ニワノトリ

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#青柳カヲル初個展 "Living iDoll" 鑑賞記

大森靖子さんのCDジャケットやステージ美術、道重さゆみさんのグッズ等も手掛けている、「拡張系絵描き」:青柳カヲルさんの初個展"Living iDoll"に行ってきました。

 

ここで展示されていた絵は会期中に殆ど売約済となり、二度と同じ展示はされないということです。面白い展示だったので、できるだけ多くの記録が残ってた方がいいなあ、と思い、アートの専門家でも何でもない筆者ではありますが、私なりの展覧会評 兼 鑑賞記的なものを書いて残しておこうと思います。

 

展示詳細
タイトル:青柳カヲル初個展「Living iDoll」
会期:2019.3.16-3.23
開催場所:rusu(@目黒区)
青柳カヲルHP:KaoruAoyagi | 絵描き青柳カヲルのウェブサイト
FANBOX:青柳カヲル|pixivFANBOX(今回の個展の準備過程が見られる)

 


以下、本文。

――――――――

 


"Living iDoll"と冠した本展の開催案内には、「架空の絵描きの家を実現させます」と書いてある。アイドルなる「生きた偶像」を一つのテーマとした本展において、鑑賞者は「架空の絵描き」の家を「リアルに」目撃することになる。本展の空間は、鑑賞者が架空(虚構)と実現(リアル)を行き来する実験装置として形成されていたと言えるだろう。

 

 


本展の会場である"rusu"は、民家を活かした形のアートスペースである。場所も目黒の住宅街に位置し、「ただの一軒家」として周囲の風景になじんでいる。筆者がそうであったように、そこが会場と気付かずに通り過ぎてしまった人も多かったのではないだろうか。


民家であるゆえに入口もごく一般的な玄関であり、観客は三和土で靴を脱いで会場に入る。そして、観客たるわれわれはそこで、青い山羊の仮面を被った何者か(これが本展主催者の青柳カヲルであるわけだが)に、本展の案内をもらうことになる。
そこには、本展の案内図とともに、「とある絵描きの手記ブログ」と題した文章がつづられている。

 

 

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"Living iDoll" : "とある絵描きの手記ブログ"




0月0日0時00分にはじまり、1月1日1時11分、2月2日2時22分……と続き、最終的に5月5日5時55分に終わるこのブログを見て、大森靖子ファンであれば、彼女のインディーズ・アルバム『魔法が使えないなら死にたい』に収録された秀作「魔法が使えないなら」の歌詞、「音楽の魔法を手に入れた西の魔女4: 44 つまらん夜はもうやめた」を思い起こすことになるだろう。もしかしたら、本展のタイトルを見た時点で、既に大森靖子が審査員を務める「ミスiD」を想起していたかもしれない。

 

もちろん、これはファンアート展ではない。しかし、青柳カヲルという人が、敬愛する道重さゆみ大森靖子等の絵を描き、ゲリラ的にSNSにアップし続けることにより知名度を得、新たなキャリアを築いてきた人であることは、看過することのできない情報だろう。
敬愛する「アイドル」を描くという行為は、本展のテーマそのものでもある。
例えば、「とある絵描きの手記ブログ」の「0月0日0時00分」には次のように書いてある。

0月0日0時00分
西陽の差す河でゆいみちゃんというアイドルに出会った。
いや、正確にはそういう夢を見た。
朝目が覚めてテレビを見てみると夢で出会った女の子が出ていたので驚いた。
それ以来彼女のことが離れなくなりいつしか取り憑かれたように彼女のCDブログSNS雑誌テレビラジオネットの記事ファンのブログSNSなど手に入る情報全て漁っては彼女の絵を描くようになった。
そう、僕は絵描きであった。



「絵を描くようになった。そう、僕は絵描きであった」
彼らは画家でもなくアーティストでもなく、「絵描き」と名乗る。どうしても"彼女"を描いてしまう、その衝動と行為の先に、彼らは存在している。敢えて言えば、本展は「ファンアート」というよりは、何者かの「ファン」であることと「アート」の関係性を問う展示であるだろう。

 

そして、"Living iDoll"という展覧会が「絵を描く」という行為のうちに生まれたものであるのなら、鑑賞者たる我々は「観る」という行為のうちに"Living iDoll"を問わねばならないだろう。
われわれはこの「Living iDoll」たる個展において、何を観ることになるのだろうか。

 

さっそく、本展の第一の部屋に入ってみよう。
(なお、この個展は三つの部屋から構成されており、この記事ではそれぞれを「第一の部屋」「第二の部屋」「第三の部屋」と呼ぶが、 これは筆者が便宜上つけた名前であり、特に案内図などに書かれているわけではない)


1.第一の部屋――虚構とリアルの入れ子構造

第一の部屋の真ん中にはピンク色の棺(あるいはベッド)が置かれている。その棺の上には赤ん坊用のガラガラ(メリーというらしい)が飾られ、そこから子守歌のようなオルゴールの音が流れている。
この棺が、この家の主が「ゆいみちゃん」の絵を描く「絵描き」として(re)birthしたことを"意味"しているのなら、この絵描きが最初に書いたのは、ゆいみちゃんの自撮り写真だったのだろう。この部屋には、「ゆいみちゃん」の自撮りを描いたらしき絵("セルフィの肖像","IDOLS")がいくつも展示されている。

 

 


実際、件の「とある絵描きの手記ブログ」には、「ゆいみちゃん」の自撮りに関する記載がある。いわく、「ゆいみちゃんのあげる自撮りには笑顔が一切ない」が、「悲壮感はない」のだという。

 

1月1日1時11分
[…]恐らく本人に自撮りは作品であるという意識があるからだろう。
その強い自意識のお陰なのか、ゆいみちゃんは変幻自在だ。
感情によって顔も服装も別人のようになる。
でもなぜだかゆいみちゃんだということはわかる。



彼が描いたのは、「自撮り」すなわち、ゆいみちゃん自身の手による「ゆいみちゃん」という作品であった。

 

自撮りはスマホを持った腕を伸ばして、インカメラで自らを写す行為だ。それゆえ、自撮りは顔を中心とした画角や構図に限られてしまう。
しかし、この絵描きが描くゆいみちゃんの「自撮り」は多様である。時に輪郭は融解し、時に骨(のようなもの?)が透けている。ブログには「ゆいみちゃんは変幻自在だ」と書いてあるが、輪郭が融解した自撮りなどというものは撮影されうるのだろうか? 恐らく、これは「ゆいみちゃん」の自撮りの「模写」ではなく、「ゆいみちゃんの自撮り」を描いた「絵描き」の作品である。
それゆえ、われわれは今、何を見ているのか、だんだん分からなくなって行く。それはアイドルの姿なのか、アイドルの自意識なのか、それとも絵描きの感情なのか。この"Living iDoll"は最初の部屋にしてすでに、「アイドルの自撮りを描いた絵」という幾重の鏡に映ったかのような構造になっているのであった。

 

しかも、更に厄介なことに、われわれは個展の案内を見た時点で、この展示のテーマが「架空の絵描きの家を実現させる」ことにあることを知っているのだ。
「(架空の)アイドルの自撮りを(架空の絵描きが)描いた絵」
鑑賞者たるわれわれが「実際に」目にし、「実際に」足を運んだ会場は、端から「架空である」と宣言されている。一方で、会場には、絵の「実際の」作者であろう青柳カヲルが在廊している。架空であることを知りながら見る絵、しかし、それは確かに描かれてここにある、という事実。

 

この個展は、架空がリアルを包み、リアルが架空を包む、そうした入れ子構造を為している。われわれ観客は、第一の部屋から、そうした多層的な構造に取り込まれて行く。



2. 第二の部屋――偶像までの距離、その解体と構築

 

第二の部屋に入ると、最初に目に入るのはケーキを前にスプーンとフォークとドーナツとコーヒーを持った「ゆいみちゃん」の絵である。この絵において、「ゆいみちゃん」の腕は四本あり、その手にはカメラもスマホもない。この部屋の彼女は、自分が「写される」ことを意識していないようにも見える。

 

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"Living iDoll" : "You In Meal" & "ユニーククローズ"

 

 

「とある絵描きの手記ブログ」には次のようにある。

 

2月2日2時22分
ゆいみちゃんにとってゼロの形をした甘い虚無のドーナツと苦い覚醒のコーヒーが聖体とワインの代わりらしい。
さらに食べるスピードに手が追いつかないので腕を二本増やしたいと言っていた。ヴィヌシュ神だろうか。
それほど食事はゆいみちゃんにとって真剣で戦闘なのだそうだ。
概念と血肉の出会いなのだそうだ。僕にはよくわからない。
[…]
満たされない食卓、真剣な顔、武装した身体。
そういう凛々しいゆいみちゃんのイメージが湧き、せっかくなので僕なりに可愛い机と椅子を作り座らせてみた。
いい感じだ。



……ということは、この絵はもはや「ゆいみちゃん」の何がしかの写真を見て描いたものではなく、絵描きの中の「ゆいみちゃん」のイメージそのものなのだ。われわれは、絵描きの「脳内(=虚構)」の、更に奥深くに侵入したようである。
しかし、この部屋で目を引くのは、「ゆいみちゃん」だけではない。「ゆいみちゃん」の隣には奇妙な"絵らしきもの"が飾ってある。

3月3日3時33分
ゆいみちゃんには「ユニーククローズ」と呼ばれるグッズTシャツがある。
ゆいみちゃん自らが量販店のTシャツを引き裂き板に貼り付け、まるでTシャツという魚の"開き"のように仕上げた。
[…]
普段あまりグッズというものに興味を示さない僕だがこれは完全に絵画であり「肉体こそ最高のユニークな服である」というメッセージだと確信し、いてもたってもいられず前日から並んでその肉を飼った。宝物だ。


この奇妙な「絵画」こそが、「ユニーククローズ」なるグッズなのだろう。身頃を開かれたTシャツが、「肉」を思わせるピンク色に塗られている。あるいは、これも、「ユニーククローズ」をイメージした「絵描き」の作品なのかもしれない。

 

第一の部屋の部屋における「ゆいみちゃん」の絵は、「アイドルの写真」と「それを描く絵描き」という距離感が前提となっていたと言ってよいかもしれない。しかし、この部屋でその距離はより複雑である。blogを読んで浮かぶイメージ、家に置いてあるグッズ。時に「ゆいみちゃん」の姿は「絵描き」の脳内にしかなく、時にその肉の一部が部屋の中に飾られている。

 

しかし、鑑賞者にとっては、それらが「絵」としてこの部屋に展示されていることが重要だ。例え「ゆいみちゃん」の自撮りであろうと、絵描きの「イメージ」であろうと、「ゆいみちゃんのグッズ」であろうと、それがキャンバスに描かれた「絵」であることに変わりはない。それゆえ、われわれは常に「その前に立ち、向き合う」という形でしかそれらと向き合うことはできない。

 

本展において、「ゆいみちゃん」までの距離は「絵」になることによって一度解体され、同時に、展示という形で再構築されている。
「ゆいみちゃん」の言葉を借りるなら、こうした解体と構築とは、まさしく、「アイドル」なるものを咀嚼し、「絵」という血肉とする「食事」そのものではないか。この展示こそが「概念と血肉の出会い」を体現しているのだ。こうして、この個展の空間は(架空の)アイドル「ゆいみちゃん」の言葉に包み込まれ、より一層、多層性を増して行く。



3. 第三の部屋――入口の回転、偶像と血肉の交差


本展の一番奥に位置する、第三の部屋へ入って行こう。
第三の部屋において、一番奥の壁に飾られているのは、「THE LAST LIVE」というタイトルの絵である。

 

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"Living iDoll : "THE LAST LIVE"


ところで、この第三の部屋にはこれまでの二つの部屋とは異なる、一つの特徴がある。というのも、入口の向きが他の二部屋とは異なっているのだ。
第一の部屋、第二の部屋は、廊下に対して垂直に入口が設置されている。
しかし、第三の部屋は第二の部屋から繋がっているがために、廊下に対して水平に、入口が存在している。

 

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"Living iDoll : 会場で配布されている案内図に加筆(水色・ピンク色が加筆部分)"

 


この展示において、この垂直の動きと水平の動きにはある特定の意味があるようにも思われる。


例えば、改めて第一の部屋の入口の前に立ってみよう。
目の前には「ゆいみちゃん」の自撮りが並んでいる。首を巡らせて、左右の側面を見てもまた、「ゆいみちゃん」の自撮りや「ゆいみちゃん」の寝姿などが描かれている。
しかし、同じ「自撮り」でも、入口からみて正面にある絵と側面にある絵には異なる特徴があるように思われる。すなわち、側面にある絵において「ゆいみちゃん」の輪郭は融解し、あるいは、「ゆいみちゃん」の肉体が解け、骨が見えているように見える。だが、正面の絵において、「ゆいみちゃん」の輪郭ははっきりしている。*1

 

 

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"Living iDoll : 会場で配布されている案内図に加筆(水色・ピンク色が加筆部分)。絵のタイトルは"IDOLS"


第二の部屋においても同様だ。入口の前に立つと、ドーナツやコーヒーを手にした「ゆいみちゃん」が目に入る。しかし、側面には「ユニーククローズ」のような、肉体の「開き」のような作品や、いささか抽象的な脳の"ハート"("Brain Love")が展示されている。

 

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"Living iDoll" : "You In Meal" & "ユニーククローズ"

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"Living iDoll" : "Brain Love"

すなわち、第一の部屋と第二の部屋において、廊下から見て垂直に部屋を見るとき、そこにははっきりとした輪郭を持つ「ゆいみちゃん」の実体が目に入り、廊下からみて水平に部屋を見るとき、そこには、時に輪郭が融解し、時に肉体の内側を開いたようなの絵が並んでいる。
前者は姿かたちがはっきりしているので、それが「ゆいみちゃん」なのであろうということが推測できる。すなわちそれは、「ゆいみちゃん」というアイドル像(偶像)がくっきりと浮かび上がっているということだ。像がはっきりしているからこそ、その実体と輪郭を捉えることができる。
しかし、廊下から見て水平に部屋を見るとき、それが「ゆいみちゃん」であるのか否か、判断はいささか困難である。今見ている"それ"が「ゆいみちゃん」自身であるのか、それとも「ゆいみちゃん」の何某かであるのか。像はくっきりせず、絵は時に抽象的だ。そこには、「ゆいみちゃん」の姿形に収まり切れない何ものかが溢れ出している。
それは「ゆいみちゃん」という偶像が「ゆいみちゃん」の身体を時に追い越し、「ゆいみちゃん」の生の身体が時に「ゆいみちゃん」の偶像を裏切る、ということなのかもしれない。

 

一言で言えば、第一と第二の部屋において、垂直には「ゆいみちゃん」の偶像がくっきりと描かれ、水平には「偶像」に収まり切れない「ゆいみちゃん」のリアルな身体が描かれている*2

 

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"Living iDoll : 会場で配布されている案内図に加筆(水色・ピンク色が加筆部分)"

 

(……っていうか、 先ほどから、全体的に図が下手過ぎてすみません……)

 

であるならば、入口が90°回転する第三の部屋において、そうした偶像と生身は交差することになるのではないだろうか。そして、我々はそうした水平と垂直の交差の先に、「THE LAST LIVE」を目撃する。「生(なま=ライブ)」において、「ゆいみちゃん」の偶像と肉体が交錯するのだ。

 

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"Living iDoll : 会場で配布されている案内図に加筆(水色・ピンク色が加筆部分)"

 

 


「THE LAST LIVE」とは何か。「とある絵描きの手記ブログ」には次のようにある。

 

4月4日4時44分
ついに初めてライブに行った。
「THE LAST LIVE」つまり最後のライブ。しかしゆいみちゃんのライブは毎回最後のライブというなのだ。
今回の、何十回目かの最後のライブでゆいみちゃんは「YouInMe」ちゃんから改名を宣言して「有意味ちゃん」となった。
[…]皆の人生を「有意味」にするからなのだそうだ。
僕はいたく感動し、僕はその最後のライブを保存しようと家の奥の部屋をその日のライブ会場にした。
僕も名前を「青柳」から「青山羊」に改名しよう。
より偶像に近づくために。


主に家の中で情報を追っていた絵描き(いわゆる"在宅"だったらしい)が、ついにライブ会場に足を運ぶ。
この第三の部屋において、「ゆいみちゃん」なる「アイドル」(偶像)は、ついに「生(なま)」の存在として絵描きの前に現れるのだ。

 

 

(この写真ではわかりづらいのだが)「THE LAST LIVE」という絵は、「ゆいみちゃん」のステージを描くと同時に、「ゆいみちゃん」の肉体の内側を描いているようにも見える。「ゆいみちゃん」の"ライブ"ステージとは、「ゆいみちゃん」の生の肉体そのものであるのかもしれない。

 

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"Living iDoll : "THE LAST LIVE"

 

この部屋そのものが、「ライブ会場」であるのなら、我々はアイドル「ゆいみちゃん」がステージに立つ姿を目撃すると同時に、「ゆいみちゃん」の肉体のうちにあることになる。「ゆいみちゃん」の胃袋で概念と血肉が出会うように、われわれ観客は、「アイドル」(偶像)としてステージに立つ「ゆいみちゃん」と、「ゆいみちゃん」のリアルな血肉に、同時に出会うのである。この部屋で、われわれが「ゆいみちゃん」に出会ったのなら、われわれ観客の人生も「ゆいみちゃん」のステージによって、「有意味」になったのであろう。

 


しかし、困難なのは第三の部屋の中央には、キャンバス不在のイーゼルが置いてあることだ。
このイーゼルの先に「THE LAST LIVE」という絵は置かれている。
これは絵描きが描いたライブの絵なのか。それとも、その絵自体がライブ・ステージを表現しており、われわれの立つこの空間は、今、まさに「ゆいみちゃん」の「THE LAST LIVE」を描こうとする「とある絵描き」の脳内そのものなのであろうか。

 

ここが「絵描き」の脳内であるのなら、われわれは、絵描きの脳内(虚構)に立っていることになる。
こうして、「ゆいみちゃん」の生はまた、虚構に包み込まれるのであった。
「とある絵描きのブログ」にはこのように書いてある。

 

5月5日5時55分
この物語はフィクションです。

 


4. おわりに


このように、本展において、リアルは虚構につつまれ続ける。「メタフィクションのような」というと収まりは良い。しかし、そんなに単純な展覧会でもない。なぜなら、再三繰り返しているように、この絵を見るとき、「架空の」絵描きの絵は、そして家は、確かに実現されているのだから。われわれは「これもこれもこれも架空だと私は知っている」と思いながら絵を見ると同時に、そこに表現された絵描きのリアルを思い知るのだ。

 

「YouInMe」(私の中の君)と聞くと、内側へ……という「In」の運動を連想する。「脳内(架空/虚構)へ、脳内へ、脳内へ……」という内向きの運動だ。確かに、この個展は、絵描きの脳内の奥へ、奥へと進むような構造になっている。

 

しかし、そこには、同時に、「もしかしたらリアル(現実)かも?リアルかも?リアルかも?」という運動があるのだった。「この絵が実際に描かれたのなら描いた人が実際にいるのかも?ということはこの「自撮り」も実際にあって、ということは、ゆいみちゃんもいるのかも?」という、リアルへの運動。

 

だが、アイドルに焦がれる「私」=ヲタクとは、元よりそのような存在ではなかったか。どんなに、脳内の「アイドル」は虚構でしかないのだと言い聞かせても、常に「リアルな」君に、外へ外へと引っ張られる。武道館へ、中野サンプラザへ、握手会へ、「遠征」へ。「君」は常に「リアル」なものとしてあり、だからこそ、「アイドルヲタク」=ドルヲタは「リアル」と「虚構」を常に自分の中で天秤にかけ、バランスを取り続けなければならない。

 

そうした「生身の」アイドルがもたらす、外へ、あるいは内へ、の運動を本展は「架空の」アイドルの「絵」において「実現」させた。
すなわち、本展はアイドルの「リアル」抜きにアイドルの偶像性(虚構)を問い、具体的な偶像抜きにアイドルの「リアル」を表現するのだ。

 


SNS全盛の今、何者かの「ファン」(推し/担当/and more…)であることが、「己が何者か」を示す合言葉として、ある種の共同体を形成しうる概念となりつつある。
しかし、本展における「あるアイドルの推し」は「絵描き」であり、アイドルの「絵を描く」という行為のうちにのみ存在している。ここに描かれているのは、「ファンである」ことによる自己表明ではなく、「アイドルと絵描き」の関係性が生み出し得る「何ものか」だ。
「架空の」アイドルの「架空の」ファンが描いた一連の絵が問うのは、アイドル抜きの(ファン)アートであり、それゆえに、本展はアートなるものと「アイドル」(偶像)の関係性そのものを問うことが可能になっているのだと言えるだろう。



ところで、この記事で私は勝手に「第一の部屋」「第二の部屋」などと名付けているが、実は、この展覧会のスタート地点は「第一の部屋」ではない。
玄関、靴を脱いで上がろうとする三和土の壁面にも、二枚の絵が飾ってある。


入口に入って左にはターナーを連想させる「西陽」と「河」の絵("THE RIVER")があり、右側には「ゆいみちゃん」らしき絵が飾ってある("ALTER EGO")。もちろん、それは、「とある絵描きの手記ブログ」の「0月0日0時00分」に記載されていた風景、「西陽の差す河でゆいみちゃんというアイドルに出会った」夢の風景なのであろう。
そうであるなら、この個展の入口は、絵描きの「夢」への入口なのかもしれない。
確かに、入口においてそこでは、「ゆいみちゃん」が差し向ける視線の向きは、第一の部屋や第二の部屋における視線の向きと反転している。また、「ゆいみちゃん」らしき絵("ALTER EGO")をよく見ると、文字が反転しているのが分かる。
われわれは、この入口を境に、鏡の世界に入っていたようだ。そこは黄泉の世界か、はたまた夢の世界か。そして、それが「鏡」であるなら、われわれ観客が見ている「絵」はいったい、誰の意識だというのか。
「Living iDoll」は、その入口にして既に、われわれに「虚構」と「リアル」の実験を仕掛けていたのであった。

 

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しかし、この個展を出るとき、われわれ観客は再び「鏡」を抜け、夢の外側へ、われわれの「リアル」へと戻って行かねばならない。
そして、この「Living iDoll」は2019年3月23日に既に終了している。
夢は終わりを告げ、解体された。「Living iDoll」において、「(ファン)アート」=アートを実現させた「拡張系絵描き」は、次に何を描くのか。実験室の続きを楽しみにしよう。

 

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本文終り。

文中に用いている写真(Twitter等の引用以外)は、私が個展の会場で撮影したものです。

 

 

*1:以下の図で用いている絵の画像は青柳さんのツイートにあった写真を使わせて頂きました

*2:会場で、少し青柳さんとお話しさせて頂いたのですが、その際に、入口近くにある絵は融解したような絵、奥にあるのは実体的な絵という意識があるかもしれない、とおっしゃっていました(大意です)