ニワノトリ

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日記:タロット①

2022年12月20日 

※(この投稿に関わらず、このブログに書いてある全てがそうですが)これは大森靖子さんの曲をよく聞く人が、"大森靖子作品"について、独善的にああだこうだペラペラ喋ってる"チラシの裏"的日記です。

 

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大森靖子の2022年のツアー*1「超天獄ZEPP TOUR」グッズの一つに「大森靖子の歌世界タロット」というものがある。これは「2022年秋、大森さんとの再会が叶った地元の友人」*2である藤本KQ氏と大森さんの共同制作による一組22枚のタロットカードである。

グッズ紹介動画

藤本KQさんのブース。

 

このタロットカードには「説明書」が同梱されており、一枚一枚のカードについて、解釈のヒントとなるキーワードが書かれている。同じカードでも「正位置」(文字が読める向き)と「逆位置」(逆さ向き)にはそれぞれに異なるキーワードが付与される。ただし、「正位置」であれ、「逆位置」であれ、一枚のカードへのキーワードは基本的に一つの楽曲から抜き出される。
例えば、「Ⅴ.教皇」のカードはアルバム『kitixxxgaia』("キチガイア")に収録された「ドグマ・マグマ」がモチーフになっている。正位置のキーワードは、「神様なのに化粧をしないと外にも出れない不便な身体」、逆位置だと「心を一つなんてふぁっきゅー」。どちらも「ドグマ・マグマ」の歌詞である*3
確かに「Ⅴ.教皇」のカードの真ん中には、「ドグマ・マグマ」のMVを彷彿させる、ヴェールを被った “大森靖子”らしき人が描かれている。

 

youtu.be

 

「説明書」の頭には次のような一文が書いてある。

タロットカードは人の心を映す鏡。何かに迷ったら、カードを一枚引いてみて

例えば人生において何かに悩んだとき、この言葉通りにタロットを引いてみる。「Ⅴ.教皇」を引く。しかし、このカードはそのまま自分の“迷い”に対する“答え”をストレートに示しはしないだろう。自分の“迷い”をカードと楽曲に沿って解釈せねばならない。「ドグマ・マグマ」を一度も聞いたことのない人が引いたとしても、なぜ「神様なのに化粧をしないと外にも出れない不便な身体」という歌詞と「心を一つなんてふぁっきゅー」というキーフレーズが同じカードに共存するのか、教皇がなぜピンク色の十字架を携えているのか、教皇の傍らに跪く“ハゲ気味の”二人はなぜピンク色のTシャツを着ているのか、文脈を捉えること自体が難しいに違いない。
「ドグマ・マグマ」を聞いたことがあったとしても、なぜ「神様なのに化粧をしないと外にも出れない不便な身体」が正位置で、「心を一つなんてふぁっきゅー」が逆位置なのか。その“正”と“逆”は何を示唆するのか、「ドグマ・マグマ」という曲を捉えなおす必要がある。

そもそも、一つの楽曲が「正位置」も「逆位置」も両方意味し、そのキーワードが“同じ楽曲から抜き出されている”というのは、なかなかに困難な事象ではないだろうか。「逆位置」のキーワードは必ずしも「正位置」の逆を意味しない(「神様なのに化粧をしないと外にも出れない不便な身体」の逆位置が「神様じゃないから化粧をして外に出れる」とはならない)。「ドグマ・マグマ」の“テーマ”をそのまま逆に捉えればいいというわけでもなさそうだ。「Ⅴ.教皇」を引いた人は、この一曲をこの一曲のまま“正”にも“逆”にも解釈しなければならない。タロットカードは“答え”を提示するよりも先に、カードの引き手=大森靖子の聞き手の、楽曲に対する理解を問うてくる。

 


『kitixxxgaia』(マグマ盤)のジャケット


“逆に言えば”「大森靖子の歌世界タロット」が示唆するのは、大森靖子の楽曲は、一曲の中に“正”も“逆”も含みこんでいるということではないか。すなわち、その一曲は再生した時点で、既に正位置であると同時に逆位置でもある。
改めて考えると私は大森さんのそのような楽曲を何度も聞いてきたような気がする。例えば、「ドグマ・マグマ」が歌う「誰でもなれ」るGOD、同じ『kitixxxgaia』に収録された「非国民的ヒーロー」、「オリオン座」が歌う「最高は今 最悪でも幸せでいようね」……。

 

というか、そもそも、このツアーのタイトルにもなっているアルバム『超天獄』自体が「天国」と「地獄」という二極を含みこんでいるのではなかったか。

 

※なお、今(2023年4月現在)ネットで読める大森さんへの『超天獄』インタビューはこちらに。

【大森靖子】拡散してほしい吉田豪との『超天獄』インタビュー | エイベックス・ポータル - avex portal

大森靖子、『超天獄』に込められたソロで楽曲を作る意義 「ニュースやトピックスにいつも踏み潰されてる感情ってなんだろう?」 - Real Sound|リアルサウンド

三途の川の見張り番が鳴らす“その時”に手を伸ばせる音楽 大森靖子インタビュー - インタビュー&レポート | ぴあ関西版WEB

【インタビュー】「全てのことにガチで向き合う」大森靖子にとって生きることとは【音楽】

 

『超天獄』というアルバムは、2020年に発売された『Kintsugi』、2021年に発売された『PERSONA#1』に続く、大森靖子(メジャーデビュー後)6枚目のオリジナルフルアルバムである。

……という流れを踏まえて『超天獄』を聞くと、これは天国をめぐり、地獄をめぐり、それでも続いてしまう“私”という“業”を歌うアルバムであるように聞こえる。

 


『Kintsugi』(47盤)のジャケット

 

アルバム『Kintsugi』のタイトルは割れてしまった陶磁器をつなぎ合わせる“金継ぎ”に由来する。その一曲目は「夕方ミラージュ」であり、その後、夜に沈んでいくような楽曲が続く。このアルバムにおいては、恐らく“夕方”や“夜”といった一日の中の時間/時間帯が重要で、ある一日のその時間にしか起きえない“何か”が一曲ごとに拾い上げられ、歌われているように聞こえる。このアルバムが、砕けてしまった“誰か”や“私”について歌うものであるとするのなら、“私”が過ごす時間や瞬間を“私”の欠片として一つひとつ確かめることで、それらを繋ぎ合わせることを可能にし、“私”の像を再生していっているようにも思われる。

 


『PERSONA#1』(通常盤)のジャケット

 

次に発売された『PERSONA#1』は大森さんが他のアーティストに提供した楽曲をセルフカバーした一枚であり、表題曲の「PERSONA」は「君への好きがくれる僕の顔」「"言葉も色も身体も僕"が"じゃなく僕"を"作っている」と歌う。そこにあるのは、君への気持ち、君への視線、君への言葉、君へのメロディ……など、“君”によって“僕”の外に引き出される“僕”の中の何某か、である。“君”のために“僕”が作った言葉は時に"僕"を作る。そこには、“君”が歌うことなしに生まれない“僕”なるものがある。
とすれば、“君”が“僕”の作った歌を歌うとき、その歌を作った“僕”はもうそこにはいないだろう。なぜなら、“僕が”と“僕を”という主客の逆転の中で、かつての“僕”は既に変質しており、(“君”の歌に出会った後の)次の“僕”へと転換しているからだ*4
これが、他者との関係の中で転換していく“僕”の跡を辿るアルバムであるとすれば、これは割れた“私”を“私”自身が継いでいく『Kintsugi』の後に発売されるべくして発売された一枚であると思う。

 


『超天獄』(天ver.)のジャケット

 

……という二枚に次いで発表された『超天獄』を聞くと、(敢えてこのような言い方をするならば)砕けても、誰に出会っても、“私”が“私”であり続けてしまうということ、すなわち、“私”はどこまでも“私”をやらねばならないという“業”が歌われているように思われる。それは(生まれ変わったら無双できる異世界への“転生”ではなく、)この人生でどんな地獄を見ても、天国を見ても、生まれ変わることなく“私”を続けなければならないという業である。その生においては天国も地獄も終わりではない。地獄をめぐるたび、天国をめぐるたび、次の天国/地獄への扉が口を開けて待っている。この人生はこの人生のまま、天国でもあり、地獄でもある。

何が言いたいのかと言えば、つまり、このアルバムを聞くとき、聞き手はタロットカードの「正位置」と「逆位置」のキーワードを考えるように、楽曲が包含する“正”と“逆”を、“天”と“獄”を、同時に解釈しなければならないと思うのだ(そして、そうすることによってこそ、“天”と“獄”を超越する場所に立てるのではないか)。

 


『超天獄』(獄ver.)のジャケット

 

サブスクが隆盛する昨今、音楽の聴き方としてはもしかしたら、“アルバム”よりも“プレイリスト”の方が馴染み深いものになりつつあるのかもしれないが、『超天獄』について、畏くも“何とか解釈してみせよう”と思うのであれば、やはり、これを一枚の“アルバム”として聞かなければならないだろう(それは『超天獄』に限ったことではないが)。言うまでもなく、『超天獄』は『超天獄』として一つの流れを形成している。

例えば、ごく単純にこのアルバムの一曲目「VAIDOKU」と13曲目(ラストの一曲)である「最後のTATTOO」を聞き比べてみる。
体の内を侵し、皮膚を爛れさせる“(梅)毒”を歌う一曲目に対し、「最後のTATTOO」は(自分の)皮膚の上に(自分の意志で)彫り込む“刺青”が表題である。「VAIDOKU」は最初に「同じくだらない今日を」と四回繰り返し、「最後のTATTOO」は「生きた証を残そう」と四回繰り返す。

 

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「VAIDOKU」は「同じくだらない今日を 価値ある風にするカルチャーは猛毒」と「カルチャー」という毒に(受動的に)侵される様を歌い、「最後のTATTOO」は「今日の日を作ってきた全てを 最低な恋やトラウマを 刻んできた身体だけが 僕の自由なんだ」と自分自身が作った「今日」を刻んだ「身体」の自由を歌う。

体を侵す猛毒と、僕の身体という自由。「VAIDOKU」と「最後のTATTOO」は一種の対を為し、“逆の”テーマを歌っているようにも聞こえる。

 

youtu.be

 

しかし、それは本当に“逆”なのだろうか。このアルバムはおそらく、“猛毒から自由へ”という一方通行を描くアルバムではない。例えば「最後のTATOO」にある「飲まない方がいい薬 やらない方がいい手術 打たない方がいいワクチン やったって無駄な努力たち」という歌詞。薬も量を間違えば毒になり、手術は身体を切りつけ、ワクチンは身体にとって一種の「毒」である。感染してしまう「VAIDOKU」と、意図的に刻む「TATTOO」、どちらも“身体”の話をしているのであり、猛毒も自由もこの/その身体にある。そして、猛毒と自由は、その身体において時にくるりと反転する*5

アルバムをリピートすると「最後のTATTOO」のあとに、もう一度「VAIDOKU」が始まることになる。すなわち、「最後のTATTOO」が「今日の日を作ってきた全てを 最低な恋やトラウマを 刻んできた身体だけが僕の自由なんだ」と歌った後に、「VAIDOKU」が「同じくだらない今日を 価値ある風にするカルチャーは猛毒」と歌い始めるのである。
果たして、「(僕の身体に刻まれた)今日の日を作ってきた全て」と「(価値ある風の)同じくだらない今日」はどう違うのだろうか。それは明らかに違うように思われるが、しかし、その差は容易に認識できるだろうか。もしかしたら、自分は既に「VAIDOKU」に感染しているかもしれないのに。

 

……というように、『超天獄』における「VAIDOKU」は、「最後のTATTOO」(までの一連の流れ)を辿った後にこそ、よりその「猛毒」を深めていくのだと思う。

そもそも天国/地獄とは、ある種の審判の先に行き着く場である。例えば天国/地獄を分かつ扉の前に立っているとして、そこで問われるのは“これまでに何してきたのか”である。扉の先にあるのが地獄か天国か、行き先を分かつのは“これまで”の自分の行為に対する審判であり、(“私”ではない)審判者によって、行き先は既に決定されている。扉の向こうに何が待っていても、われわれは、自分たちが為してきた物事、出会ってきた出来事を背負って地獄/天国に踏み込まねばならない。
そして、(繰り返しになるが)恐らく、この“超”天獄においては、天国も地獄も人生の終着地点ではなく、その先に「私」の天国や地獄を背負った「私」のこの生が続いていく。
何が言いたいのかと言えば、やはり、『超天獄』の基本的な聞き方はアルバムにこそあって、二曲目を聞くときは一曲目を、三曲目を聞くときは一~二曲目を……と“それまで”の曲を背負いながら最後まで聞き進め、その一周目を背負って更にもう一度頭から再生して……という繰り返しをするのが、『超天獄』の『超天獄』らしい聞き方でないかと思うのだ。

しかし、『超天獄』を聞くとき、ひたすら再生ボタンを押し、あるいはリピート機能に任せ、“同じように”聞き続けるのではなく、自分が何をどう聞いているのか、注意深くならなければならない。私が聞いているその一曲、そのフレーズ、その歌詞を聞く私は、そこで“どのような”解釈をしているか。それは正位置か、逆位置か、いずれかですらないのか。

*1:2022年12月に開催予定だった大阪公演と名古屋公演が振替となったため、 実際の開催期間は2022年12月~2023年3月まで

*2:大森靖子の歌世界タロット」に同封されている説明書より

*3:なお、「ドグマ・マグマ」の歌詞カード(@『kitixxxgaia』)における表記は「神様なのに化粧をしないと外にも出れない不便なからだ」と「心を一つなんてふぁっくYOU」である

*4:付言すれば、『PERSONA#1』というタイトルは、このアルバムが『#2』を待ち望んでいるということを示唆しており、それは“僕”が他者“へ”何かを差し向けること、それと共に自分を変革し続けることをやめない、ということを含意しているようにも思う

*5:時に「子供」なる存在が(親の)「生きた証」と位置付けられがちであることを考えると、「生きた証を残そう」という歌詞は「VAIDOKU」と並べると多少 "グロテスク"ですらある。しかし、(あるいは"だからこそ")「最後のTATTOO」は「生きた証を残そう なんてなんでみんな考えるのかな」と問い返し、トラウマを刻んだ「(ほかの誰でもない)僕の身体」のことを歌う。そして、曲の最後には「生きた証を残そう」に替えて「同情すんな愛させろ」と繰り返す。これはドラマ『家なき子』の名台詞「同情するなら金をくれ」を連想させる歌詞でもあり、子供や家族なるものを形成するある種の既成概念が、そのまま無条件に「生きた証」にはならない、「生きた証」は“自分自身の身体”にあるのだということを前提にする