰まっており、同時に修正を迫られた仕事も手元にあり、でもその方針も立たず、しかも、仕事を2月末で退職する予定になっていたので、引継ぎのための残業も続き、もうダメぽといった様相だった。そんな時に、私の家に『0:00』が届いた。


長く伸びた髪を描く一本の線を負いながら、真っ白な画用紙に何本も線が重ねられて行く、その様を想像した。その線が輪郭になり、瞳になり、髪になり、そこにあたる光になる。何時間も動いていた線が動きを止める。未完成から完成への跳躍。費やされた時間を振り切り、未完成の時間を振り切り、それは最初からそうであったかのようにそこに存在する。前にも後ろにも動かない時間。未完成の死と完成の誕生、生死を同時に内包した「0:00」。

 

作者の青柳カヲルさんがTwitterにこの絵をアップした日のことを私は覚えていた。私は、この時、その行き詰まっている真っ最中の仕事の下調べに着手したところだったのだ。青柳さんはこの絵のほかにも長い髪で目を覆い隠した人の絵をアップしていた。

 


輪郭を隠し、溶かすような長い髪。見えない瞳、合わない視線。でも、彼女たちは誰かが見るから、目を隠す。彼女たちを見る、視線のその元にある「わたし」が見たいと思うもの。それとは違うものを見たいと思うから、視線はこちらではないどこかを見ている。私はその時、ある殺人事件の被害者である女性と、その人をモデルにした小説について論文を読んだり記事を集めたりしていた。その女性は死後、週刊誌で様々な写真や手紙を晒されていた。私はTLに流れてきた絵を見て、私がこれから書くべき何かがその絵の中にあるような気がした。もしも、私がさらに「その人」について何かを書こうと思うなら、私に見えないものを見なくてはいけない。

 

 

自意識 self-consciousness #drawing #鉛筆画 #dessin #art

青柳カヲルさん(@aoyagikaoru)がシェアした投稿 -

 


今、文章でダラダラと書いたけれど、実際にはこんな何行もそんなことをぐるぐる考えていたわけではない。それはほんの数秒の話で、その「ようなこと」をピンと弾くように思った一瞬があった。その一瞬が、家に届いた『0:00』とともに想起された。私の中にもあったはずの、ぴたりと止まった、決定的な瞬間。

 

その時から、私は机の横に『0:00』を置いた。『0:00』を見ると時間が止まる。『0:00』という作品がもつパキっとした時間が、私の時間を止める。その一時停止が、あの決定的な数秒を私にもたらす。この論文も発表も全部見直すしかないな。と思った。それまでに書いていたものをさらにして、もう一回、構成から見直した。

 

それから二か月たち、すでに仕事も(仕事の引継ぎも)終わりを迎えているが、現実としてはそれらが良いものになったとは言えず、絵を飾って毎日を手作りしてみても、急に実力がつくわけでもなかった。しかも、私はいま無職!
けど、この2018年2月~3月は、私にとって色々なことがあった二ヶ月でもあった。そして、その「いろいろ」のスタートは、確実に、「0:00」が家に届いて、机の隣に飾ってみたあの日から始まったのだと思う。私にとって良い絵を買えてよかった。

 

でも、もっと私に絵を見るための頭と目があれば、もっとよくこの絵について話せるだろうに、と思うととても悲しい。もっと勉強しないと。

 

 

青柳さんの公式サイトはこちら ⇒ http://aoyagi.co/

 

niwanotori.hatenablog.com