ニワノトリ

Twitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.com

日記:新潟

2022年6月19日

新潟にZOCのライブを見に行く。新潟の現場は初めてだ。日程的に今回のツアーで見に行けるのが他にない……という事情で選んだだけなのに、新潟駅で地図を眺めていると、この街こそが大森靖子が作った音楽を聞くべき場所なのだ、という気がしてくる。名前からして新しい「潟」だ。川と海が形成した土地の上に、この街はある。歩いているとえらく長い橋が見えてきて、信濃川日本海へ流れ込もうと川幅を広げている。頭の中で再生ボタンを押す音がする。

 

www.youtube.com

 

川に晒され過ぎと話題の車窓から見る信濃川

新潟と言えば米所だが、水と土地の豊かさは水害と隣り合わせで、新潟は何度も水に町を飲み込まれながら、堤防をつくり、分水をつくり、水門をつくり、水と共に生きられる街を作り上げて来たのだ……ということを、新潟市歴史博物館で学び、ZOCのライブを見に行く。時には堰を切り、堤防を越え、激しく暴れる川は、豊かさの源泉でもある。荒れ狂う川から逃げるのではなく、街が街であることを守り、豊かさが豊かさであることを選び、生きてきたということ。歩けば歩くほど、ここはZOCを見るのにうってつけの街だという気がしてくる。ライブは"場"というものなしに成り立ちえないのだから、その土地でしか見られないライブがあると思う。私は遠征も好きだけれど、新潟で生まれ育った人が一番、この街の風土、空気、文化、文脈をもって、今日のライブの磁場を真に感じ取ることができるのだろう。ここは長く「裏日本」とも呼ばれていたのだ。もしかしたら、彼らの目はZOCのステージの「裏」を映し得るのかもしれない……! 
「現場」が近付くほどに、期待が高まるほどに、私の頭は付け焼刃の知識でぐるぐると解釈を続け、「新潟のライブ」はどんどん虚構と化していく。"きっとこの場所は……" "きっと今日のライブは……" "きっと今日のZOCは……"

 

 

あれが見たい、これが見たい、何が見られる、何が起こる? ステージが始まる直前まで、高まる期待が虚構の世界を無尽に広げ続けるのに、ライブが始まれば、ステージという現実の強度が、虚構を描く脳はこの身体の一部に過ぎないのだということを知らしめる。1部の最初に"AGE OF ZOC"を聞いた時はあんなに腕を振ったり膝を屈めたりしていたのに、2部の最後には棒立ちになっている。頭ではサイリウム振った方がいいんじゃない? と思うのに身体が固まって動かない。疲れたからではない。私の身体のままならなさを、新潟で行われた二度のライブが浮かび上がらせたということだ。Zone Out of Control! としての身体。この「ままならなさ」こそが私のゼロ地点を指し示している。

 

 

ライブ会場となった新潟LOTSの音圧は強く、音量は大きく、その日のライブでは何度か音割れが起きた。ステージの上の西井さんが耳を押さえて顔を顰めてみせる。その数秒の音の歪みは、心地いいリズムやステージのきらめきを、嫌悪や不快、不安に反転させる。「不気味の谷」に触れたようなその瞬間が、その日のパフォーマンスがギリギリを「超える」ところにあることを剥き出しにし、いっそう私を"ライブ"に釘付けにする。MCもなく、息継ぎの間もなく次の一手を繰り出し続けるセットリスト。私はついさっきまでうちわを上げて「こっち見て♥」とかやっていたのではなかったか。気付けば「返せ返せ僕の希望」と指をさされて戸惑っている。いつの間にこうなった? どうしてこうなった? 極から極に飛ばされる。ギリギリを次へ、その次へと踏み越えて行く彼女たちのパフォーマンスが、川が海へひろがるように、生を死へ、ときめきを嫌悪へ、歪みを美しさへ、歪みを美しさへ、嫌悪をときめきへ、死を生へと溢れさせる。興味深いのはそれをZOCが概念ではなく個々の肉体としてやっているということで、「私」という「実像」を「偶像」へ。「偶像」を「実像」へ。ステージの上で「アイドル」を見せる時、それを虚構としてではなく、身体の生々しさで提示するのがZOCなのだ。

 

 

実はZOCをライブハウスで見るのは初めてだ。ソーシャルディスタンスの保たれた会場では、背伸びをしたり顔を傾けたりしなくても、視線をステージに向けるだけでメンバー一人ひとりの表情やダンスがはっきりと見える。きっとZOCのダンスはZOCを集団として見せるためのものではない。揃って見せるシステマティックさよりも、その振り付けによって音楽をどのように身体化するのか、身体個々の解釈を最大限に引き出すことに重きを置いているようにみえる。それは気ままに身体を動かすということではなくて、決められた振りを「身に着け」てはじめてその身体は「踊れる」。何かを自分に叩き込むということは、自分が「まま」であることを許さず、あるいは、自分の「まま」をもっと拡張するために、自分を他の次元へと引きはがし、不文律を改訂し、変容の自由を手に入れるということだ。自由の重なり合いによってZOCの個は共振し、一つの作品になる。しかし、その自由こそが、「今」の限界を暴き立てもするのだろう。だからZOCは絶え間なく次へ、次へと手を伸ばし続ける。

 

 

 

「自由」と「不自由」、「実像」と「偶像」、「生」と「死」、「ときめき」と「嫌悪」……それらの二項を、「と」という並列ではなく、生「を」死「へ」という連続として提示するとは、その狭間にある不気味の谷、「私」が「私」の亡霊となる瞬間の虚無に身を晒すことだ。かつての「生きていた私」はもういないのに、いつかそうなるはずの「死んだ私」もまだ訪れていない。そうした宙づりの瞬間を虚無とするのなら、宙づりを耐える「私」の身体はそれでもなお「生きる」私の生々しさを一手に引き受けている。

Make me shine, Like shit

www.youtube.com

 

ZOCが見せるのは、実像→虚像→実像というこの "→" の持つ生々しさだ。だからZOCのライブを見る私の身体は棒立ちになる。ライブが始まるまでは街を歩きながら思うがままに虚構を描いて遊んでいたのに、今はZOCのステージに思考を取られて思うように体が動かない。うまくリズムに乗れない。手を振れない。このぎこちなさこそが、私の身体の生々しさだ。自由に動かせると思っていたサイリウムを握るこの指先だって、腕だって、実は全然自由に動いていなかったのだ。それは川に飛び込む瞬間に「冷たい!」と体が硬直する感じに似ている。飛び込む前の私から飛び込んだ私へ。水面から川底へ。川底から水面へ。この硬直から手を伸ばせ。そのためにこの日記を書いている。

 

"Antique Double Portrait"
古代風の二重肖像 - パウル・クレー — Google Arts & Culture