『絶対少女』の奥深く/大森靖子「君と映画」@『絶対少女』の感想
大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。
→ 絶対少女 - ニワノトリ
今回は、14曲目、『君と映画』の感想を書きたいと思います。
→ 歌詞と大森さんによる解説はこちら
最初に、歌詞、次にPVのストーリーや意味について感想を書いています。
■この曲のストレートな解釈(たぶん)
『君と映画』という曲の冒頭には、消費社会的なものに対するストレートな不安が描き出されている。
映画もいいよね 漫画もいいよね
ついついお金を使ってしまうでしょ
知らない誰かに財布を にぎられる
[…]
私のリモコン握られる
握ってるみえないヒットラー
「私」が心の奥底から好きな映画に興奮しても、どんなに真剣に好きな漫画を読みふけっても、その作品を「好き」と思う私自身のオリジナル性は証明されない。
自分が「好き」だと思っていても、本当はその「好き」という思いすら誰かに操作されているのかもしれない。
映画も漫画もテレビも全部、みえない「誰か」にあらかじめ用意された記号にすぎなくて、私は「誰か」に促されるままに欲望をあおられて、与えられた記号をとっかえひっかえするだけの器に過ぎないのかもしれないのかもしれない。
そんな消費社会の不安。
……を遮る、「君」という存在。
『君と映画』の後半では、そんなオリジナルなき自分への恐怖や不安が、「君」と一緒にいることの尊さ、大切さによって塗りつぶされようとしている。
オリジナルなんてどこにもないでしょ
それでも君がたまんない
[…]
君と新しい人生つくるの コピーページにはならない
君と映画 君と漫画 君とテレビ
例えすべてが記号にすぎなくて、オリジナルなど皆無なのだとしても、「私」が君と映画を見る時間は他には変えられない。
「君と」映画を見るこの瞬間、「私」のリモコンは誰にも握らせない。
そんな「私」の決意が語られて、この曲は幕を閉じる。
この曲は、テレビや映画を通して「あれを買え」「これを買え」と私の欲望を煽り、操作しようとする「みえない誰か」への不安に押しつぶされないように、目の前にいる「君」を大切にしようとする。
そんな、素直で力強い構成になっている曲だと思う。
***
というような、曲なのだと理解しながら聞いていた。
最初は。
しかし、この曲のMVを見ると、そんな素直なことばかりも言ってられなくなってくる。
■この曲のMV
『絶対彼女』や『ミッドナイト清純異性交遊』のように、この曲にはMVが用意されている。
それがコレ。
***
***
まず、これだけは言いたい。
このMVの大森さん、何度見てもクソかわいい。
(もちろん、橋本愛ちゃんも蒼波純ちゃんもかわいい)。
……ということを叫んだうえで、この曲とMVの一筋縄でいかなさ加減について語りたい。
■裏切りのMV
『君と映画』
確かにいい曲である。
しかし、いい曲だと思う反面、この曲を聞くと何らかの不安を感じてしまうのも事実だ。
この曲のMVはその「不安」の方にフォーカスを当ててくれるものであるような気がする。
この曲の前半(一番)で、橋本愛演じるこのMVの主人公は、彼氏らしきイケメン(稲葉友君)と映画を見て、テレビを見ている。
まさしく、「君と映画」し、「君とテレビ」しているわけだ。
しかし、『君と映画』という曲が「君と映画」することの楽しさや幸せを歌っているというのに、この曲に出て来る「君と映画」や「君とテレビ」はまったくもって幸せそうではない。
この曲は、橋本愛ちゃんが彼氏と映画館デートをする場面から始まるのだが、映画館の入り口で、彼氏たる稲葉友君は財布を探すふりをするばかりで、あからさまに映画料金払う気がなさそうである。
そんな彼氏を一瞥した後、結局、橋本愛ちゃんは結局二人分の料金を支払う。その時、橋本愛ちゃんは稲葉友君に何か一言かけているのだが、その表情には明らかに無理やりつくったっぽい笑顔が浮かんでいる。
映画が始まっても、何か彼氏は爆睡しているし、橋本愛ちゃんの表情も硬い。
その後、橋本愛ちゃんの家?(もしくは彼氏の家?)らしき部屋に帰ってきた二人はテレビを見ている。
彼氏に後ろから抱きしめられつつテレビを見ている橋本愛ちゃんは、楽しそうに笑っている。
しかし、途中でふと身を起こして彼氏から体を離し、遠い目をする。
「君と映画」している時も、「君とテレビ」している時も、橋本愛ちゃんは何とか笑顔を浮かべて、二人でいる瞬間を楽しもうとしようとしているように見えるが、たぶん、本当はあんまり楽しくないんだろうな、というようなことが伝わって来る。
曲が二番に突入してもそれは同じで、彼氏は道のど真ん中で橋本愛ちゃんに意味ありげに囁いて抱き着いてみたり、部屋の中で髪の毛を撫でてみたり、甘い恋人みたいな仕草を橋本愛ちゃんにしかけまくっているが、橋本愛ちゃんの方はそれに無理やり付き合ってる感満載である。
明らかに楽しくなさそうなのに、橋本愛ちゃんはいつも、無理やり笑おうとする。
このMVに描かれているのは、例え、彼氏と一緒にいて楽しくなかったり、自分自身の何かが違和感を訴えたりしていても、「私はこの彼氏と一緒にいて幸せだし、楽しいんだ」と自分に言い聞かせ、無理やり笑顔を作るような事態だと思う。
このMVを見て思うのは、「君と映画」を見る「幸せ」それ自体が、「見えないヒットラー」となり、「私」の人生を操作する可能性があるのだということだ。
君と新しい人生をつくるの コピーページにはならない
橋本愛ちゃんも、稲葉友君と付き合いたての頃には、そんなことを思っていたのかもしれない。
しかし、いつの間にか、「君と新しい幸せを作り上げるの」という決意が、「私は君と一緒にいると幸せなはず」というシナリオにすり替わり、そのシナリオに沿って自分の感情を偽り、無理やり笑顔を作るになってしまう。
このMVにはそんな様子が描かれていると思う。
たぶん、その違和感に耐えられなくなった時に幸せカップルにも別れが訪れるのだし、そういう違和感がこじれた時にDVとかが発生するのかもしれない。
『君と映画』という曲は、「オリジナルなんてどこにもないでしょ」という不安感や恐怖感を、「君」という存在とともに変えて行こうとしている。
しかし、『君と映画』のMVには、『君と映画』が歌うような「私の幸せ」を作り続けることはとても困難で、時にうまくいかないのだということが描かれているような気がする。
「君」と「私」の関係が不均衡になって、上手くいかなくなった時、君と私の関係そのものが「私」や「君」の感情を操作する。
楽しくない時間を楽しいと思い込んでみたり、幸せじゃないのに笑ってみたり。
『君と映画』という曲は、「私の幸せ」への決意を歌う「いい曲」であると同時に、そんな「私の幸せ」だと思っていたものがうまくいかなくなった時の悲惨さ、みたいなものも予感させる曲で、このMVはそんな嫌な予感の方を視覚化してくれているような気がする。
■「君」の終わりと「君」の登場
一方で、このMVはそんな不安ばかりが視覚化された、弱っちいMVではない。
このMVは最終的に、橋本愛ちゃんがイケメン彼氏をボコボコにするというオチを迎える。
君と新しい人生つくるの コピーページにはならない
という歌詞が終わったところで、橋本愛ちゃんと稲葉友君が言い合いをする場面が始まり、橋本愛ちゃんは稲葉友君にぶち切れた揚句にボコボコにしてベランダに放り出す。
この場面、素直に解釈すれば、彼氏との関係性が、「新しい幸せ」なんかじゃなくて、単なる「コピーページ」であることに気付いた橋本愛ちゃんが、そのコピーページから抜け出すために、彼氏をボコボコにしたということができるのではないかと思う。
映画のチケット代を出してもらったくせにその映画で爆睡する、どうしようもないイケメン彼氏は、二人の「幸せ」を自ら貶める数々の行為に対して、その身をもって報復を受けるのだ。
そんなボコボコな結末を迎えるにあたり、MVの途中で登場するのが、稲葉友君の妹なのか、二人の友人か後輩なのか、ポジションがよく分からない謎の美少女、蒼波純ちゃんである。
蒼波純ちゃんは、一番のサビ、「私に新しい神様買ってよ」という歌詞のところで登場するのだが、蒼波純ちゃんは、「私」と新しい人生を送る「君」になってはくれなかった、どうしようもない彼氏に変わる、新しい「君」として登場したように見える。
というのも、蒼波純ちゃん登場以降、「君と一緒にいることの大切さ」みたいなものが歌われるとき、大体、橋本愛ちゃんは蒼波純ちゃんを見ている(というかそもそも、「君と一緒にいることの大切さ」については、二番以降でしか歌われてない)。
例えば、
海もいいよね 山もいいよね
学校に先生はいなかったでしょ
魚に泳ぎ方 鳥にとび方 君にあるき方 愛し方
の「君にあるき方 愛し方」の部分で、橋本愛ちゃんは蒼波純ちゃんを見ている。
上でも引用した「オリジナルなんてどこにもないでしょ それでも君がたまんない」という歌詞の、「君がたまんない」の箇所でも、橋本愛ちゃんは隣にいる彼氏ではなく、目の前を通り過ぎる蒼波純ちゃんを見ている。
「君がコンビニまでの道 何度私をふり返った 私の幸せ」という歌詞のところで、橋本愛ちゃんの方をふり返るのも、蒼波純ちゃんだ。
■「向き合う」視線
このMVで重要なのは、「向き合う」という動作かなあと思っている。
このMVで橋本愛ちゃんと稲葉友君は、あまり「向き合う」ということをしない。
一緒に映画を見たり、一緒にテレビを見たり、一緒に歩いたり、後ろから抱き着いたり……横に並んだり、前後に並んだりしていることが多くて、正面から向き合うシーンは少ない。
向き合っているのは、MVの冒頭と、最後、橋本愛ちゃんが稲葉友君にぶち切れる場面くらいである。
「向 き合う」ということに着目してMVを見ると、二人で隣に並んでいるときには、自分の気持ちを抑えて楽しい振りをしていた橋本愛ちゃんが、彼氏と正面から対 峙することで、始めて自分の感情をむき出しにすることができた、ということもできるのかもしれないし、二人ともちゃんと「向き合う」ことをしなかったか ら、こんなボコボコな結末を迎えることになったということもできるかもしれない。
一方、蒼波純ちゃんと橋本愛ちゃんは何回か「向き合って」いる。
蒼波純ちゃんがスマホで橋本愛ちゃんと彼氏の写真を撮る時、蒼波純ちゃんが道で戯れる二人を追い越してふり返る時、蒼波純ちゃんが橋本愛ちゃんの似顔絵を描いている時。
橋本愛ちゃんと蒼波純ちゃんは正面から向き合い、時に見つめあう。
橋本愛ちゃんは、そんな蒼波純ちゃんと正面から「向き合う」という行為を経た後に、彼氏を拒否し、ボコボコにするという行動に出る。
これは、そんな誰かと「向き合う」という経験が、彼氏と自分がいかに向き合えていないかを実感させてくれたということかもしれないし、正面から見つめ合うその視線が、彼氏とのどんづまりの関係の外側へ、橋本愛ちゃんを連れ出してくれたのだということなのかもしれない。
こうした「向き合う」視線には、「君と映画」することの脆さと難しさが表れているような気がする。
何度か引用したけど、『君と映画』は、下記の歌詞を歌って終わる。
君がコンビニまでの道 何度私をふり返った
私の幸せ
君と新しい人生をつくるの コピーページにはならない
君と映画 君と漫画 君とテレビ
MVを見てから気付いたんだけど、この四行の歌詞には、「君」と「私」の視線が持ちうる、二つの関係性が描かれている。
一つは、「振り返った」君と私の間に交わされるような、「君」と「私」が正面から見つめ合う視線。
もう一つは、君と並んで同じもの(映画や漫画やテレビ)を見る、君と私の平行する視線。
これは、単純に、「君と映画」を見る瞬間が、「新しい人生」を作るようなものであるためには、二人で同じものをみるだけではなく、正面から見つめ合って視線を交わし合うことも必要だということなのかなと思う。
「君 と映画」を見ることが大切な瞬間ではなくただの惰性となってしまうと、二人そろって「見えない誰か」にリモコンを取られてしまうこともありうるわけで、そ うならないためには、「君」と「私」でお互いの存在を確認しあって、二人の関係を更新して、常に「君と映画」を見る瞬間が新しいものであるように努めて行 かなければならない。
■私をここから連れ出して ~ミッドナイト清純同性交遊
『君と映画』のMVはそのまま『ミッドナイト清純異性交遊』のMVへと続いて行く。
なので、ここで改めて、『ミッドナイト清純異性交遊』のMVを見てみた。
『君と映画』を見た後に『ミッドナイト清純異性交遊』を聞くと、『ミッドナイト清純異性交遊』は、『君と映画』に比べると、互いに「向き合う」場面が多いMVだな、と感じる。
橋本愛ちゃんと蒼波純ちゃんはもちろんのこと、大森さんと橋本愛ちゃんもアイフォン越しに向き合っている。
『君と映画』では、大森さんはバックグラウンドでこっそり歌っている人(?)みたいな感じで、橋本愛ちゃんの目の前には現れないんだけど、『ミッドナイト清純異性交遊』では、大森さんが「歌手」として登場して、橋本愛ちゃんに歌う歌を歌う姿を見せているのだ。
一方、『君と映画』に出て来た彼氏は完全に蚊帳の外……っていうかベランダの外にいて、『ミッドナイト清純異性交遊』には女の子しか出て来ず、女の子ばかりが向き合っている。
『ミッドナイト清純異性交遊』において、橋本愛ちゃんに向き合い、橋本愛ちゃんをアンダーグラウンド」から連れ出してくれるのは、大森靖子であり、蒼波純ちゃんであり、どちらも女の子だ。
よく考えたら、このMVで交遊してるのは、女の子ばかりで、これミッドナイト清純同性交遊じゃん、って思わなくもない。
そして、『君と映画』と『ミッドナイト清純異性交遊』のMVを見ていると、「女の子と女の子が向き合う」ことの意味について考えさせられる。
大森さんは、『君と映画』の解説で、以下のように述べている。
「好 きな漫画とか映画とかを神様みたいに尊く思う気持ちと、すきな作品を紹介するときの自分の神様をみせあいっこするみたいな気恥ずかしさと、みてきた映画と か漫画とかテレビとかだけで自分が形成されてたらどうしよう、誰かの思い通りじゃん、誰かを憎いと思ったり、愛しいと思ったりすることすら操作されている かもしれない怖い!っていう恐怖と」
確かに、『君と映画』では、「私の神様」への畏怖と畏怖する自分への恐れ、みたいなものが歌われている。
しかし、一方で、大森靖子という人自身がすでに、多数のファンを抱える「神様」であるというのも事実だ。『ミッドナイト清純異性交遊』のMVにおいても、大森さんは、大森さんの歌を聞く橋本愛ちゃんにとっての「神様」みたいな位置づけになっていると思う。大森さんの曲は、すでに多くの人を救っているだろうし、その中には数多くの「女の子」をこじらせた「女の子」がいるだろう(だからこそメンヘラ担当みたいな位置づけになっている側面もあるんだろう)。
確かに「私」が何かを好きになればなるほど、「私」は「誰かの思い通りじゃん、誰かを憎いと思ったり、愛しいと思ったりすることすら操作されているかもしれ ない怖い!っていう恐怖」にも晒されるのかもしれないけれど、一方で、大森靖子という歌い手を好きになることで、そうした恐怖から救われた……そんな、女の子に手を差し伸べる神様大森靖子とそこに手を伸ばそうとする「女の子」たちの関係性は、すでにこの日本に数多く生まれており、これからも増えて行くことになるに違いない。
だが、同時に、『君と映画』という曲と『ミッドナイト清純異性交遊』を合わせて聞くと、女の子にとって女の子が神様であるということは、単なる「神-信者」のような関係ではないものを生み出すのだろうな、というのも感じるのだ。
『ミッドナイト清純異性交遊』という曲は、大森さんにとっての神様、ちゃゆ……いや、道重さゆみについて歌った曲でもある。
しかし、一方で、『ミッドナイト清純異性交遊』で、さゆは単なる「神様」であるのではない。
アンダーグラウンドから君の指まで
遠くはないのさ
という歌い出しにあるように、「さゆ」はアンダーグラウンドにいる「私」から遠く離れた別世界に住む神様ではない。『ミッドナイト清純異性交遊』の感想文http://niwanotori.hatenablog.com/entry/2014/08/16/074811でも書いたけど、この曲は、さゆを神のように崇めるのではなく、さゆという一人の女の子に、向き合おうとしている。
さゆがいるから、あるいは大森靖子がいるから、女の子たちは、「アンダーグラウンド」から抜け出せる、というのは、たぶん、ある。
しかし、それはさゆや大森さんが別世界に住む「神」であるのではなくて、彼女たちを見て、聞く女の子たちと同じ、「女」という身体を持って、「女の子」という人生を歩んでいるからこそ、女の子たちを「アンダーグラウンド」から抜け出させてくれるんじゃないか。
『君と映画』からの『ミッドナイト清純異性交遊』へのMVの流れを見ていると、女の子の声でなければ届かないし、女の子にしか解放できない女の子の女の子性というものがあるのだろうという気にさせられる。
■「絶対彼女」という鎧と「君と映画」という気持ち
『ミッドナイト清純異性交遊』は『絶対少女』というアルバムの二曲目で、『君と映画』は『絶対少女』14曲目(最後から二曲目)だ。
『絶対少女』というアルバムの並びからすれば、『君と映画』→『ミッドナイト清純異性交遊』というMVの流れは、最後から二曲目の曲から、最初から二番目の曲に戻るという、「振出しに戻る」みたいな構造になっている。
しかし、曲だけを聞いていると、『君と映画』は『絶対少女』の一曲目である『絶対彼女』という曲ともリンクしているような気がする。
例えば、『絶対彼女』には
新しい気持ちでいようね
ふつうの幸せ守るの
という歌詞があり、これは『君と映画』で歌われている「私の幸せ」や「君と新しい人生をつくるの」という歌詞に通底するものがあると思う。
しかし、『君と映画』が
君と新しい人生をつくるの コピーページにはならない
君と映画 君と漫画 君とテレビ
と、君と私の世界の幸せを抱きしめるようにして終わって行くのに対して、『絶対彼女』の方は、
新しい気持ちでいようね
ふつうの幸せ守るの
ディスったやつの家にバラの花束を毎日送るの
絶対女の子がいいな
絶対彼女
と、終わる。
『絶対彼女』は、「ふつうの幸せ」を否定しようとする何かから、「女の子」を必死で守ろうとしているような、そんな切羽詰った生々しさがある。
『絶対少女』は、幸せを守るために肩肘はって一人で戦っている感じがあるけど、『君と映画』はそういう肩肘感がない。ただ、幸せをかみしめているように聞こえる。
きっと、『絶対彼女』が歌っているような女の子の戦いの裏側には、『君と映画』が歌うような、素直な思いや希望があるのだと思う。
しかし、『君と映画』が歌っているような気持ちは、このアルバムの奥底に隠されて、アルバムの入口たる『絶対彼女』は女の子に絶対性を授けて、「女の子」を傷つける者の侵入を頑なに拒もうとする。
『君と映画』を聞いて、改めてもう一度、『絶対彼女』を聞くと、『絶対彼女』に出て来る「女の子って難しい」っていう台詞の意味が何となく分かったような気がした。
『君と映画』のような気持ちというのは、「女の子」にとっての強みでもあり、弱みでもあるのだと思う。
それがあるから世界が楽しくなるし、逆に、そこに付け込まれてしまうと一気に世界が楽しくなくなってしまう、しかし、かといって、そういう気持ちを手放すと、「女の子」としての楽しみがなくなってしまう。
というような。
『君と映画』のような気持ちを素直に抱いて、示したまま人生をそのまま歩むのは難しいからこそ、それを守るようにして『絶対彼女』という曲があって、『絶対少女』というアルバムがあるのかもしれない。
感想文の日付を見てみたら、私が『絶対彼女』を始めて聞いてからもう二ヵ月以上たっていてビビったんだけど、『君と映画』というという曲を聞いて改めて、『絶対彼女』という曲のなんたるかについて考えさせられた。
このアルバムは最後まで聞いてから、もう一度、頭から聞くと、それぞれの曲にもう一歩踏み込める、そんな構造になっているのかもしれない。
※ この記事は、http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/7/5に公開したものを修正したものです。