ニワノトリ

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ファンタジーという“不気味な泡”/大森靖子「音楽を捨てよ、そして音楽へ」@『魔法が使えないなら死にたい』の感想

※『魔法が使えないなら死にたい』の感想を一曲ずつ書いていっています。→ 魔法が使えないなら死にたい - ニワノトリ
※『絶対少女』の感想企画もやりました。→ 絶対少女 - ニワノトリ

 

 

大森靖子、1枚目のアルバム『魔法が使えないなら死にたい』の二曲目、「音楽を捨てよ、そして音楽へ」の感想文を書きたいと思います。






■音楽に対する態度とその比喩としての魔法


『音楽を捨てよ、そして音楽へ』。このタイトルにおいて、音楽は目的格である。
「音楽を」どう扱うのか、「音楽へ」どう対峙するのか。このタイトルは、この曲が人間の音楽に対する態度、あるいは、音楽と人間、双方の間の関係性を歌おうとしているのだと宣言しているように見える。
そして、本曲における「音楽」について考えるとき、外すことができないのが「魔法」という言葉である。幾度か繰り返される「マジカルミュージック」や、幾度も繰り返される「音楽は魔法ではない」という歌詞がそれだ。
こ うした歌詞が想起させるのは、音楽の魔法にかけられたり、かけられなかったり、かけられたがったり、かけられそびれたり……音楽に「魔法」を夢見てしまう ような聞き手(や作り手)の姿である。この曲において、音楽と人間の関係は「魔法」という比喩によって言語化されているのだ。

しかし、そもそも、この曲のいう「音楽」とは何で「魔法」とは何なのだろう。
以下、歌詞の中から分かる範囲で、この曲における「音楽」と「魔法」について考えてみたい。


■マジカルミュージックとは何か

まずは、この曲の一番の歌詞、中でも特に「マジカルミュージック」という歌詞に着目してみたい。
一番には二度、「マジカルミュージック」という歌詞が出て来る。


①脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能
 ダサいダンス ダウンロード
 って言ったら負けのマジカルミュージック


②面白いこと 本当のこと
 愛してるひと 普通のこと
 言わなくても伝わるマジカルミュージック 
 抽象的なミュージック止めて


この①は歌い出しであり②は一番の終わりの歌詞である。
(ちなみに、②の後は、ミュージックが一度止まった後、もう一度、①が始まり、二番が始まる、という構成になっている)。


①も②も、文の構造は似ており、どちらも、いくつかの単語の並列の後に、「マジカルミュージック」が出て来る。
しかし、①と②では羅列されている単語が対照的だ。
①は「脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能 ダサいダンス ダウンロード」という、具体的で社会的な出来事を羅列し、「って言ったら負けのマジカルミュージック」と、それらに対置するような形で「マジカルミュージック」と歌っているが、
対して、②は「面白いこと 本当のこと 愛してるひと 普通のこと」という主観的で個人的な出来事の羅列の後に、「言わなくても伝わるマジカルミュージック」と、それらを体現するものであるかのように「マジカルミュージック」を歌っている。

①が「って言ったら負け」であるのに対し、②が「言わなくても伝わる」となっていることから、「マジカルミュージック」とは、社会的で客観的なものであるというよりは、個人的で、主観的なものであるのだろう。
①で歌う「脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能 ダサいダンス ダウンロード」これらは、「音楽」やその流通、その表現方法と深いかかわりのある出来事や物事だ。
しかし、それらを「言ったら負け」と歌っているということは、それらについて直接的に歌うことは「マジカルミュージック」の本質ではない……ということを指しているのかもしれない。

確かに、②の直前の歌詞は

③面白いこと 本当のこと
 愛してるひと 普通のこと
 なかったことにされちゃうよ
 なかったことにされちゃうよ


である。
③と②は上二行が共通しているが、③では「なかったことにされちゃうよ」であった歌詞が、②では「言わなくても伝わるマジカルミュージック」になっている。
「な かったことにされる」代わりに歌われる「言わなくても伝わる」という歌詞は、なかったことにされてしまいそうな、「私」の主観的で個人的な「面白いこと  本当のこと 愛してるひと 普通のこと」を、「マジカルミュージック」が回復させてくれるのではないかと期待させる。

実際、①と②に至るまでの間の歌詞では、「面白いこと」や「本当のこと」といったものが「なかったこと」にされてしまいそうな瞬間が歌われている。

例えば、以下の歌詞。

④身体検査の前の日に
 下剤を飲んで軽くなって
 ピョンピョン跳ねたらイジメにあった
 楽しそうなやつムカつくんやって
 画用紙一面の真っ赤な海も
 ブルーにしろって教育された


「ピョンピョン跳ね」ていた「私」は、「楽しそうなやつムカつく」とイジメられ、「私」の目に見えた「真っ赤な海」は、「ブルーにしろ」と教育される。
ピョンピョン跳ねる「私の気持ち」や、赤く見える「私の海」は、他人によって「ムカつく」と捻じ曲げられ、「海は青です」と正される。ここにあるのは、「私」の世界が、他者の視点から改変され、矯正されてしまうような事態だ。
私ではない「誰か」や「社会」に、塗りつぶされてしまいそうになる「私の世界」。
そうした歌詞を経たうえで歌われる「言わなくても伝わるマジカルミュージック」とは、「私の世界」の居場所を確保し認めてくれる、現実とうまく折り合いなどつけられない「私の世界」の避難所のような場所なのかもしれない。


■……からの展開

しかし、着目すべきは②の歌詞の後の展開である。

②の最後の歌詞

 言わなくても伝わるマジカルミュージック
 抽象的なミュージックとめて


ここで、一旦、音楽は途切れる。
代わりに流れてくるのは、雑踏のざわめきと、「悪口」である。

 ヤスコ?え?セイコ?あのババアヤリマンでしょ? 
           (※歌詞カードには載っていないので聞き書きしました)

「抽象的なミュージック」が途切れた途端、具体的な「悪口」が聞こえてくるのである。
この悪口は、「楽しそうなやつムカつく」といういじめがそうだったように、セイコの「面白いこと 本当のこと 愛してるひと 普通のこと」をなかったことにしようとする。
セイコがどんな「面白いこと」や「普通のこと」を抱えていようと、そんなもの関係なく、悪口主にとっては、セイコはただのヤリマンのババアだ。その悪意は揺るぎなく絶対的に強迫的で、悪口は、否応なくセイコを蔑まれるべき存在として定義し、見下す。

マジカルミュージックがどんな世界を見せてくれたとしても、それが止まれば、現実が「私」を取り囲み、「私の世界」をなかったことにするような、悪口が聞こえて来る。
この曲は、一度、音楽を止めることで、再び、「私」をマジカルミュージックの世界から現実の世界へと引き戻すのだ。
「マジカルミュージック」がどんなに「マジカル」であろうとも魔法のようにあっという間に現実を変えてくれるわけではないし、「マジカルミュージック」を聞く(あるいは作る)「私」はあくまでも、現実的な社会を生きていてそこからは逃れられない。

そして、再び、

①脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能
 ダサいダンス ダウンロード
 って言ったら負けのマジカルミュージック


という歌が始まる。

「社会的」な出来事からマジカルミュージックを引き離し、「私」の世界を確保してくれそうなものとして歌い上げた後に、もう一度、社会的な出来事の羅列に舞い戻る。
こうした展開が示唆しているのは、「マジカルミュージック」がどんなにマジカルであろうとも、社会の一部であることからは逃れられない。という圧倒的な現実ではないだろうか。

「マジカルミュージック」を止めれば「マジカル」は冷めるし、「マジカルミュージック」も所詮は「脱法ハーブ 握手会…」といった社会の中で生まれ、歌われるものである。
そもそも、「脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能 ダサいダンス ダウンロード って言ったら負けのマジカルミュージック」という歌詞自体が、すでに「脱法ハーブ 握手会……」と言ってしまっているのであり、ある意味、この歌詞はすでに「負けて」しまっている。
「って言ったら負け」という思いがあったとしても、「マジカルミュージック」は「脱法ハーブ 握手会 風営法」といった現実と全く無関係でいられるわけではなく、常にそれらへの関わりは意識されざるを得ないのだ。

このように、この曲は、「マジカルミュージック」の、社会や現実から切り離されたような「マジカル」性を歌いつつも、それを否定する。そんな肯定と否定のあいまった構造をしている。


■「音楽≠魔法」を導くために

「マジカル」を歌った後にそれを否定する。という構造は、この曲の二番において顕著である。

⑤ドキドキしたいドキドキしたい
 赤い実はじけたいはじけらんないよ
 そこでどうですかマジカルミュージック
 邦楽洋楽夢のよう
 YO!YO!
 んなわけあるわけねーだろ 音楽は魔法ではない


こ の歌詞は、前半で「マジカルミュージック」が「赤い実をはじけさせて」くれるような夢のようなものであるかもしれない……という期待を持たせた後に、「ん なわけあるわけねーだろう」とそれを否定する。そんな、「マジカルミュージック」を持ち上げて、落とす、というような行為を行っている。

しかも、この「音楽は魔法ではない」という歌詞は幾度も幾度も繰り返される。
聞き手の頭に刷り込むかのように、この曲は「音楽は魔法ではない」とひたすら繰り返し続けるのだ。

しかし、おそらく、ここで重要なのは、この歌詞が、単純に「音楽の魔法性」を否定しているのでもないということだ。
というのも、音楽と魔法を=で結び付けた上でなければ、その=を切断することはできない。
すなわち、音楽と魔法が最初からまったく関係がなく、バラバラに存在しているのであれば、別に、わざわざ「音楽は魔法ではない」と否定する必要はない。

「音楽は魔法ではない」という歌詞は、この歌詞の前に、音楽と魔法を関係付ける誰か(私?)が存在していたことを示唆している。
「音楽は魔法ではない」という歌詞は、 (実現は不可能でも)「音楽が魔法であるようない世界」がどこかにあるのかもしれないことを想起させるのである。
そして、そうした前提は、「音楽は魔法ではない」という言葉が幾度も繰り返されれば繰り返されるほど、聞き手の頭の中に顕在化することになる。
「音楽は魔法ではない」と繰り返されるほど、その裏側にある「音楽が魔法であるかもしれない」世界の存在が膨れ上がり、だからこそ、それを振り切るようにして「音楽は魔法ではない」と更に繰り返さなければならない。

『音が捨てよ、そして音楽へ』は、音楽を魔法に近づけては遠ざけ、遠ざけながらもジリジリと魔法に近づいて行くような、音楽と魔法の接近戦みたいなものを繰り広げている。


「音楽は魔法ではない」何度も繰り返される歌詞をバックに、この曲は以下のように歌う。

⑥ノスタルジーに中指たてて
 ファンタジーをはじめただけさ
 全力でやって5年かかったし
 やっとはじまったとこなんだ


この歌詞は、「ノスタルジー」に「ファンタジーをはじめ」ることを対比させている。
ここから推測できるのは、ファンタジーは自分で「はじめる」ものであるということ。そして、それは全力でやって5年もかかるほど容易にはじめることができる類のものではないということだ。
それは「ノスタルジー」があらかじめ用意された、揺るぎなく安寧な世界であるのとは対照的だ。「ファンタジー」は、あらかじめ用意されているものではなく、(自分で)はじめ、続けて行くものである。

「ファンタジー」は魔法のように一瞬で世界を変えてくれるものではない。
現実の世界を生きる私の中からからぶくぶくと浮かび上がる自分の「面白いこと」や「本当のこと」を、それを浮かび上がらせる「現実」ごとかき集めて、じりじりと時間をかけて、全力で構築していくものなのではないか。

この曲が恐れているのは、「懐かしい」ノスタルジーの世界のような揺るぎなく安定した世界に安住し、変化することを放棄し、その場に留まり続けることなのではないかと思う。
「音楽が魔法ではない」……この曲が、音楽の魔法を膨らませながらも、そこから遠ざかり、音楽を現実の中に位置づけようとし続けるのは、音楽の魔法を頭から、疑いなく信じ込むことが、人々を音楽への安住へ導くからではないだろうか。

■音楽は……→?


この曲は、「音楽は魔法ではない」と何度も繰り返した後に、「でも音楽は」と二度呟く。

この歌詞は二つの解釈が可能であるように思う。
一つ目は、「音楽は魔法ではない」に対する反駁である。
この曲は、「音楽の魔法」を否定しながらも、「ファンタジー」をはじめることについて歌っている。「魔法」と「ファンタジー」が近接的な関係にあるとすれば、この曲は、決して音楽の魔法を使うことを諦めているのではなく、むしろ、必死にそれに近づこうとしている。
ただ、この曲にとって魔法は「使う」ものなのであり、魔法にかけられて、誰かが用意したファンタジーに安寧することは否定しようとしている。
だから、この曲において、音楽の魔法は否定されると同時に肯定もされなければならない。
この「でも音楽は」は、「音楽は魔法ではない」ばかりではないという、否定の先にこそ生まれる音楽の魔法への肯定を示唆しているように見える。

しかし、この歌詞は同時に、「音楽の魔法」を「現実」へと引き戻す、あるいは結びつけようとする歌詞でもあるのではない。
というのも、この「でも音楽は」がこの曲の最後の歌詞ではない。
この曲は、もう一度、

①脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能
 ダサいダンス ダウンロード
 って言ったら負けのマジカルミュージック


と繰り返して終わる。
単純に考えると、「でも音楽は 脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能」と続く文章としても捉えることもできる。
そのようにとらえずとも、この曲は、最後にもう一度、「音楽と魔法」の語りから、「脱法ハーブ 握手会……」といった、音楽を巡る様々な社会的な状況へと歌詞を切り開いて終わるのだと言えよう。

この曲における「ファンタジー」や「魔法」は、ただ、現実から切り離された、非現実的なものであるのではない。
それは、社会や現実から切り離された場所で、絶対的に安寧な、夢のような場所として存在しているのではなく、社会や現実の中に生きる人が、そうした現実の中ではじめようとするものなのだ。
ファンタジーは現実から自分を切り離すためにではなく、むしろ、その中に「私の世界」をねじり込ませるためにこそ、生み出されるものなのではないか。

この曲は①の歌詞を、歌い出し、歌の中盤、そして歌の最後と、合計三回歌っている。
マジカルミュージックと「脱法ハーブ 握手会……」のような、音楽をめぐる社会との駆け引きを歌うこの歌詞は、この曲を始め、続け、終わらせるのであり、この曲を駆動させるための重要な歌詞である。
そしてまた、この歌詞が最初と最後にあるがために、この歌詞は、社会と音楽とのその駆け引きが延々と反復される、無限ループであるかのようにも錯覚させる。

『音楽を捨てよ、音楽へ』

このタイトルが示唆しているように、手にした「音楽」を捨て、もう一度、「音楽」へ向かい、それを手に入れたら、また、捨て……そうした、音楽に安住しないような、関係性。
それが、この曲の世界の中にある、音楽と人との関係性であり、音楽に対して人が持つべき態度なのではないだろうか。

※タイトルの"不気味な泡"は、上遠野浩平ブギーポップシリーズから。





■あとがき

大森さんって割と、「僕は自動的なんだよ」みたいな、自分を表現するために歌っているというよりは、時代の要請にこたえて出現しました、みたいなところがある気がして、タイトルをブギーポップからとってみました。

「音楽を捨てよ、そして音楽へ」って、大森さんを語る上ですごい重要視されている曲だと思います。
特に、「脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能 ダサいダンス ダウンロード って言ったら負けのマジカルミュージック」は大森さんの紹介をするときによく引用されているかと思う。
これも最近よく言われてることですが、「脱法ハーブ 握手会 風営法 放射能」って、全部、むしろ、この2014年にこそ問題化しているタームですよね。
そういう単語を2013年の時点でバンっと並べられる大森さんの感性は、やっぱり、とても鋭いんだと思います。
吉田豪さんが、この歌詞を「刺しに来てる」と評してらっしゃって(→このインタビューです)、確かに、と思いました。

「刺しに来てる」のは、「脱法ハーブ」だけじゃなくて、「下剤を飲んで」から「なかったことにされちゃうよ」あたりもそうなんじゃないかなあ。
ここに書かれてる歌詞って、ある意味では、1990年代以降あるあるというか、よく、ニュースとかで言説化されているものだと思うんですよね。ニュースに限らず、小説や歌にもこういう友人関係をテーマにしたものは少なくない。
なので、この辺りの歌詞、個人的には既視感がありました。
た ぶん、敢えてそういうものを並べてるんじゃないかな、という気がするし、たぶん、「言説化」自体が、「面白いこと」や「普通のこと」をなかったことにする ものであると思うので、大森さんは敢えてそれをもう一度大森語で言葉にすることで、聞き手の心に歌詞を刺しに来てるんじゃないかという気がする。


■一緒に聞きたいハロプロ

ファンタジーつながりで……。

"Fantasyが始まる"




さゆ……道重さんがメインの曲なので、大森さんがハロショのイベントでも歌ってましたね。
『ミッドナイト清純異性交遊』の「ワンルームファンタジー」も、もしかしたらこの曲と関係あるのかもしれません。

まったくもって、音楽については歌った曲ではないので、『音楽を捨てよ、そして音楽へ』とは似ていないんですが、
「かぼちゃの馬車を正面に回して」とか「ガラスの靴はこの手の中にある」のあたり、ファンタジーを自分のものにしようとしているところは通じるところがあるかもしれない。

 

※この記事は、http://n1watooor1.exblog.jp/にて2014/7/27に公開したものです。

 

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