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向き合えなかった……/大森靖子「あまい」@『絶対少女』の感想

大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ

 

 

今回は四曲目の『あまい』の感想です。

 

***

 

大森靖子さんの「あまい」。
ジャンルに分けるなら、ラブソング?になるのだろうか。




この曲は『絶対少女』の四曲目だけれど、これまでの「絶対彼女」「ミッドナイト清純異性交遊」「エンドレスダンス」に比べると、かなり内側に閉じている曲だと思う。
これまで、私は、三曲それぞれについて、「この歌詞はこんなイメージ」とか「この部分の歌詞が好き」とか、私のものさしで勝手にこの曲を測ってきたけど、この曲についてはどうもそれができなさそうだった。

  いい感じの ゲリラ豪雨
  月経周期 基礎体温
  全部知ってる大きな愛を
  今日は誰にも邪魔させないのだ


ゲリラ豪雨の「いい感じ」加減や「月経周期」や「基礎体温」まで知っているような愛に、私という第三者が入り込む余地がまったくなかったからかもしれない。

この曲の最後の一節は

  わたしだけ あなただけ 知ってるきせつ

じゃあ、私にはそのきせつのことは分からないんだろう、と、思いながら聞き終えた。
別に、この曲で歌われている「わたしだけ あなただけ 知ってるきせつ」を聞き手である「私」が知る必要はなくて、そういう感覚ってあるよね、と自分の身近な例を思い浮かべながら共感してみればいいのかもしれない。
でも、この曲は、

  誰にもわかってほしくないから
  日記にかかない幸せ


って歌っている。
この曲は恐らく、他の誰にも簡単に共感されえない感覚や瞬間を切り取ろうとしている曲だ。
だから、この曲で歌われているような情景や感覚を自分の状況に照らし合わせて、そのまま自分にスライドさせるのも、ちょっと気が引けるなあと思いながら曲を聞いていた。

この曲の世界にはなかなか立ち入れない。だから、この曲は「あまい」というタイトルだけど、私にとっては、むしろ苦い。
「わたしだけ あなただけ 知っているきせつ」は二人の世界においては甘くても、そうした、二人にしか分からない「きせつ」が滲み出した歌を聞く聞き手として私にとっては苦くて、この世界を嚥下するのはなかなか難しい。
そうした苦さが「わたしだけ あなただけ 知ってるきせつ」に誰も立ち入らせないのかな、という気がする。
もしかしたら、私が今、「あまい」ラブソングに見合うような状況を手にしていたら、こんなに頭で考えないで、もっと感性で共感してボロボロ泣いていたのかもしれないけど。


こ の曲がえらいな、と思ったのは、抽象的な言葉ばかり並べて、「わたしだけ あなただけ知ってるきせつ」を、敢えて誰にも分からないように表現しているので はなくて、その「きせつ」がどんな愛によってできているのか、その「きせつ」を「わたし」はどうして行きたいのか、きちんと歌にしたうえで、その「きせ つ」を「ふたり」しか知らないことを歌っているところだ。
これはプロの「歌」なんだから何かが相手に伝わるように歌うのは当たり前なのかもしれな いけど。それこそ、FacbookとかTwitterには、きっと、この人は何かを伝えたいんだろうけど、同時に、その「何か」は自分にしか分からないも のだと思っているから誰にも伝わってほしくもなくて、だから、人に分からないように抽象的な言葉で呟いたんだろうな、みたいな呟きがたくさんあるから(わ たしもやるけど)。
「伝わる」ように言葉にしたうえで、「今日は誰にも邪魔させないのだ」「わたしだけ あなただけ 知ってるきせつ」と宣言するこの曲は、「ああ、そりゃあわからないよね」と聞き手に納得させてくれる。
この曲は、自分の言葉に責任を持とうとしているんだと思うと、とても苦い曲ではあるけど、すごく好感を持ったし、嫌いにはなれなかった。




  誰にもわかってほしくないから
  日記にかかない幸せ



この歌詞は、インターネットとかTwitterとかLineとか一言も言ってないのに、この二行だけで、
日記は公開するもの・心情は呟くもの・それらには須らくいいね!ボタンがついているもの。
というSNS時代の感性を端的に拾い上げて、表現している。
このセンスはさすが、表現で物を食ってる人だと思った。

私が社会学者か何かだったら、この歌詞を取り出しながら、SNSというものが、いかにして、「誰にも知られたくない」プライベートを記す「日記」たるものの役割を変えたのか、論じ始めていたかもしれない。

あざとく見えてしまうほどに、端的に「時代」や「世代」を表象してしまっているフレーズは、この「誰にもわかってほしくないから 日記にかかないしあわせ」だけではなくて、

  今を生きるなんてもう古いでしょ
  なるべくずっとこうしていようよ


なんかもそうだと思う。その後に続く、
 
  終わりだけゆめみてた ふたりだけれど
 
  超不安だから超食べちゃう
  太っていいよとか言わせちゃう
  ちゃらんぽらんだった君のほうが
  ちゃんとしちゃうくらい甘えちゃう


も含めて、これらの歌詞は、2010年代の感性に1990年代の感性が「古いよ」と斬られているようで、90年代に10代を過ごした者としては耳が痛かった。
「今を生きる」、「誰にも甘えられない私」、というのは、90年代~00年代くらいに、よく歌われていた歌詞だと思う。
「情報社会の波にのまれて、何が本当かも分からないけれど、そんな今を生きてる俺」みたいな。
「「本当の自分」に仮面を被せて誰にも本音を言えないままに、アスファルトの街で本当の愛を探してる僕」
みたいな。
当時は、本当の自分探したり、本当の愛を探したり、見えない明日を探したり、今を生きたり、なかなか忙しかったけど、2010年代ともなると、それはもう古いと。
この曲の歌詞はあるかどうかも分からない何かを探して、ゆめばっかり見てるよりも、あなたと一緒にいるという空間が続くことを大切にしている。
「今を生きるなんてもう古いでしょ」という歌詞には、勝手に明日を見失って不安に震えてしまう感性に向かって、「なるべくずっとこうしてい」られる相手がいるのに、何を一人で明日を見失っているのかと突っ込まれているような気になるし、
「超不安だから超食べちゃう 太っていいよとか言わせちゃう」あたりの歌詞には、甘えられないことが甘えだよね、と言われているような錯覚にすら陥る。

しかし、もしかしたら、この曲の「今を生きるなんてもうダサいでしょ」という毒は、いつまでも「どこか」や「何か」ばかり探して、具体的なところへ羽ばたいて行けない90年代の感性に、ようやく終止符を打ってくれるものでもあるのかもしれない。

 

※この記事は http://n1watooor1.exblog.jp にて、2014/5/5に公開したものです。

 

 

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