ニワノトリ

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日記:リミスタ

2021年7月6日0:00

毎日大森さんの曲を聞いている。正確にいえば、ウォークマンにダウンロードした大森靖子の"音源"を聞いている。つまり、『Kintsugi』とか『大森靖子』とか『クソカワPARTY』とか。一つの"アルバム"や"シングル"として完成された作品を、その一曲目から順々に聞いている。もちろん、アルバムを通して聞くのではなく、一曲をピックアップして聞くこともある。しかしその場合も、例えば『Kintsugi』というアルバムの中から『counter culture』という一曲を選択して再生ボタンを押し、ピアノのイントロを聞き始め、アウトロの大森さんの「ラララ」という歌声で聞き終わる。何が言いたいかというと、つまり、私は大森靖子の曲をいつも「最初から」聞いている。

 

 

何を当たり前のことを言っているのか。しかし、それは本当に当たり前なのだろうか。たとえば、私は先日、『シンガーソングライター』についての日記を書いたが、その日記は『シンガーソングライター』の歌い出しである"ゆれる やれる"について語ることから始まってはいない。最初に触れているのは、曲の後半に流れる"STOP THE MUSIC..."という歌詞で、私はその歌詞からでなければ、『シンガーソングライター』について何かを書くことができなかったのだ。大森さんの一個の作品について考える時、私はその曲について、「始め」から捉えるのではなく、何らかの再構成を頭の中で行っている(きっとこれは私が歌詞に偏重した聞き方をしているところに依る部分も大きいだろう)。

 

 

大森さんを聞き始めて7年が経つ。長く同じ人の音楽を聞いていると、再構成の癖みたいなものがついてきて、「この曲はこう聞く」とか「こういう視点では聞きたくない/聞けない」とか、そういう傾向みたいなものができる。「どう聞くか」とか関係なく、できれば「私が聞いているそれは何か」という「何」に集中して聞きたいと思ってはいるのだが、しかし、それは"思っているだけ"で、間違いなく、私の中にはある種の「聞き癖」が出来上がっている。

例えば大森さんのライブに行って、『死神』のイントロが流れたとする。私は『死神』という曲を知っているので、イントロと共に『死神』というタイトルを思い浮かべ、好きな歌詞、聞きたい歌詞、思い浮かぶ情景など、私の中に既に形成された『死神』のイメージを想起する。むろん、ライブは音源とは異なるので、私の中で出来上がった『死神』がライブによって解体されることもままある(というか概ねそうなる)。しかし、少なくとも、イントロが流れた時点で、私は私の頭の中の『死神』を思い浮かべているのだし、その「解体」も既に私の中に『死神』像が出来上がっているからこそ起こる事象だといえる。

 

 

だから、私はリミスタに参加して、いたく感動してしまったのである。このイベントは7月7日に発売されるアルバム『PERSONA #1』の特典会で、YouTubeライブ配信を使用して行われるいわゆるオンラインサイン会である。特徴的なのは、リミスタの特設ページから『PERSONA #1』を予約し、「メッセージ記入欄に好きな大森さんの歌詞」を打ち込んだら、大森さんが即興で「ワンフレーズ歌」ってくれるという点である*1。数多ある楽曲の中から即興でワンフレーズだけ弾き語るという如何にも難易度の高そうなイベントなのだが、6/25,7/1, 7/15と、3回も開催される。しかも、参加枠が150人分くらいあるので、1人1分としても150分はかかることになる。

 

limista.jp

 

私が特典を購入した7月1日は3時間近くかかっていた。歌われるのは "ワンフレーズ" なのだから、当然、CDやライブのようにイントロからきっちり歌い出されるわけでも、最後まで歌い切られるわけでもない。つまり、私は3時間をかけて150の大森靖子の楽曲を、すべて「途中から」「途中まで」聞き続けたのだ。

ゆえに、このイベントにおいて私の「聞き癖」は通用しなかった。なぜなら、それらのフレーズは、(私がリクエストした一つを除いて)"私ではない誰かの中で再構成された大森靖子の楽曲"から切り出されたものだったからだ。

 

youtu.be

 

私が選んだのは『シンガーソングライター』の一節だったので、大森さんに「にわのさん(のリクエスト)いきまーす!」と言われれば、「『シンガーソングライター』来るぞ!」と身構えることができる。しかし、それ以外のフレーズについては、そのような構えができない。大森さんが「〇〇さんいきまーす!」と言ってギターを弾き始める。それを聞いて、私は頭の中で「あれ、これ、どの曲だっけ??」と記憶をたどり、大森さんが歌い出すのを聞いて「『歌謡曲』か!」となる。すぐに「あの曲だ」とピンと来る曲もあれば、歌が始まっても「あれ、どの曲だっけ??」とタイトルが思い出せないこともある。イントロから始まるのであれば、(既存曲であれば)だいたいの曲は「あ、あの曲だ」とピンとくるが、途中からではなかなかそれは通用しない。

 

 

このイベントの面白いところは、ファンはフレーズ(言葉)をリクエストし、大森さんはそれを「弾き語る」ということだ。言葉のリクエストが音楽という形で返って来るのである。

「フレーズ」というからには、ファンは何かの一曲の一部を切り取らねばならない。私の場合であれば、『シンガーソングライター』という曲の「おまえのことは歌ってない」だった。『シンガーソングライター』には、もちろんイントロがあり、アウトロがあり、アカペラで大森さんが歌い続けているというわけでもなく、後ろではピアノやドラムが鳴り続けている。しかし、このイベントに参加するためには、『シンガーソングライター』という一つの作品を、歌詞という観点から切り取らねばならない。

歌詞を切り取る時、私は私なりにそのフレーズに意味を持たせて切り取っている。「おまえのことは歌ってない」の前に歌われる「刺さる音楽なんて聴くな」を含めるのか。後に歌われる「生きさせて 息させて 遺棄させて」を含めるのか。リクエストを書き込むメッセージ欄にはそれなりの文字数制限があるわけだが、別に10字とか20字とか短い範囲で決まっているわけではなく、数行程度は歌ってもらえるので、しかし、だからこそ、書き込む側は問われる。どこからどこまでにするのか。そうして悩みながら、自分なりの歌詞の「始まり」と「終わり」を設定する。それぞれのファンが、その楽曲についての再構成を何らかの形で行いながら、一つの作品の中に「始まり」と「終わり」を無理やり作り、「フレーズ」として大森さんに提示し、歌ってもらうわけだ。選ばれたフレーズの背後には、そのフレーズとしてしか成り立たない文脈があり、その文脈は選んだ人の理屈や感情や背景から成り立つものだ。

要はこれは、見も知らぬ"誰か"の文脈で、既に知っているはずの大森靖子の曲のフレーズを聞き続けるイベントなのである。

 

  

最近、YouTubeを見ていると切り抜き動画というものがお勧めされて、例えばユーチューバーの一時間くらいある生放送の気になるところだけ見せてくれたりする。「××が□□について語る」とか、そういう分かりやすいタイトルとサムネで、誰が何を語っているのか一目で分かる。Twitterを見ていても、そういうのが多くなった。「△△な◎◎が■■した話」とか、そういうタイトルの漫画。もはや、今の世の中、ググらずとも見たいものの見たいところだけピックアップして教えてくれる。

しかし、このリミスタにおけるフレーズの「切り取り」とは、そうした性質を持つ「切り抜き」ではない。誰がどこを切り取るのかは、ギターが鳴りだすまでは分からない。また、基本的にファンはフレーズだけをメッセージ欄に書き込んでいるので、その人がなぜそこからそこまでを選んだのかも分からない。

「××が□□について語る」という切り抜きが見やすいのは、タイトルやサムネイルがそこにある情報の全体像を示しているからだ。私がその動画を見る時、"要らない"情報は削除されていて、だからこそ短時間で「知りたいこと」だけを知ることができる。

しかし、大森靖子のフレーズが知らない誰かによって切り取られ、大森さんが歌い出すとき、聞き手にとって、「今から何が、どのように歌われるのか」は予測不能である。また、最後まで聞き終わったとて、その人がなぜそのフレーズを選んだのか、背後には私の知らない文脈が広がっている。その「途中から途中まで」のフレーズにおいて、"全体"は常に予測不能なのだ。

私は、誰かが選んだフレーズを聞いて私は「ああ、これは『I love you』か」とそのフレーズが歌われている楽曲のタイトルや全体、またアルバムのタイトルなどを思い出していく。そうした「フレーズ」を元に「私の知っている」全体を思い描こうとする時、そのそこにはその「フレーズ」を選んだ私の知らない誰かの文脈が流れ込んでいる。聞いたことがあるはずの『I love you』に私の知らない『I love you』が流れ込み、知っているはずなのによく分からない、という宙づりの状態が訪れる。私は、そうした「全体」の得体の知れなさの中で、"大森靖子"のフレーズを聞くのである。

 

 

そしてまた、その選ばれたフレーズは、この「リミスタ」というイベントの全体を形成する一部である。そして、何より大森さんがそのフレーズを読み上げ、ギターを弾き、歌い、終わる、というその一連の動作を生み出す。

フレーズという形で歌詞を切り取れたとしても、その歌詞は「楽曲」の一部なので、様々な音とのつながりを保持している。だから、大森さんがカポをつけたり、はずしたり、時には首を傾げたりしながら、コードを確かめ、弾き始める動作を見守ることになる。つまり、ここで私は"誰か"が選択したフレーズが、大森靖子の手によって「音楽」となるまでの過程を目撃する訳だ。私が知っているはずの曲は私ではない誰かの手によって解体され、再構成され、「大森靖子」の曲の"一部"として目の前に現れる。

 

www.youtube.com

 

知っているはずの曲を、知らない誰かの文脈で聞く。それは私が自分の「聞き癖」の外側で大森さんの曲を聞くということで、 それは大森靖子という人の曲を "Zone Out of Control"として聞かざるを得ないということだ。私は"大森靖子"について直接語り合えるような相手がいない(作って来なかった)こともあり、自分の中に大森靖子 "Zone"みたいな固定された区域を作ってしまっている。しかし、このイベントでは、そうしたZONEの外へ出るようにして、自分ではない「誰か」の文脈で大森さんの曲を聞かなければならない。自分の文脈の外に出る。それはそう簡単にできることではない。「あなたの文脈」に沿って、おすすめ動画やおすすめ商品がサジェストされる世の中だから、なおさらだ。

だから私は一人ひとりのファンが選んだ一つのフレーズという、楽曲の「一部分」が、「分からない」「不明な」全体を構成していくこのイベントに純粋に感動したのである*2。「分かる」とか「腑に落ちる」聞き方が全てではないということ。「その歌詞いいよね」という共感はあっても、その人がその歌詞を選び抜いた背景の詳細は不明のまま、次々と新しいフレーズが弾き語られて行く。そうした「不明さ」を背負ったフレーズがいくつも連なって「リミスタ」というイベントの3時間を構成する。それは、「全体」の行方が分からない縦横無尽の3時間だった。

しかし、そもそもキュレーションとはそういうものなのではないか。あなたが好む文脈に作品を落とし込むのではなく、あなたが知らないかもしれない大きな文脈に作品を押し広げて行くということ。例えば、大森さんが『えちえちDELETE TOUR』で披露した"東京沈没弾語りマッシュアップ"が大森靖子の曲を掻き混ぜて、東京という大きなうねりを作り出したように。

 

 
 
 
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この"リミスタ"において、効率の良い「切り抜き」の風潮は解釈し直され、それとはまったく別種の出来事として聞き手の前に立ち現れるのだ。

 

……というのが私の独り言である。

 

最後に一応書いておきたいのだが、この日記には「イベントに参加してワンフレーズ歌ってもらった人」目線での感想をほぼ書いてない。もちろん、自分が選んだ歌詞を、自分を宛先として歌ってもらえるのは貴重な体験だった。だが、そうした体験の「自分に対する貴重さ」についてのあれこれは、ここに書いた"感動"とはまた別筋の「私」の話だ。しかし、一つのフレーズに狙いを定めて次々とギターを弾き歌っていくその一連の技術と動作も含め、自分が選んだフレーズが弾き語られる瞬間に画面越しに立ち会うことができるというのは、ファンとして冥利に尽きるイベントだったことは確かだ。別筋の話ではあるが、それだけは最後に書き添えておきたい。

*1:リミスタ特設ページhttps://limista.jp/projects/2019 2021/7/4閲覧

*2:それはこのような形のイベントを可能にした大森靖子の技量への感動であるとともに、一つひとつのフレーズが確実に聴き手の何らかの文脈を想起させることや、100人以上の人がリクエストしてそんなに被りが発生しない曲数、絶対にこの人何らかの何かをもってこの歌詞を選択してるんだろうなと思わせられるファンのリアリティなど、このイベントを成り立たせる一つひとつの物事への感動でもある