ニワノトリ

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日記:タロット②

2022年12月20日

理想の観客像がある。ステージを前に自分を無にする。僕の全てを忘れ、ステージに没頭する。ステージをただ見て、ただ感じる「箱」になる。脳と五感と身体のすべてを目の前の音楽と風景に賭す。それが僕の思う「理想の観客」だ。大森さんのライブに行くたびに、今日こそは「理想の観客」になるのだと僕は意気込む。
それなのに。何度ライブに行ったって、「あー、まだ終わってないアレどうしよう」だとか。「あの時、あんなこと言われたなあ」だとか。僕の脳の片隅にぐずぐずと蹲っている、「気になって仕方がないこと」が引きずり出される瞬間が訪れる。それは数珠つなぎに、仕事、生活、明日の予定、忘れてはならないけど、忘れられたらどんなに楽か、というような懸念や記憶を引きずり出す。準備の終わっていない会議資料、今週中に振り込まないといけない請求書、前職での忘れられない失言、もう10年くらいあっていない同級生の一言等。確かに目の前でライブが行われているのに、音楽を確かに聴いているのに、僕の頭は、そんな僕の「どうでもいいこと」でいっぱいだ。そのたびに僕が僕の「理想の観客」になれていないことに凹む。
僕にとってライブは「ハレの日」だ。僕の「ケの日」にまつわることなど、この時間・空間にはいらない。
などと思いながら、大森さんのライブに行き始めてから、それなりの年数が過ぎた。振り返れば、「理想の観客」になれた試しなどない。どのライブに行った時も、僕は何らかの仕事のトラブルや人間関係の悩みを抱えていたし、そもそも仕事がない状態の時期もあった(今後もいつそうなるか分からない)。そんな年月の中、いつ僕は「理想の観客」になれるのだろう……と憂いているうちに、最近、僕の「理想の観客」像の方が変わりつつある。大森靖子という人のステージを前に、僕はきっと「ケの日」な観客であっていいのだと思う。
僕にとって2022年の『超天獄TOUR』は、没頭するというよりは、僕自身の日常生活が浮かび上がるようなライブだった。ライブを見ながら、これは確かに僕にとって特別な日、特別な空間だけれど、同時にこれは僕の日常生活の延長戦に他ならないのだと思った。
しかし、こんなことを書きながら、同時に僕は、「ライブにおいて日常生活が浮かび上がる」とはどういうことなのかと首を捻る。ライブとは特殊な祝祭空間なのではなかったか? この自問自答は超天獄ツアーのグッズである「大森靖子の歌世界タロット」によって説明できるような気がしてくる。

このタロットカードにはこのような説明文が描かれている。

「説明書」の頭には次のような一文が書いてある。

タロットカードは人の心を映す鏡。何かに迷ったら、カードを一枚引いてみて

例えば、ベッドに入った瞬間に、今日、定時直前に上司に提出した資料にミスがあることに気づいた僕は、「資料どうしよう……」などと考えながらタロットを引く。「Ⅴ.教皇」を引く。逆位置だ。タロットカードについている解説書によると、キーワードは「独善的、詐欺にあうかもしれない。要注意!」「心を一つなんてふぁっきゅー」らしい。『ドグマ・マグマ』の歌詞。僕は悩む。『ドグマ・マグマ』という「神」をテーマにした壮大な曲を前に、僕は、このマイクロソフトのテンプレートで作ったパワポ資料の行く末をどう解釈すればいいのだろう。というか、そもそも僕はいったいどんな「答え」を求めてこのタロットを引いたのだろうか。どんなカードを引いたって、明日、朝一で、上司に「すみません、情報抜けてました。修正します」と言う他ないのに。
このタロットカードが難しいのは、カードや歌詞の解釈が難しいということ。しかし、もしかしたらこれは「最初の難関」でしかないのかもしれない。もっと難しいのは、きっと自分の迷いそのものを解釈することだ。僕は思う。なぜ、僕はこんなにビクビクして、夜も眠れないほどに震えているのだろう。確かにミスをした。反省した方がいい。でも、まだ取り返しがつくタイミングだ。そもそも、かなり早めに提出している。上司も「直したやつ送りなおして」というだけだ。しかし、僕はきっと明日、「本当にすみませんでした」とこの世の終わりみたいな顔をして上司に謝るのだろう。「そんな大したことじゃないから」という言葉を引き出すために。
死んだ目をしたジャパニーズ。っていうか、死んだ目を演じるジャパニーズ。
情けない。
大森さん曰く、タロットとは「占うというか自分でこっちに行きますと引いているもの」(下記動画13:55-)なのだという。

グッズ紹介動画

ということは、タロットを引くとは、「あなたが引いたこの楽曲をもって、あなたはあなたをどうやって行きますか?」という問いに答えようとすることなのかもしれない。言葉ではなく、人生をもって。そうであれば、『ドグマ・マグマ』的社会人生活を、明日の僕はどうやって過ごすのか。死んだ目をしたジャパニーズとしてなのか、それとも……。
大森靖子の歌世界タロット」には、自分の置かれた境遇や、思いに沿って大森靖子の音楽を聞くのではなくて、「偶然」引いた大森靖子の楽曲で自分の運命や生活をどこまで解釈できるのか……? という問いがあるのだと思う。
そして、もしも僕が、畏くも大森さんの曲に「人生をもって」応答したいと思うのならば、きっと大森さんの「ライブ」はもはや「ハレの日」ではないのかもしれないのだった。むしろ、それは僕の日常を確認する「ケの日の中のケの日」なのかもしれない。
そうだとすれば、大森さんのライブを見る「理想の観客」とは、没頭するよりもむしろ、自分の日常をいかに背負ってライブに行けるか、ということにこそ賭けられているのだ。そして、そんなことは、僕が大森さんのライブを始めて見にいった時から、ずっと大森さんが歌ってきたことであるはずだ。しかし、それを頭で理解している「つもり」でも、実際の生活に落とし込むのは困難で、僕はその入り口に辿り着くのに9年かかってしまった。けれど、そうやってまた次の10年目を過ごして行けるのだとしたら、更に10年後にはどうやってライブを見に行っているのか、楽しみでもある。