ニワノトリ

ハロプロ、大森靖子さん、宇多田ヒカルさん、amazarashiなどのJ-popの楽曲レビュー・考察、ライブレポなどを書いているブログです。カテゴリ「このブログについて」に記事のまとめと更新情報があります。ご連絡はTwitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.comまで。

大森靖子 "draw (A) drow" について

2017年8月30日に発売された、大森靖子さんのシングル、 "draw (A) drow"について書いているブログ記事です。

 

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そこを超えたら、二度と元の場所には戻れない。そんな瞬間がある。
誰かが空に向かって学校の屋上の縁を蹴った瞬間、誰かが線路にその身を横たえた瞬間、誰かが “誰でもいい”その人に切りつけた瞬間、誰かが振られたあの子にナイフを突き刺した瞬間。
具体的な事件を想起できるどの場面も、それこそが、その前と後を分ける決定的な瞬間であったのだと知ることができるのは、それが起きた後でしかない。失われたものを前にして初めて、「間に合わなかった」ことを思い知る。「あの時、ああしていれば」「あの時、こうしていれば」。たらればを並べたところで、誰にもその前の時間を取り戻すことなんてできない。

 

けれど、テレビや新聞に映らないどこかには、「起きたかもしれなかったけれど、起きなかった」瞬間も存在していたのだと思う。例えば、屋上の風に吹かれた誰かがその足を後ろに引く。ナイフを持った誰かがそれをそっと鞄に戻す。「誰か」が、決定的な出来事の手前でギリギリ踏みとどまった瞬間も、どこかにあったのではないか。
しかし、その「起きなかった」瞬間は、「起きなかった」ので、誰にも目撃することはできないだろう。

 

大森靖子さんの“draw (A) drow”を聞くたびに思い描くのは、「そこを超えたら二度と戻れない」、そんな境界線を越えようとする人の腕を掴み、押しとどめる。そんな瞬間を齎した(かもしれない)音楽のことだ。

 

あの日のフィクションブルース 点滅のbeat
煽る信号に 間に合えたのかな

 

信号が赤になってしまえばもう間に合わない。境界線の「向こう側」に続く横断歩道で、チカチカと点滅する青信号。急かされるように歩道を渡る「誰か」。その人に全速力で追いつこうとする音楽。歌声が、リズムが、ギターの音が、歌詞が、「向こう側へ行ってはいけない」とその人に訴える。
もしも、音楽が、その人が歩道を渡り切る前に「間に合え」、その人の足を止められたのなら、その瞬間、「向こう側」の風景はフィクションになる。起きたかもしれない出来事、失われたかもしれない何か。しかし、それは起きなかったし、失われなかった。誰にも目撃されない風景を、目撃できる人は誰もいない。それは新聞にもネットニュースにも乗らず、音楽が間に合えたことを知っているのは、「誰か」自身しかいない。

 

私は、“draw (A) drow”を聞くたびに、そうした「誰か」が踏みとどまった瞬間を夢想する。私には知りえない、「誰か」しか知らない瞬間。それは音楽自身も知りえないのかもしれない。けれど、「誰でもいいならここに居て*1という言葉が届くその瞬間は確かにありうるはずだ。

 

 

“draw (A) drow”には「死ね」「死にたい」と叫ぶような歌詞があるのだが、その後、即座に「draw (A) drow」という曲のタイトルを含んだサビが歌われる。

 

圧倒的な君の哲学は白濁のコンドームで
護れなかった 自分なんて
突き刺した順に死ね

draw (A) drow 僕が描いた僕だけが
次の一手をそっと僕に告げる
なにかが体内で 意志をもって生まれるとき
とても痛いけど

 

純化して言えば、サビの前に、「自分なんて 突き刺した順に死ね」と歌われる時、「死ね」と声を発する人も、「死ね」といわれる対象も「自分」である。
同様に、突き刺すのも突き刺されるのも「自分」である。
そして、その次に歌われるサビにおいて、僕は「描き」、「描かれる」。
つまり、サビの前に歌われた「殺す」自分と「殺される」自分は、サビにおいて「描く」自分と「描かれる」自分にスライドしている。
この点については様々な解釈が可能だろうが、私は、「僕」は、サビで「draw (A) drow」と歌い始めた瞬間に、その直前に叫ばれた「死ね」「死にたい」という衝動そのものを描き始めたのだと思う。

 

「死にたい」「死ね」という思いは学校の屋上にも、手に握られたナイフにも続き得る。しかし、「draw (A) drow」というサビには、屋上へ駆け上がる足音が音楽に、突き刺して流れる血が「好きな色」の絵の具に替わる瞬間が刻まれている。屋上のフェンスを越えて、一歩を踏み出してしまったらもう元には戻れない。「僕」はそうした元には戻れないその境界線を超えるのではなく、境界線の上で見える景色を描き始める。だから、 “draw (A) drow”には、「次の一手」が歌われる。「歌えないで 耐え」る瞬間ではなく、「歌えた」瞬間がある。
「draw (A) drow」とは、描く(draw)という行為そのものであり、同時に、描かれた作品そのもの( “drow (A) draw”)でもあるのではないか。

 

 

“draw (A) drow”には、「間に合わなかった」ことに対する怒りが渦巻いている。

 

誰かの美しい閃きがつくった世界は
誰かを失って 宿主不明の

圧倒的な君の哲学は白濁のコンドームで
護れなかった 自分なんて
突き刺した順に死ね

 

“draw (A) drow”の歌い出しには、「誰か」を失う前の世界に間に合わず、「幻虫」に食い潰される「僕」がいる。
「僕」は君の哲学を護ることができず、自分に向かって「死ね」と叫んでいる。
“draw (A) drow” は手遅れの歌でもある。否、手遅れになるかならないかのギリギリを走り抜ける音楽なのだと思う。きっと、 “draw (A) drow”は赤信号になってしまった歩道の前で、何度も「向こう側」に行ってしまった人の背中を見てきた。だからこそ、「耐えないで」「永遠にしないで」「透明にしないで」と訴え、祈るのだと思う。

 

「また誰かが 斬新な希望で 僕の遺作を 世界を 壊して」と歌う“draw (A) drow”は、“draw (A) drow”が、そのままではどうしても届かない背中があることを知ってしまっている。けれど、その背中に追いつき得る何かがきっとあるのだと信じている。だから、今の“draw (A) drow”を突破し、その背中に「間に合う」希望の誕生のことをも歌っているのではないか。

 


“draw (A) drow”は、タイトルでありながら歌詞でもある。“draw (A) drow”というタイトルをもって歌われるたびに、既存の“draw (A) drow”は破壊され、新しい“draw (A) drow”が描かれる。

 

敵のいない怒りが才能を帯びて振るえる

 

「敵のいない怒り」は「才能を帯びて振るえる」。震えるのでもなく、振るうのでもなく、「振るえる」。“draw (A) drow”は、怒りに震えるのでもなく、怒りを振るうのでもなく、自分を壊すのでもなく、他者を壊すのでもない。
“draw (A) drow”にあるのは、今ある運命の外にある、“draw (A) drow”という新しい地平が切り開かれる瞬間であり、その瞬間は「誰か」の生と死を、生の方向に向かって繰り返し、駆動し続けている。