ニワノトリ

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日記:Kintsugiのある風景

2021年6月28日12:00

WALKMANの電源を入れて再生ボタンを押す。店内BGMがノイズキャンセリングされて「夕方ミラージュ」が流れ出す。去年発売された、大森靖子のアルバム『Kintsugi』……の一曲目。新しいアルバムがもうすぐ出るのに、新曲の先行配信も始まっているのに、わたしは未だ『Kintsugi』ばかり聞いている。「いい天気私には関係ないけどね」。マスクの下で歌詞を口ずさみ、壁にかかったイミテーションの『リュートを弾く天使』を見ながら、500円のランチを待っている。

 

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Angel playing the lute by Rosso Fiorentino 1521 | Artworks | Uffizi Galleries

 

「夕方ミラージュ」は夫と子供の帰りを部屋で待つ「私」の夕方についての曲で、しかし、この曲を構成するのは夕焼けの帰り道に差すあたたなかオレンジ色ではなく、蛍光灯のきつい白色だ。ギターの歪みとぽつんぽつんと落ちるピアノの音はモノクロ映画のように部屋の風景を描く。カーテンのぴったりと閉まった部屋で、一人の女性が大の字に転がっている。天井の模様、蛍光灯の丸い形、水滴を垂らす蛇口。部屋を構成する陰影のあわいに、母や妻という色のついていない時間が浮かびあがって行く。「子供のために生きない私を残して」「寝てたい寝てたい寝てたい寝てたい寝てたい寝てたい寝てたい寝てたい」「大好きよ全て」「だから今だけは」「夕方すべてを裏切りたい」 

しかし、わたしは夕方の部屋よりも、12:00過ぎのファミレスで「夕方ミラージュ」を聞くのが好きだった。社員証をポケットに突っ込んで、ひびの入った合皮のソファに座って、オーブンに温められた味の濃いドリアを待つこの時間がわたしの「夕方ミラージュ」なのだと思う。大森さんによると『Kintsugi』は「いい加減、自分のことを歌おうというアルバム*1で、わたしは大森さんと同年代だけど結婚してないし子供もいないし、社員20名の小さな会社で9時17時の労働にみなし残業の安月給をもらう人生だから、このアルバムにはわたしが見たことも経験したこともない30代の人生や感情が数多く並んでいる。それでも『Kintsugi』を再生しながら毎日を送っていると、時折、このアルバムと自分の時間が重なる瞬間が訪れる。「夕方ミラージュ」において、それはこの昼休みだった。

あの子とあなたが帰ってくるまでに
私の形母の形妻の形せめて人の形と愛の形
取り戻しておかなくっちゃね

サラダにかかったピンク色のドレッシングを混ぜながら、あるいは、グラタン皿にへばりついたチーズをスプーンの上に載せながら、私は「夕方ミラージュ」が歌う「母の形」「妻の形」がどんな色と線で構成されているのか想像をする。一人暮らしのわたしにとって、「家」というのは外で取り繕わねばならない「わたし」の形を崩し、だらだらするための場所でしかない。メイクを落として、毛玉だらけのTシャツを着て、ハンガーラックには週末に洗濯したタオルが干しっぱなしになっている。そこに取り戻さねばならない「母」や「妻」や「人」や「愛」の形は不在だ。けれど、一歩部屋の外に出れば、一応私にも保たねばならない「形」というものがあり、「わたし、ずぼらなんで自炊ぜんぜんしないんですー」と言いながら弁当を広げる同僚の輪を抜け出し、歩いて13分という微妙に遠いファミレスに足を運んでランチを食べる昼休みは、朝から保ってきた「会社員」という形と、17時まで引き続き保たなければならない「会社員」という形の谷間にある。だから、この時間が、一番、わたしが「夕方ミラージュ」に接近している時間だと思う。別に会社の雰囲気や同僚が嫌いなわけじゃない。嫌な仕事もあるけど、仕事がなくなる方が怖い。それでも、500円の出費が食費を圧迫しても、朝ご飯や晩ご飯で帳尻を合わせて、毎日ファミレスにやってくる自分がいる。ランチを食べ終わるまでの25分、「会社員」の輪郭がぼやけるこの25分がないと、わたしはこの毎日をやっていけない。

 

 

日本のフツーの会社で働いていれば、産休に入った人や時短の人の分、ありえんくらい残業が増えることもある。増えたのがそのまま状態化することもある。そういうのがフツーになってる会社が悪い、社会が悪い、恨むべきは個人ではないと自分に言い聞かせつつ、残業が増えると配信ライブの開始時間に間に合わなくなって辛い。結婚・出産した友人とは疎遠になり、分断させられているのか分断しているのか、独身が続くとケッコンの向こう側の風景がよく見えなくなってくる。確かにバカみたいに世界は真二つで、あたりまえに真二つだらけだ*2

けれど、「夕方ミラージュ」に歌われる夫と子供が帰るまでのひとときこそが、「どこにでもいる一人暮らしの会社員の昼休み」を、わたしのためだけの密やかな時間に変えて行くのだった。わたしはファミリー・レストランの出来合いの食事を食べながら、「夕方ミラージュ」が描く家庭の中の孤独に耳を澄ませる。夫とか子供とか、人生の途中でできた新しい人間関係が、最もプライベートなはずの家という場所に新しい「私」の形を作るということ。その形をやらねばならない毎日の中に、どんな愛しさや苦しさが潜んでいるのだろう。どんなに想像しても「夕方ミラージュ」の「私」のことなんてよく分からない。しかし、分からないからこそ、想像すればするほど、その「分からなさ」がわたしの中の孤独をよりくっきりと浮かび上がらせて、わたしの中にだって「分かりあえない」孤独があると思うから、わたしは、午後からもう一回会社員をやりにいけるのだ。

*1:インタビュー『大森靖子が考える、“カウンターカルチャー”のあるべき姿 「人間が進化するために、常に疑問を投げかける人が必要」』, Real Sound (2020.08.27), https://realsound.jp/2020/08/post-608547.html

*2:https://oomoriseiko.info/zettaisyoujo/index.html https://www.uta-net.com/song/161140/