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Maison book girl『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』の関係を考える

※矢川葵さんのお名前を間違えていたので修正させていただきました。大変失礼いたしました。(2019/02/05)

はじめに

 

『レインコートと首の無い鳥』・『狭い物語』とは2018年11月21日にリリースされたMaison book girlのアルバム『yume』に収録された楽曲である。

双方とも、Music Videoが作成されている。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 


まったくもって作者に推奨されたやり方でも何でもないのだが、この二曲のMVをPCの画面に並べ、同時に再生する。すると、『レインコートと首の無い鳥』の井上唯さんがカメラを構えると同時に、『狭い物語』のMVにおいて、タイトルが浮かびあがり、井上さんが構えたカメラが光る。まるで、『レインコートと首の無い鳥』の井上さんが、『狭い物語』のタイトルをカメラに捉えようとしているようである。

 

 

レインコートと首の無い鳥(左)―狭い物語(右) 0:19

レインコートと首の無い鳥(左)―狭い物語(右) 0:19

 


繰り返すが、歌い手たるMaison book girlやプロデューサーのサクライケンタさんから「MVを同時に再生してみてね」という発言があったわけではない。そもそも、同じアルバムに収録されているとはいえ、管見の限り、この二曲の関係性について、インタビューなどで直接的に言及されたこともない。
ゆえに『レインコートと首の無い鳥』で井上唯さんが切ったシャッターが、『狭い物語』のタイトルを映す。それは偶然である(と推察される)。

 

しかし、このブログ記事では、こうした偶然を起点に、次のようなことを考えてみたいのである。すなわち、井上唯さんが構えたあのカメラこそが『狭い物語』なる物語が始まる、その起点なのではないか。

 

この記事がやるのは、『レインコートと首の無い鳥』という曲とMV、そして、『狭い物語』という曲とMVを並べて聞くこと。そして、それによって、見えてくる"かもしれない"関係について考えてみること。である。よって、この記事にあるのは、この二曲の間に筆者が見る「夢」に他ならない。ゆえに、この記事にはこれらの楽曲についての解説も正解も記されていない。

 

 

 

もくじ

 

Expiation in her dreams ~ 『狭い物語』と『レインコートと首の無い鳥』の関係性について

 

「景子ちゃんは、あの事件で一番、自分の何が失われたと思う」[…]
「僕は現実ではないかと思う」
 私は思わず、あっと声に出した。同じことを私も考えていたのだった。私は今いる現実を、夜の夢の影のようにしてやっと生きていた。
桐野夏生残虐記
*1

 

1. ある仮説~「矢川葵さん幽霊説」~

『狭い物語』のMVを再生する。広野が映し出され、赤い空を背景に、枕を抱きしめた和田輪さんが歩いている。真黒な塔が立っている。狭い部屋の中で、矢川葵さんが歌い出す。
枕、ベッド、塔、地図、コンパス、扉。このMVには、何かを象徴するかのような事物が数多く映っている。例えば、赤い空を背景に立つ真っ黒な塔は、バベルの塔や、タロットカードの塔を連想させる。例えばこれが誰かの夢であるならば、「塔」で夢占いを検索すればいい。そこには、その塔がその人の「無意識」の何を表しているのか、何らかの回答が記されているだろう。

 

『狭い物語』0:25

『狭い物語』0:25

一方、『レインコートと首の無い鳥』のMVに映る風景の質感は、もっと現実的である。陽の光は高く、空は青く、Maison book girlがダンスするシーンも映りこむ。『狭い物語』が夜に見る静かな夢のような世界を映しているとすれば、『レインコートと首の無い鳥』は、もっとリアルで動的である。ここにはまったく違う世界があり、違う物語が進行しているように見える。

 

『レインコートと首の無い鳥』0:28

『レインコートと首の無い鳥』0:28

しかし、筆者は、『狭い物語』と『レインコートと首の無い鳥』は、ある一つの出来事を、まったく違う階層から映し出した楽曲であると考えている。
この二曲は同じ出来事を映している。あるいは、一つの出来事が、まったく異質な物語を同時に引き起こしている。

 

それはどのような出来事なのだろう。ここで、一つの仮説を立ててみよう。先に言っておくと、後で、私はこの仮説を否定する。しかし、ひとまず、次のような仮説を立てる。

  1. 矢川葵さんは、コショージ・メグミさんに撃ち殺された。
  2. しかし、矢川葵さんは殺された瞬間に、殺されたことを「忘れた」。
  3. 矢川葵さんはそのことを思い出そうとしているが、同時に、思い出すことを拒否している。

殺されたのだから忘れるも何もないだろう……そうした意見に対しては、一旦、「矢川葵さん幽霊説」で対処したいと思う。"殺されたけど殺されたことを自覚していない、この世をさ迷っている成仏前の存在"といったイメージである。
矢川葵さんは何かを忘れたことは覚えているから思い出したい。しかし、思い出したら、自分が殺されたことを知ってしまう。だから、思い出そうとすると同時に、記憶は「思い出される」ことを拒否する。

 

こうした仮説を立てた上で。筆者は次のように考える。

『レインコートと首の無い鳥』はこの仮説において「何があったのか」を断片的に映し出している(どこで、なぜ、どうやって殺されたのか)。

対して、『狭い物語』は、「思い出そうとしながらもそれ自体を拒否する」矢川葵さんの頭の中(あるいは心の中)を描いている。

 

 

2. 二曲の関係性の根拠 ~赤と青の交差、そして4人の役割~

この記事は最初から最後まで仮説という名の妄言でできあがっているのだが、妄言にも一応、根拠はあるので、最初にそれを書いておこう。

 

まず、色である。『レインコートと首の無い鳥』のMVは全体的に青味がかった色をしているが、ところどころに、赤が滲み出してくる。
対して、『狭い物語』のMVは赤い。しかし、ある瞬間に「青」が侵入してくる。青に滲み込む赤、赤に侵入する青。こうした色の関係性が、まずは一つ目の根拠である。

 

『レインコートと首の無い鳥』(左:1:24,1:25)『狭い物語』(右:2:04,2:06)

『レインコートと首の無い鳥』(左:1:24,1:25)『狭い物語』(右:2:04,2:06)


もう一点の根拠、それは、Maison book girlの四人の役割である。『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』では、四人の役割が似通っているように見える。

 


一番説明しやすいのはコショージさんである。

『レインコートと首の無い鳥』において、コショージさんは傘の銃のようなもので矢川葵さんを撃ち落としたように見える(そして、この記事の「仮説」は、撃ち落とした=撃ち殺したと解釈する)。

『狭い物語』において、コショージさんはコンパスを持ち、地図を持ち、どこかを目指しているように見える。


両MVにおいて、コショージさんは狙うべき/探し出すべき標的、それが何かを知っている存在である。

 

『レインコートと首の無い鳥』(左:2:52,3:06)『狭い物語』(右:0:20,1:16)

『レインコートと首の無い鳥』(左:2:52,3:06)『狭い物語』(右:0:20,1:16)

 

矢川葵さんは、狙われ、探し出される存在である。

『レインコートと首の無い鳥』においてはコショージさんに撃たれる。

『狭い物語』においては(筆者の解釈も多分に入るのであるが)、彼女は塔の中の部屋にいる。恐らく、コショージさんが探しているのは、矢川葵さんがいる塔であり、部屋である。

 

『レインコートと首の無い鳥』(左:0:21,1:30)『狭い物語』(右:0:30,2:01)

『レインコートと首の無い鳥』(左:0:21,1:30)『狭い物語』(右:0:30,2:01)

 

和田輪さんは、さ迷う存在である。

先述のとおり、『狭い物語』は、枕を抱えた和田輪さんが広野を歩く姿から始まる。地図を広げたコショージさんが目指すべき場所を知っているかのようにまっすぐ歩くのに対し、彼女はあたりをぐるりと見回しながら歩いている。彼女は、コショージさんとは異なり、自分の行く先を知らないように見える。

一方、『レインコートと首の無い鳥』において、彼女は、一番最後にやって来て、コショージさんが矢川葵さんを撃ち落としたらしき「現場」を見つめている。このMVには、彼女が本をめくったり、写真を見つけたり、建物の中を走ったりする姿も映し出される。
『レインコートと首の無い鳥』が一つの探偵小説で、被害者が矢川葵さん、犯人がコショージさんであるのなら、彼女の役目は「探偵」であろう。彼女は「矢川葵さんが殺された」という結果だけを知っている。しかし、「誰が、なぜ、どうして」それを引き起こしたのかを知らない。彼女は辿り着くべき「真実」なるものがどこにあるかを知らぬまま、「真実」の痕跡を探し、さ迷っている。

 

『レインコートと首の無い鳥』(左:2:22,2:56)『狭い物語』(右:0:15,0:46)

『レインコートと首の無い鳥』(左:2:22,2:56)『狭い物語』(右:0:15,0:46)

 

最後に井上唯さんである。『レインコートと首の無い鳥』において、彼女はコショージさんが矢川葵さんを撃ち落としたかに見えるその現場にカメラを向けている。彼女は目撃者であり、現場への最初の侵入者である。

『狭い物語』において、彼女は矢川葵さんの部屋をノックし、青い色を赤い世界に持ち込むる。彼女は本を持ち、彼女たちをじっと見つめている。彼女は見る人であり、記録する人である。彼女は、ある出来事を外側から記述する視線、すなわち「カメラ」や「言葉」を持ち込む存在である。

そして、最初に書いたように、筆者は『レインコートと首の無い鳥』において、井上唯さんが構えるカメラが、『レインコートと首の無い鳥』と『狭い部屋』を結びつける一つの鍵になるのだと考えている。

 

『レインコートと首の無い鳥』(左:0:19,2:10)『狭い物語』(右:2:07,2:54)

(『狭い物語』2:07が井上唯さんかどうかは怪しいところもありますが……)

 

3.「何があったの?」という欲望と、そこからの逃走

 

『レインコートと首の無い鳥』のMVを再生しよう。

最初に、コショージさんが立っている。しかし彼女の足元は、幽霊のように切り取られており、その足元に矢川葵さんが倒れているのがみえる。

 

『レインコートと首の無い鳥』0:09

『レインコートと首の無い鳥』0:09


ここで、視聴者たる私はこう考えてしまう。
「なぜ、コショージさんは矢川さんを殺したのだろう」
「二人の間に何があったのだろう」
そこにあった「事件」の匂いを嗅ぎ取って、「真実」なるものがどこかに存在しているのだろうと思う。そして、次のように予想する。このMVでその全貌が描かれるのではないか。私は、「探偵小説」のごとき解決をそこに求めてしまうのだ。

しかし、例えばあの『藪の中』が描いたように、その痕跡やあの痕跡は、果たして、唯一の「真相」や「真実」を指し示しうるだろうか。犯人が語る動機は、本当にそれが唯一の解なのだろうか? 

例えばコショージさんの足元に墜ちた鳥の写真があったとして、それは、誰の指が引き金を引きその銃声が誰を撃ったのか、唯一の「真実」を示しうるのだろうか。
「探偵小説においては多かれ少なかれ、解釈はどこかで停止させられる。実際、この「解釈の停止」こそ探偵小説の重要な特性なのである」と簡潔に述べているのは、『探偵小説の社会学*2であるが、探偵とは現実の「奥底」に隠れた「真実」を「暴く」と同時に、そこここに残った痕跡と、それが呼び起こす数多の解釈の連鎖を停止させ、捨象する存在でもある。

 

例えば、筆者が最初に示した「コショージさんが矢川葵さんを殺した」とは、数ある仮説の一つに過ぎない。コショージさんの銃は火を噴いていないかもしれない(彼女の銃は「傘」なのだし)、矢川葵さんは死んでいないかもしれない(倒れている姿しか映っていないのだし)(そもそも空を飛ぶ鳥なのか、人間なのかもよく分からない)。
いくらでも仮説の立てようはある。そして、どのような解釈も、また次の解釈を呼び、無限に連鎖して行くことになるだろう。しかし、最初に立てた仮説は、(筆者にとって)もっとも「確からし」く、そうした「確からしさ」は、無数に乱立する仮説のうちの一つに「真実」という権威を与え、確かにあった(らしい)過去の一点を指し示す。

 

以下、筆者は、『レインコートと首の無い鳥』および『狭い物語』という二曲について、「コショージさんが矢川葵さんを殺した」という仮説に基づいた「解釈」を記して行く。しかし、その解釈は仮説の証明を意図したものではない。むしろ、この二つの楽曲が、唯一の「真実なるもの」を指し示す言説から逃れた先にあるのだ、ということを書いてみたいと思っている。

 

 

 

4.『レインコートと首の無い鳥』における語る声の不在と「真実なるもの」の不在

まずは、『レインコートと首の無い鳥』について考えてみたい。
これまで、幾度も探偵小説というワードを用いてみたこの文章である。『レインコートと首の無い鳥』の歌い出しから、このような絵を想像してみよう。

 

今 不思議な鏡をみつめてる。
ただ、汚れてゆくのは誰の顔?

 

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金田一少年の事件簿的なやつをやりたかったのですが、技術が足りませんでした……

 

この曲に『レインコートと首の無い鳥 殺人事件』というタイトルがつくならば、四人の中に被害者がいて、犯人がいることになるだろう。

 

しかし、この歌詞を歌う誰かが見つめているのは写真ではない。「不思議な鏡」である。そして、彼女にはそこに映っているのが「誰」だか分からない。
これが探偵小説なら、誰が犯人なのか、誰が被害者なのか、誰が語り手なのか、それら一切は不明である。

 

また、この曲において、風景は断片的である。

 

公園の青、カーテンの隙間、目を逸らす。

壊れかけている窓。工場の写真の笑顔の指ねじれてく

 

MVにおいても、様々なシーンが挿入されるが、それらは断片的で、脈略が見えづらく、一つひとつのシーンが何を意味するのか。ここで映ったシーンが、他のシーンとどのような関係があるのか、シーンとシーンの関係性は不鮮明である。

以前、異なる記事で同じようなことを書いたことがあるのだが)筆者は、この『レインコートと首の無い鳥』という楽曲には、「語り手」が不在であると考える。すなわち、こうした「断片的」な風景を時系列に並べ、一つの物語としてまとめあげる語り手がいない(あるいは語り手の「首」がない)。

 

これが本当に『レインコートと首の無い鳥 殺人事件』なる探偵小説であれば、依頼者が探偵事務所に訪れたことで謎が提示され、物語が始まることになるだろう。探偵は目撃者に会い、手がかりを探し、証拠を確保し、推理を積み立て、真実を暴く。そして、ワトソンのような語り手が、真実を暴いた探偵の話を聞きながら、謎から解決までの過程を物語にまとめあげ、書き記すのだ。

しかし、このMVには、そうした物語を見せてくれる語り手がいない。風景の時系列や因果関係は不明であり、全てを統一する語り手は不在である。何かが「起きた」らしいことはわかる。けれど、その「何か」の "全体像"なるものは見えてこない。そうした宙ぶらりんの世界。
この語る声の不在こそが『レインコートと首の無い鳥』が私たちに「見せ」ようとしているものではないだろうか。

しかし、「出来事」とは元々、そのようなものなのではなかっただろうか。誰かが一つの物語を語れば、必ず、そこから漏れ出すものがある。「犯人」が見た光景と、「探偵」が見た光景、「目撃者」「被害者」が見た光景、それらが全て同じであるはずがない。全員が同じ出来事をまったく違うように見たかもしれない。

 

こちらのインタビューで書かれているように、『レインコートと首の無い鳥』が「忘れたことを覚えたAI」を描いたものであるのなら、被害者(矢川さん)、加害者(コショージさん)、目撃者(井上さん)、探偵(和田さん)。この四人の記憶をインプットされたAIが、それぞれの記憶の断片をランダムに吐き出し続けている。そんなMVであるように「私には」見える。
それぞれが見た光景、聞いた言葉。四人の脳の中に鮮烈に残ったシーン一つひとつが、それがどんな「真実」を示すのかも知らずに、浮かび上がっては混ぜ合わされて行く。

 

『レインコートと首の無い鳥』では、「そこで、いつ、だれが、何をしたのか」という「真実」なるもの、それ自体が忘却され、不在なのである。ただ、「真実」なるものの「断片」だけが、ここにある。

 

 

 

5.『狭い物語』という「夢」と、記憶の攻防というリアルへ

最初に書いたように、筆者は、『レインコートと首の無い鳥』は「何があったのか」を断片的に映し出しているのに対し、『狭い物語』は、「何があったのか思い出そうとしながらもそれ自体を拒否する」矢川葵さんの頭の中(あるいは心の中)を描いている。と仮定している。
すなわち、『狭い物語』のMVは矢川葵さんが記憶を思い出そうとし、同時にそれを忘れようともしている、そうした葛藤の様を描いている。

 

確かに、『狭い物語』には夢の攻防があるように見える。
歌い初めには夢が残り、

狭いこの部屋に刺さるベッドシーツ。
今も残ってる匂い小さな夢達。

 

サビでは「それは夢ではない」と歌われる。

それは、夢じゃないの。
今も、ここにあった部屋で
抱き合ってるの影と、涙を流して。

 

それにしても、「ここにあった部屋で抱き合ってるの」とは奇妙な言い回しである。
「ここにあった」とは過去形である。「ここにあった部屋」と聞くと、すでに「ここ」に部屋はないようにも聞こえる。しかし、その後すぐに、その部屋で影と「抱き合ってる」のだという。これは現在進行形である。

つまり、この曲の「私」はとうの昔に失われた部屋の中にいるのである。

 

この部屋が『レインコートと首の無い鳥』の延長にあるのなら、私は、次のように解釈しよう。これは「矢川葵さんがコショージメグミさんに殺された」という、矢川葵さんの記憶の部屋である。その記憶は、忘れられようとしている。しかし、まだ忘れられてはいない。その記憶の部屋の中に、矢川葵さんの姿はまだあり、その部屋の中でベッドのシーツをなぞり、その感触を確かめている。

 

「犯人」たるコショージさんはその部屋を探している。なぜなら、その部屋には自らが犯人である痕跡が残っているからである。彼女は、記憶の部屋の中にいる矢川葵さんを探し出し、銃口を向けようとしている。

コショージさんは、「矢川葵さんが殺された」ことを知っているがゆえに、それを「忘れる」ことを迫る。そうであるならば、『狭い物語』におけるコショージさんは矢川さんを殺した「犯人」である以上に、「犯人を見た私」「殺された私」を殺す存在であるのかもしれない。コショージさんは(犯人に関する記憶というよりも)「私(=矢川葵さん)が殺された記憶」そのものに銃口を向けている。

『狭い物語』03:22

『狭い物語』03:22

 

『レインコートと首の無い鳥』03:21

 

とすれば、「探偵」たる和田さんは、矢川葵さんに「思い出す」ことを促すだろう。自分を殺そうとする犯人の顔、犯人と交わした会話、自分が殺される前に取った行動。矢川葵さんの記憶の部屋には、そうした「犯人を指し示す何か」がある。

コショージさんが「矢川葵さんが殺された」ことを知っているがゆえに忘れることを迫るのならば、和田さんは、「矢川葵さんが殺された」ことを知らないがゆえに、「殺された私」を探している。和田さんはその記憶の部屋が、どのようなものであるのかを知らない。忘れられようとする部屋の場所を、忘れられようとする「何か」を知らないままに、探している。彼女が知っているのは部屋があることだけであり、それがどこにあるのか、なぜあるのかも知らない。和田さんが部屋に辿り着いた時、矢川葵さんは「私が殺された」ことを知ることになるだろう。

 

『狭い物語』0:50

『狭い物語』0:50

『レインコートと首の無い鳥』03:54


そして、井上唯さんである。彼女は『レインコートと首の無い鳥』においてカメラのシャッターを切っていた。「写真」に写る。それにより、矢川葵さんが「殺された」という事実は、矢川葵さん以外の第三者にも共有されうるものとなり、そうした第三者の介入により、矢川葵さんの「死」は、「殺人事件」というカテゴリーに参入し、問題化されることが可能になる。

他方、『狭い物語』において、井上さんは部屋の扉をノックしている。扉の外では本を開いている。前にも書いた通り、彼女は、矢川葵さんの身に起きた出来事が、写真や「言葉」のような形で、彼女以外の第三者に開かれることを促す存在である。あるいは、彼女が開いている本は聖書かもしれない。父なる言葉は、彼女に起きた出来事が、あるいは、彼女がそれを忘れることが、罪なのか、そうではないのか、彼女の外側から彼女をジャッジするのだ。

 

シャッターの光、聖書の言葉。井上唯さんはそうした外からの「ノック」の音を矢川葵さんに届ける存在であるだろう。矢川葵さんが殺されたのであるのなら、彼女の「死」は、事件として問題化されることを避けられない。

彼女の「ノック」は、「ねえ、あなたに何があったの?」と問いかけ、彼女に起きた「出来事」を知ろうとする、第三者の登場の予兆である。

 

『狭い物語』2:47

『狭い物語』2:47

『レインコートと首の無い鳥』1:46

『レインコートと首の無い鳥』1:46



「何があったの?」

『狭い物語』とは、恐らく、そうした呼び声に応える手前にある物語である。
例えば新聞の見出しに載るような、あるいはワトソンが語るような。誰もが共有しうる、「殺人事件」の「真実なるもの」。
矢川葵に起きた何がしかの出来事の「真実なるもの」が語られ始める、その一歩手前の物語。それが『狭い物語』ではないだろうか。

 

しかし、恐らく、『狭い物語』も『レインコートと首の無い鳥』も、「何があったの?」という問いかけそのものを否定しているのではない。

むしろ、その問いに応え、私に何があったのか想起しようとする記憶と、誰にも理解しえないものだと・あるいは思い出したくもないのだと、想起を拒もうとする記憶。その間の攻防こそがここにあるのではないか。
何がこの体の外に出て、他者の手に委ねられるのか。何が記憶の部屋に留まり、永遠の秘密として忘れられるのか。ここにあるのは、そうした記憶の攻防の物語ではないか。
きっと、だからこそ、井上唯さんの切ったシャッターが、『狭い物語』のタイトルを写したのだ。

 


『狭い物語』の最後には、赤と黒で構成されていた風景に色が付く。

『狭い物語』3:50

『狭い物語』3:50

『狭い物語』03:51

『狭い物語』03:51

モノクロの世界から色のついた世界への転換は、こうした記憶の攻防こそが「リアル」なのであり、ここは「夢じゃない」のだということを示しているのではないだろうか

「何があったの?」という問いに答える新聞の見出しや探偵小説のように、誰もが読み、共有しうる言葉。その手前で起きる、「真実なるもの」と「それになりえないもの」の攻防。
色付きの風景は、この攻防が「夢じゃない」こと。攻防の風景もまた、真実なのであるということを示しているのではないだろうか。

 

『狭い物語』4:15

『狭い物語』4:15



おわりに

『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』を同時に流すと、『レインコートと首の無い鳥』の井上唯さんが切るシャッターが『狭い物語』のタイトルを映す。ように見える。
この記事は、こうした「偶然」を起点に、『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』に間にあるのかもしれない関係性について考えてきた。

 

レインコートと首の無い鳥(左)―狭い物語(右) 0:19

レインコートと首の無い鳥(左)―狭い物語(右) 0:19


『レインコートと首の無い鳥』において、矢川葵さんに起きたであろう、何らかの事件。

地面に倒れる矢川葵さんを見て、「矢川葵さんに何があったのだろう」と思う。
こうした観る者の「あなたに何があったの?」という問いが、井上唯さんの切るシャッターの光であり、この光から『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』の関係は始まる。

 

『レインコートと首の無い鳥』0:20

『レインコートと首の無い鳥』0:20

 

『狭い物語』におけるノックは、我々の「何があったの?」という問いの声である。
しかし、何があったにせよ、「何があったの?」という問いに答えるのは難しい。出来事のすべてを、言葉にすることなどできないからだ。特に、それが「殺された」、あるいは「殺された」に等しい出来事であったのなら。そうした決定的な瞬間そのものを、捉え、言葉にすることが、誰にできるというのだろう。そこにはまさしく「言葉を奪われる」ような、間隙がある。

しかし、「探偵」は「殺された」私のことを語ろうとするだろう。そして、語る声がなければ、「私の死」は死んで行くだろう。けれど、誰かが何かを語れば語るほど、「言葉にできない」ものが積み上がっていく。

 

『狭い物語』2:07

『狭い物語』2:07

  

恐らく、そうした間隙に生まれたのが『狭い物語』だ。それは、言葉にしえないものと言葉の間に生まれた攻防の物語である。そして、そうした「出来事」のぽっかりとした空洞を示すのが『レインコートと首の無い鳥』だろう。『レインコートと首の無い鳥』には、出来事の断片はあっても、「何があったか」を語る声はなく、そうした声の「不在」をこそ浮かび上がらせる。

 

『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』の関係の中には、こうした出来事と、出来事を語る声の間の攻防の風景が拡がっているのだ。

 

そして、そうした風景が、私が『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』の狭間に見る「夢」である。
ずいぶんと長くなってしまった。『レインコートと首の無い鳥』と『狭い物語』について、ひとまず、この記事で語る内容は以上である。

 

 

*1:桐野夏生(2007)『残虐記新潮文庫pp.150-151

*2:内田隆三(2001)『探偵小説の社会学岩波書店,226