ニワノトリ

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わすれえぬひとびと・新宿編:大森靖子「新宿」@『魔法が使えないなら死にたい』の感想

※『魔法が使えないなら死にたい』の感想を一曲ずつ書いていっています。→ 魔法が使えないなら死にたい - ニワノトリ
※『絶対少女』の感想企画もやりました。→ 絶対少女 - ニワノトリ

 

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大森靖子のアルバム『魔法が使えないなら死にたい』感想企画。
今回は、このアルバムの三曲目、『新宿』の感想を書きたいと思います。
 
 
 
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1.Googleストリートビューではポケットティッシュはもらえない
 
街 を歩いている時、唐突に押しつけられるポケットティッシュは、その街に溢れる欲望の一端だ。英語しゃべれるようになりたくないですか? かわいい女の子に 会いたくないですか? 即日でお金欲しくないですか? ポケットティッシュは、ポケットティッシュそのものではなく、ポケットの裏に挟んである欲望を配っ ている。その欲望が受け取った人に乗り移り、その人が思わず、そこに書いてある電話番号に電話してしまうことを願って。今日もどこかで大量のポケット ティッシュが配られる。
 
しかし、新宿で配られたそのポケットティッシュは、ある女のコの手に渡った 瞬間、いきなり「(このティッシュは)私のおまもり」とか言われて、存在意義が大幅に変わってしまったのだった。ティッシュは使い捨てられること前提だか ら、より多くの人の手に届くのに。ひとところに留まるために生まれてきたのではないので、長い間、「おまもり」として懐で暖められても何か困るのだ。その 女のコは盛大にポケットティッシュの取り扱いを間違えている。
 
なぜ、ポケットティッシュを「おまもり」だとか言いだしたのか。
 
その女のコは『新宿』という曲の中でこう歌っている。
 
 女のコだけもらえるポケットティッシュ
 私のおまもり
 汚れてもいいの
 
なるほど、その子にとっては、「女のコだけもらえる」というところがポイントだったらしい。
だから、ポケットティッシュをおまもりにしたらしい。
 
……って、え、なんで? 
 
** *
 
その理由を想像しはじめると、とても長い話になりそうである。
まず、こういう仮説を立ててみたい。
 
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仮説1:ポケットティッシュは私を新宿の風景にする
 
「ポ ケットティッシュ」を「もらう」という行為は、「私」を対象化する。すなわち、ポケットティッシュをもらうとき、私は誰かに「ポケットティッシュを渡す」 対象として見なされている。「私」は新宿をあるく大勢の人の中から、「ポケットティッシュをあげるべき女のコ」として発見され、対象化されたのだ。
このとき、「私」は「私」である前に、「ポケットティッシュをあげるべき/あげるに値する女のコ」である。まず、最初に、新宿の街の中に、「女のコにポケットティッシュをあげる」という行為が存在していたからこそ、その対象として私が浮かび上がったのである。
「ポケットティッシュ」をもらうという行為は、私を「ポケットティッシュをあげるべき女のコ」としてカテゴライズする。
「新宿」という街は、そこを歩く私を「私」をカテゴライズし、「新宿」という街の中に「ポケットティッシュをあげるべき女のコ」として位置づける。
ポケットティッシュという欲望の手が「私」に伸びて、「私」がそのポケットティッシュを受け取る時、「私」は「新宿」の一部になり、「私」は「新宿」の風景になる。
 
***
 
「ポケットティッシュは「私」を「新宿」の風景にする」
とかいわれても、それは、全然、「ポケットティッシュがおまもりと呼ばれる」理由ではない。
「ティッシュ=おまもり」であることが成立するには、もっとティッシュとおまもりの距離を縮めないといけない。
それを埋めるために、もう一つ仮説を立てたい。
 
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仮説2:「新宿」は、「私」を更地にする固有名である。
 
ここで、『新宿』という曲の、違う言葉も引用してみよう。
 
 あの街をあるく
 才能がなかったから
 私 新宿が好き
 汚れてもいいの
 
ここで、「私」は「新宿」と「あの街」を対照させている。
確かに、「新宿」と「あの街」はとても性質の異なっている場所だ。
「新宿」は一つしかない。「新宿」と聞いた時、イメージは違ったとしても、どんな人でも大抵は同じ場所を思い浮かべるだろう。日本の都心中の都心に坐している、あの「新宿」という街を。
し かし、「あの街」はどうだろうか。「あの街」という言葉は、さまざまな街をイメージさせるに違いない。そのイメージは、聞き手によって異なるだろう。「あ の街をあるく才能がなかった」という言葉を聞いて、「あの街」に自分の故郷を重ねる人がいるかもしれない。一度だけ通り過ぎたことのある街を思い出す人が いるかもしれない。もっと抽象的な、映画何かに出て来るような街をぼんやりと想像する人もいるかもしれない。「新宿」は一つだが、「あの街」は聞き手の数 だけ、無数に存在する。
こうした差異が生まれるのは、「新宿」が具体的な一つの街を差す固有名詞であるのに対し、「街」が一般名詞であるからだ。
「あの街」という言葉は、「あの」という指示詞+「街」という一般名詞の組み合わせでできている。「あの」は指示詞であるので、その言葉を使う人が対象を指し示さなければならない。
「あ の街」という時、そこには「あの」街をほかの街とは区別する、「私」の何らかの思いや記憶が働いている。それは故郷へのノスタルジーかもしれないし、一回 通り過ぎただけの街に対する嫌悪かもしれない。その思いや経験の中身がどうであれ、「あの街」は、私と「街」との何らかの関係性の上に存在している。私が いてもいなくても「新宿」という街は昼夜日本に存在しているが、「あの街」は「私」がいなくなれば、それがどこかは分からなくなってしまうし、私の「あの 街」に対する思いや記憶が消えれば、「あの街」も消えてしまう。
「新宿」がポケットティッシュを通して新宿の「私」を位置づけていたのとは逆に、「あの街」は、「私」が「あの街」を「私」の中に位置付けなければならない。
「あの街を歩く才能がなかった」とは、そうした、「あの街」で起きた様々な出来事と、「私」との間の距離感を、上手く取れなかったということなのかもしれない。
 
「新宿」で配られる「ポケットティッシュ」は、そうした「私」の記憶や、「あの街」を生きたり歩いたりした歴史を更地にするだろう。
ポ ケットティッシュは、「私」が「私」だから配られるのではなく、「私」が「配られるべき対象」としてカテゴライズされるから配られる。「新宿」では、 「私」は、「私」をめぐる様々な記憶や思いを全て「あの街」に置き去りにして、そんなものとは全く関係ない、単なる「女のコ」として道を歩くことができ る。
 
***
 
「新宿」には、無数の欲望が存在 していて、街の中を歩くだけで、その欲望はポケットティッシュとして、看板として、雑誌として、私の目の前に現れ、お前はこの欲望はいらないのかと問いか けて来る。「新宿」を歩くとき、「私」は否応なく、無数に陳列された欲望の前に晒される。
しかし、そのうちの一つとコネクトした時、私は「新宿」によって「女のコ」としてカテゴライズされ、新宿の一部になる。その時、「あの街」をあるいていたころの「私」は更地になり、「私」は「新宿を歩く女のコ」として生まれ変わるのだ。
 
「私」にとって、「ポケットティッシュ」は「新宿を歩く女のコ」という生まれ変わりを証明し、「あの街」から「私」を遠ざける……「私」と「あの街」との距離を保ち、「私」と「新宿」との繋がりを証明する、「おまもり」なのではないか。
「新宿」は「ポケットティッシュ」を通して、「新宿」の中に「私」を位置づける。きっとポケットティッシュとは、新宿の一部として街の中を歩き回るためのおまもりであり、切符のようなものなのだ。
 
 
2.ポケットティッシュのような恋をしよう
 
そのコは、ポケットティッシュの取り扱いも盛大に間違っていたけれど、愛の取り扱い方も盛大に間違っていた。
そのコいわく、
 
 あの愛にうずくまる才能がなかったから
 私 あなたが好き
 誰でもいいの
 
このコは、誰に上げてもいいようなポケットティッシュに「おまもり」という唯一性を与えるくせに、「愛」とか「好き」とかいう、特別な感情を「誰でもいいの」扱いする。
一般的に、「あなたが好き」と言われたら、「あなた」という、ほかには置き換えられない一人の人を好きなのかと思う。けれど、その言葉の後に、「誰でもいいの」とその大前提を覆されたものだから、「好き」という言葉が行き場を失ってオロオロしている姿が目に見えるようだ。
なんで、このコはこんな取り違いばかりするんだろう。
 
***
 
馬鹿でも天然でもなく、「私」はわざと、敢えて、取り違えようとしているのだと思う。それについても理由を想像すると長くなりそうだ。
ここでも、一つ、仮説を立ててみたい。
 
***
 
仮説3:愛とはポケットティッシュのようなものである
 
 
 私 あなたが好き
 誰でもいいの
 
とは、とてもティッシュ配りに似ている。
街 でポケットティッシュが配られるとき、ポケットティッシュが手渡されるその時にだけ、ティッシュを配る側と配られる側の間に関係性が生まれる。それは、1 秒にも満たない、瞬間的な関係だ。ティッシュを受け取り終えれば、その人はそのままどこかに消えてしまうし、ティッシュを配る人は、新しいティッシュを取 出し、ほかの人にティッシュを手渡そうとする。
しかし、ティッシュを渡し、それが受け取られたその瞬間、確かに二人の間には、 「ティッシュを受け取ってほしい」「うんいいよ」という相互的な関係が成り立っていたのだ。確かにティッシュを配る相手は誰でもいいのかもしれない。しか し、あなたが受け取るその瞬間だけは、ティッシュを受け取る相手は「あなた」でなければならなかった。
ティッシュ配りは、「誰でもいい→あなたがいい→誰でもいい」の繰り返しで成り立っている。
新 宿のティッシュ配りにおいて、大切なのは、相手が誰であるかより、相手がティッシュを受け取ってくれるか否か、それだけだ。ティッシュ配りは、いい大学出 身の男にティッシュを渡した直後に、それと同じように、生活保護の女にティッシュを差し出すだろう。ティッシュ配りに、相手が「誰」かは関係ない。
 
 私 あなたが好き
 誰でもいいの
 
とは、「相手」が「誰」であるか関係なく配られる、そんなポケットティッシュ的な「愛」の形なのではないか。
 
***
 
しかし、この仮説は、「私 あなたが好き 誰でもいいの」という歌詞がうたっている何かについては想像していても、なぜ、「敢えて」そんな歌詞を歌うのか、それを歌うことで何が起きるのか。については全然考えてない。
 
そこで、またしても、もう一つ、仮説を立ててみたいと思う。
 
***
 
仮説4:「私」はポケットティッシュみたいになりたい(のかもしれない)
 
 
 私 あなたが好き
 誰でもいいの
 
こう歌われるとき、「誰でもいい」のは「あなた」だけなのだろうか? 
 
「誰でもいい」という言葉によってないがしろにされているのは、「あなた」の唯一性だけでなく、「あなたが好き」という「私」の気持ちでもある。
このコはこんなことも言っている。
 
 もしも いつか
 子供がうまれても
 ギターのほうがかわいいんだもの。
 
ここで対比されているのは、「子供」と「ギター」である。
「私」の生んだ「子供」と「私」の間には、「母子」という強い結びつきがある。「子供」の「母」は「私」でしかありえないし、私は「子供」にとって「母」でしかありえない。
しかし、ここでも「子供」と「私」のような、唯一無二の関係性は、「ギターのほうがかわいいんだもの」という歌詞によって即座に覆されてしまう。
「私」は音楽を生み出すが、生み出された音楽にとって、「私」は何者でもない。音楽は「私」の手を離れて、聞き手の心の一部になり、ダンスフロアの一部になり、色々なところへ飛んで行く。飛んでいった音楽は、もう、「私」のものではない。他の「誰か」のものだ。
 
ここで覆されるのは、「私」の「子供」だけではなくて、「子供」の母としての「私」でもあり、「私」と「子供」の間にある唯一無二の関係性でもある。
 
「あなた」や「子供」、あるいは「あの街」。
「私」はつぶさに、「私」にとって何かの意味を持つ、強い関係性を覆す。
それは関係性の「否定」というよりは、「誰でもいい」や「ギターのほうがかわいい」への置き換えに近い。
私は、ただ、「関係性」そのものを拒否するのではなく、もっと、多くの人へ、もっと多くの場所へ、私を関係づけようとする。
「誰でもいい」「ギターのほうがいい」そうした歌詞は、ひとところに強く結び付けられ、うずくまる「私」を他の場所へ向けて引きはがすのだ。
 
この曲を通して、「私」は「あの街」から、「あなた」から、いつか生まれる「子供」から、離れようとする。
「あの街」を「あの街」にする「私」を、「あなた」を「あなた」にする「私」を、「子供」を「子供」にする「私」の唯一性を裏切り、「私」をただの「ポケットティッシュをもらう女のコ」にしようとする。
「私」は「私」をどこかひとところにうずくまらせるような特別な感情を「誰でもいい」と覆すために、ポケットティッシュを握りしめて「新宿」を歩く。
「私」は、気軽に人に渡されて、そのままどこかへ連れてゆかれる、ポケットティッシュのような愛に手を伸ばそうとしている。
 
「愛」とは、そんなに重いものではないのだ。
 
***
 
最初から「誰でもいい」わけではない。
「私」に「誰でもいいの」と歌わせるために、『新宿』という曲が生まれ、歌われているのではないか。
「私」を誰でもよくするために、「あなた」をどうでもよくするために、「私」は新宿の街を歩き、新宿の街に晒されている。
 
***
 
しかし、どんなに仮説を立てたって、『新宿』という曲は、最初から得体がしれない。
 
 みんなのうたは だれのうた?
 B.L.Tみたいな
 CanCamみたいな
 ジャンプ spring smartなうた
 
CanCam系でもなく、ジャンプを読む腐女子でもなく。
美容院でもないのに、雑多に雑誌が列挙される。しかも、形容詞として。
 
巷にあふれるモノというモノを全部形容詞にして頭にくっつけて始まる、きゃりーぱみゅぱみゅみたいなうた。
『新宿』においては、モノも人も関係ない。アクセサリーのように全ての欲望をぶら下げて、今日も、新宿ではポケットティッシュが配られている。
 


 
■あとがき
 
インタビュー記事とかTwitterとかブログとか見る限り、東京の人は、この曲を聞いて「これだ!」「これが新宿だ!」感があるみたいなんですが、私にはないです。
地方在住なので東京と新宿の見分けもつきません。新宿を知らないまま、『新宿』の感想文を書きました。よそ者気分で、新宿ってどういう場所なんだろうと思いながら書きました。今度、歩きに行って来たいと思います。そしたら、この曲の感想も変わるのかもしれません。
 
タイトルは国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』から……そして、この「小説」を評論した柄谷行人の『日本近代文学の起源』から!! 
 
 
■一緒に聞きたいハロプロ
 
■……の前に、一緒に聞きたい大森さんの曲。
 
を載せたかったんだけど、つべには公式の動画があがってなかったので断念しました。
貼りたかったのは『絶対少女』に収録されている『少女3号』です。 → 歌詞はこちら
ついでに私の感想文はこれ です。
「あなたがいればそこは東京 悪い街でもいい」「私の名前もさらってくれるの」など、『新宿』に似たモチーフ(?)が使われながらも、『新宿』とは全然手触りの違う曲です。
正直、私個人にとっては新宿も東京も似たようなもんなんですが、東京っていろんな顔を持ってるんだなあ、と思います。
『絶対少女』を買えば聞けることは間違いないので、買ってみよう。
 
代わりに、『新宿』の動画をもう一個貼る。
 
 
 
この曲でこの呑気さというこのちぐはぐ感が好きです。
 
 
■一緒に聞きたいハロプロ
 
 
 
街を歩いている曲です。『新宿』は昼間歩いてる感じがしますが、この曲は夜歩いてます。
Take off is now! なので、テイクオフしているわけですが、これまでにあったものを断ち切って飛び立とうとしているところは少し『新宿』に似てなくもない。
『新宿』はこの曲ほどに突き抜けて飛び立っちゃってる感じはしないですが。
個人的には、何かを手放すときに、とことん突き抜けてしまうのがつんくさんで、突き抜けさせろよおおおおおおおと静かに暴れているのが大森さん。というイメージ。
 
 
※この記事は、20148/4に http://n1watooor1.exblog.jp/ にて公開したものです。
 
 

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