ニワノトリ

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日記:VOID⇆DELETE

2021年8月5日 12:00

(この日記はこの記事(『VOID』について書いたもの)の続きである)

 

かつて私がすごく好きだった彼女は夫に酷いDVを受けていて、しかし、その夫が元夫に変わった後も、彼女はいつも男の話をしていた。離婚を経てそれは家の中で暴言を吐く"リアル"なパートナーから、テレビの中のアイドルに姿を変えたのだけれど。夫の愚痴を言う彼女に電話越しに「あなたにはもっとあなたを尊重できる相手がふさわしい」と説得しながら、テレビの中の男の話ばかりしている彼女のSNSを自分の部屋で覗き見ながら、私はいつも大森靖子の曲の歌詞を思い出していた。

I WANNA BE YOUR PINK PINK ROLLING STAR. /"VOID"

きっと、男に傷ついた彼女の"PINK ROLLING STAR"になれるのは、気軽に何度も部屋に呼んで慰め合える女友達ではないのだろう。男になって、できれば見ているだけで幸せになるようなイケメンに生まれ変わって、"家をぬけ出して僕の部屋においで  君のこと なんも聞きはしないから"と彼女に言えたらどんなにいいだろう。

 

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だから、私はこの女の身体を抜け出して、優しい男に生まれ変わった「僕」としての「自分」を夢想しながら、"VOID"という曲を聞いてきた。

 

***

 

大森靖子のライブに行くと、2回、"VOID"を聞けることがある。一度目の"VOID"が演奏され、アウトロが流れた後に、大森靖子が叫ぶ。「運命じゃなくていいから 好きじゃなくてもいいから もう一回やらせて!」。するとテンポの上がった"VOID"の前奏が流れ、もう一度大森靖子が歌い出す。

家をぬけ出して僕の部屋においで

"VOID"とは「一回」「もう一回」と「一回」が繰り返される曲なのだと思う。そこに「これからずっと」というような連続性の保証はない。あくまでも「この一回きり」の夜の積み重ねなのである。だから、この曲は"僕"が"君"にその日常(="家")を抜け出すように誘うことから始まる。そこで始まるのは、"君"の昨日までの日常とも、明日からの日常とも切り離されたかのような空白の夜である。

私は『VOID』という曲を、歌の語り手である"僕"が「何らかの好意を持つ、しかし、恋愛関係にはない女の子に向けて歌った曲」であると解釈している。この曲の中で、"僕"は、"君"に向けて"僕じゃ満足できなかったなら明日忘れていいから"と歌う。そこにあるのは"VOID LOVE"=空っぽの愛だ。

『VOID』は二人の関係が何らかの形で持続することを想定していない。否、そうした持続を想定することはできない、しかし、それでもこの夜だけは同じ部屋で過ごすことが心地いい、というような関係を歌っている。そして、そうした関係の瞬間性こそが、この曲の疾走感を支えているのだと思う。だから、"僕"と"君"は(明日からもそうした関係が続くであろう)"友達"や"恋人"という名前のついた関係ではないのだし、"僕"は"君"にこう歌いすらする。

リセットボタン押していいよ

 

*** 

 

私が今ここに私と『VOID』について書いているのは、このブログに『えちえちDELETE』をテーマにした日記を書きたいからだ。『えちえちDELETE』は欲望についての曲だと思っている。"したい"という"あたし"の欲望が積み重なって行くからだ。ゆえに、私が「日記」としてこの曲について考えるには、自分の欲望の在処というものを一度言語化する必要があった。そして、そのためには『VOID』という曲を経由せねばならなかった。なぜなら、私の誰かに対する欲望というものは、"なんもない"というVOIDの感覚を経ずに語りえないものだ(と私が認識してきた)からだ。 

 

***

 

『えちえちDELETE』と『VOID』には似ている部分と正反対の部分がある。どこが似ているのかというと端的にシチュエーションが似ていて、それは『えちえちDELETE』が恋愛とか結婚とか、そうした“公式”ではない関係性を歌っているからだ。『えちえちDELETE』は結婚相手以外の誰かと「関係」を持つ曲で、例えばそこにはこのような歌詞がある。

恋愛も 結婚も 違う次元でキスをする 

Rainy rainy 添い寝して
Maybe lady えちえちな
妄想違う男でしてる 酷くないわ みんな幸せ

『VOID』が、「僕」が「何らかの好意を持つ、しかし、恋愛関係にはない女の子に向けて歌った曲」であるのだとすれば、『えちえちDELETE』とはその関係を「あたし」の視点から歌った曲だとすら言えるのかもしれない。

しかし、同時に『えちえちDELETE』は『VOID』とは正反対だ。それは歌い出しから明らかで、

ねえ いつものあれ しないの?

『VOID』で歌われる関係が「家を抜け出した」一夜限りのものだったのだとすれば、『えちえちDELETE』においては、それが「いつも」という連続性の下に歌われ始めるのである。

こうした違いは随所にあって、『VOID』は"何もない=なんかしたい"という、この後何が起きるのか聞き手には分からない歌詞で終わるが、『えちえちDELETE』では既に「(えちえちな)何か」が起きている。『VOID』に続く歌として『えちえちDELETE』を捉えてみるならば、『VOID』で僕が君との関係に抱いていた「夢」("I WANNA BE YOUR PINK PINK ROLLING STAR")は『えちえちDELETE』では既に終わり「現実の」関係が始まっている。

 

 

そこに歌われるのが「現実」の"あたし"であるがゆえに、『えちえちDELETE』という曲は、不倫相手のことばかりでなく、"あたし"の生活を形成する様々な風景、例えば「一緒に住む人」(=家)のことも歌っている。

maby lady 手をとって
今の全部壊してもいいな なんてことは
性格的にない

『えちえちDELETE』に歌われているのは、今ある日常を決してないがしろにするわけではないのに生まれてしまう、その日常からはみ出した欲望のありかとしてのリアルな"あたし"なのである。 

だから、私は『えちえちDELETE』を聞くたびにたじろいでしまう。『VOID』を聞く時、私は"君"を思う優しい僕という男を夢見ていた。しかし、『えちえちDELETE』は、"君"に対して抱く夢ではなく、一回きりの夜でもなく、この日常についてまわる「この私の欲望」というものを核に据えている。だから、私はこの曲から次のような「メッセージ」を受け取ってしまうのである。

あなたのその身体に根付いた欲望はどこにあり、あなたはその日常で、それとどう向き合っているのか。

 

*** 

 

ゆえに、私にとって『えちえちDELETE』を聞くうえで重要なのは、不倫という行為の道徳的な可否そのものよりも、そのようなものも含め、この曲の"あたし"が自身の欲望を日常の様々な風景から眺め、検証し続けているということだ。例えば、この曲には次のような歌詞がある。

女扱いされないよりも
ジェラピケ着こなせないほうが
ショックでかかったな
寝ても忘れない 

ジェラピケとは部屋着のブランドである(……ことを私はこの曲で知ったのだが、私はここで、自分自身の部屋着について深く考えて来なかったことを問い直さねばならないのかもしれない)。ここで歌われているのはほかの誰かからの「女扱い」よりも、部屋で「ジェラピケ」を着こなすことの重要さである。それはある種の「乙女心」、すなわち、自分が自分に向ける眼差し、こうありたい、こうしたいという欲望への感度である。『えちえちDELETE』は常に、「この日常」を生きる「この私」の欲望のありようを歌っているのだ。

 

***

 

もう大分前のことになるが、今年の6月2日にZEPP TOKYOで行われた『えちえちDELETE TOUR FINAL』を観に行った。このライブで『えちえちDELETE』は最初から3曲目に歌われた。

その日、私は2階席の前方に座っていたので、1階席の観客の様子がよく見えた。大森靖子のライブと言えば、ファンの多くがペンライトやサイリウムを持参し、好きな曲の好きなタイミングで好きな色に点灯させるのが通例だ。しかし、この日の公演では、1曲目と2曲目が緊張感のある曲だったため、その間、大半のオタクたちは息をひそめるようにしてペンライトを消していた。

しかし、3曲目、疾走感のある演奏と共に大森さんが

ねえ いつものあれ しないの?

と歌い出すと、1階席のいたるところで一気にピンク色のペンライトが光り始め、上下に動き出した。頭上でペンライトを振るという"いつものあれ"。その光景を見た時、私は『えちえちDELETE』の何たるかの一端を教えられたように感じたのだった。

つまり、そこには『えちえちDELETE』を前にどうしてもリズムを取らずにはいられない身体があった。しかし、同時に、その日のZepp Tokyoは新型コロナ対策のために多くの席が空席となり、会場は常に換気がされ、オンラインでのライブ配信も行われていた。「ZeppTokyoに行きたくてうずうずしてる大森靖子オタ」が2000人以上いたとして、色んなものを調整して行くという選択をしたオタクと、各々が抱える様々な事情によって(「全部壊してもいい」わけじゃないから)会場に行かないという選択をしたオタクがいる。

ライブに行きたい、行けない、行ってはいけない、行ってしまう。

『えちえちDELETE』とは、恐らく、そのような衝動と身体の駆け引きのことなのだ。私の日常とライブという非日常への渇望、その駆け引き。

こうした日常と非日常の駆け引きを大森靖子が歌っているのだとしたら、私はもうライブに非日常を見るためにライブに行っているのですらないのかもしれなかった。そうした駆け引きのうちにこそ、私の日常は成り立っているのだから。

 

 

***

 

『えちえちDELETE』という曲は、この日常、この身体から「はみ出してしまう欲望」と、"あたし"を成り立たせるものとしての「日常、この身体」の間の駆け引きを歌っていて、そうした曲として『えちえちDELETE』を聞くのなら、私は『VOID』を聞きながらVOIDな身体を夢想していた私に 「気持ちよくなってんじゃねえよ」*1と言わなければならない。"なんもない"というVOIDの感覚を元に語り得る欲望など本当にありえるのだろうか。 例えば友達とか恋人とか先輩とか後輩とか女とか男とか、何らかの日常からはみ出した欲望を抱くことがあるのなら、その欲望を非日常な夢の肥やしとするよりも先に、君を思えば思うほど浮かび上がる自分のキモさ、「私」という存在に根付いた欲望の正体を確かなければならないのではないのだろうか。私は"僕"という概念へ自身の欲望を投射し、夢の中の安寧を得るより先に、私はこの身体や日常の中で「したい」「できない」「したい」「できない」という両極の中でバラバラになりながらも存在する欲望を確かめることから始めなければならないのではないのだろうか。

 

***

 

大森靖子の『えちえちDELETE』という曲について何某かの日記を書いてから彼女の最新アルバム『PERSONA #1』を聞こうと思っていたのに、なかなか言語化できないまま一ヶ月が経ってしまった。とうに『PERSONA #1』は私の手元に届いているし、大森靖子の更なる新曲まで配信が始まっている。

『えちえちDELETE』についての「日記」を書くには、『VOID』と冒頭に書いた件の「彼女」についての何かを経る必要があると思いながら一ヶ月が経ってしまったのだが、その間、ずっと考えていたのは、私が"PINK ROLLING STAR"である自分を夢想しているうちに、マジで「彼女」にリセットボタンを押された上に、裏でめっちゃ悪口を言われていたということだった。その時、私は傷つき、自分がいつの間にか彼女の何かを侵犯してしまっていたという事実の重みに耐えかねていたのだが、しかし、どんなに悪口を言われ、最低だと言われようとも、そして関係にリセットボタンを押されようとも、私自身の正体不明のキモい欲望とその欲望を宿すこの身体はどこまでも私についてくるのだった。私がどんなに最低な人間だとて、というかその最低さを自身で詳らかにするためにこそ、私はこの日常を『えちえちDELETE』なものとして生きていかねばならないということだ。だから、私はいつまでも『えちえちDELETE』を聞き終わることができないし、日記もいつまでもまとまらない。しかし、それでも自分が大森靖子リスナーであるために新しいアルバムを聞きに行きたいという欲望だけは確かなものとしてそこにあるのだった。なので、一度、けじめをつけるために、どんなに無様でも「日記」として終わりまで書き、晒すことにした。