ニワノトリ

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触れてはいけない……ことはない/大森靖子「PS」@『絶対少女』の感想

大森靖子『絶対少女』の感想を一曲ずつ書いて行っています。 → 絶対少女 - ニワノトリ

 

今回は8曲目、『PS』の感想を書こうと思います。





*****


■「好き」を歌う曲――「あまい」「少女3号」との違いと、勝手な心配

『絶対少女』の8曲目、「PS」。
「少女3号」を聞いた時にも思ったのだけれど、このアルバムの冒頭、「絶対少女」や「ミッドナイト清純異性交遊」で、社会に切り込む鋭い批評眼を見せつけてくれた大森靖子に、こんなに文学的な曲を歌われると、すこし戸惑ってしまう。
何か、見てはいけないものを見てしまったかのような気分になる。
端的に言うと、心配になる。
……余計なお世話かもしれない。


「婦rick裸にて」の感想のところで、このアルバムは「すき」と「きらい」が交互に並んでいる気がする、ということを書いたのだけれど、それに沿って考えるなら、この「PS」という曲は、「すき」の側にあると言えると思う。


3.エンドレスダンス(きらきらきらい)→ きらい
4.あまい (なるべくずっとこうしていようよ)→ すき
5.Over The Party(エッチだってしたのにふざけんな)→ きらい
6.少女3号(あなたがいればここは東京 悪い街でもいい)→ すき
7.婦rick裸にて→ きらい
8.PS→ すき

しかし、「あまい」も「少女3号」も、「PS」のように、「すき」という想いが歌に乗っている曲だと思うのだけれど、「あまい」や「少女3号」を聞いても「PS」を聞いた時ほどには心配にはならなかった。

「あ まい」には毒があった。「誰にもわかってほしくないから日記に書かない幸せ」「今を生きるなんてもうダサいでしょ」。この曲に出てくる「二人」は、ネット 上に日記や呟きが公開されまくり、「今を生きる」なんていう歌詞が(かつて)流行った社会の中に生きていて、この曲はそんな社会に対して「わかってほしく ない」「もうダサい」と冷めた眼差しを向けてみせる。
「少女3号」には、「あまい」ほど、目に見えるほどの毒はないけれど、少女は東京という 「街」の中に立っている。「少女3号」において、「東京」という街の風の中で築かれた「私」と「あなた」の関係は、「東京」に対する「私」の視線、「東 京」から「私」に注がれる視線を経由して歌われている。

しかし、「PS」はどうだろう。
はじめての駅、洗面所、銀色の車。
「私」(と「あなた」)の世界は、「私」と「あなた」の手の届くところにあるものばかりで構成され、匿名の街で、部屋の中に閉じこもった二人の世界は、内側に閉じられて、どんどん狭くなっていく。

世界が狭くなっていくこと自体についてはまったくもって心配などしていないのだけれど(むしろ、アーティストという人たちは狭い世界を「作品」として表現してなんぼなのかもしれない)、その狭くなり方が(私の)心配を誘う。
なぜなら、この曲に描き出される「狭くなって行く」過程は、多分に、文学的でありすぎるような気がするのだ。


大森靖子の文学的才能

  出会ったばかりなのに 抱きしめたそのわけを
  朝 洗面所鏡ごしに目があってきづいた

  今日こそはという毎日を
  君もかさねてきたんでしょ

  銀色の車で一人暮らしのゆううつを
  さらわれて私はくさってくばかり



駅、洗面所、銀色の車。
どこにでもあるような光景は、恋に落ちた瞬間に、「はじめての/駅」、「朝/洗面所」、「ゆううつをさらう/銀色の車」という情景に変わり、それまでとは違う意味を持ち始める。生活圏が、世界が、「私」と「君」だけの色に染められていく。
そんな恋の始まりの情景が描き出される中に、挿し込まれる「今日こそはという毎日を 君もかさねてきたんでしょ」というモノローグは、景色だけでなく、「私」の心の中にも、「君」という存在が浸みこんだのだということを、たった一言で表現している。

この数行で、朝の情景も、「私」と「君」の出会いも、「私」と「君」がそれぞれに歩んできた人生も、「君」と出会ったあとに「私」の訪れた変化も、まるっと描いてしまう、この歌詞には脱帽するしかない。
この短い歌詞には、女の子が恋に落ちるまでの物語が凝縮されている。
この曲を聞くと恋に落ちた瞬間の女の子の姿や心情がすっと心に馴染んで、「ああ、こうやって、女の子は恋に落ちるんだな」と、すとんと納得させられるのだ。

モノクロのフランス映画なのか、美術館に飾ってる絵画なのか、少女マンガなのか、BL小説なのか。
いかにも絵になるこの曲の歌詞は、言葉の選び方も並び方も、大森靖子の日本語の美しい部分が爆発していて、恋の情景を聞き手の頭の中に描き出す。小説家の仕事を見ている気分だ。

しかし、だからこそ、一歩間違えば誰にでも(馬鹿な男とか)侵入を許してしまうのではないかという感じがあって、(勝手に)心配になるのである。


■「情景」を描けることの問題

これまで『絶対少女』に収録されていた曲は、こんなに簡単に情景や心情を思い描かせてくれなかったと思う。
毒々しさ、鋭さ、誰もこの世界にいれるものかという頑なさ、なんでこんなところにこんな単語が出てくるんだという節操のなさ、など。
他の曲には、簡単には世界を覗かせてくれないような防波堤みたいなものが、常にどこかに用意されていたと思う。
この曲には一切そういう武器がなくて、一気に無防備になっている感じがする。

「PS」は「今日こそはという毎日を 君もかさねてきたんでしょ」という心の隙間を無防備に晒して、その情景を美しく描き出す。
しかし、これまでの曲は「ああ、こうやって女の子って落ちるんだね」みたいな、 “したり顔”を、巧みに跳ね除けようとしていたのではなかったのか。

「女 の子」の世界観というのは、どんなにその世界観を作るために頑張ったり傷ついていたりしていても、「あー、やっぱり女は女だね」という男的な世界観に捕 まったら、一気に今までの努力も、全部「やっぱり女」というところに集約されてしまうところがある。これまで、『絶対少女』というアルバムを聞きながら、 それぞれの曲の底に、「「やっぱり女」に捕まってたまるか」というようなキリキリとした思いが流れているような気がしていた。
だから、「PS」を聞いて、こんな男的想像力に捕まりかねない歌を歌って大丈夫なんだろうかと、不安になった(男的世界観って書いたけど別に、「やっぱり女」を運んでくるのは"男性"ばかりではない)。


■「瞬間」を引き延ばす――いらん心配であった可能性

……と思って聞いてたんだけど、この曲の解説を読んで、なるほどなあ、と思った。

「迷 い線のように感情が水滴となって窓を滑り落ちてゆく。じっと見つめていたら流れて消えてしまうのだけど、逃げてゆくものをあえて追わない馬鹿力みたいなも のが時に詩になる」とは、プロデューサーの直枝さんによる解説ですが、「逃げてゆくものをあえて追わない馬鹿力」というところに、目から鱗が落ちる思い だった。
この曲の歌詞に感じ取るべきは弱さや隙ではなく、「馬鹿力」なのだと。
きっと、私は、大森靖子ちゃんファンのようには、大森靖子という人の歌詞を直感的に理解することはできないんだろう、と痛感した。
「馬鹿力」とはなんだろう。分かる気がするけど、なんかまだよく分からない。
今のところは、下記のように思っている。


何かに耐えるように、じりじりとリズムと言葉が刻まれて行くこの曲。
この曲は、一種の「賭け」なのかもしれない。
洗面所ごしに目があった瞬間。
その時に生まれてくる「今日こそはという毎日を 君もかさねてきたんでしょ」というその「きづき」は瞬間的なものでしかなくて、今、この瞬間に生まれた感情が、関係が、出来事が、これからどっちに転ぶのか。どう変容していくのか。それは誰にも分からない。
しかし、それが時間と共に変化して行くこと、そして、それが、後々、何かを表すエピソードとして解釈され、位置づけ直されること(「今思うと、あの時、あいつに恋したと思うんだよねー」とか)は確実だ。

この曲は、「瞬間」そのものを描き出すことで、いつかは変質してしまうであろう「瞬間」をできるだけ引き延ばそうと、その瞬間がどこかに転ばないように、ぐいぐいと後ろに引っ張っている、そんな曲なのかもしれない。そして、それが「馬鹿力」なのかもしれない。
その「馬鹿力」がどこまで有効なのか、どこまで、誰まで、後ろに引っ張れるのかはきっと誰にも分からない。
この曲に描き出された情景が、どこまで、「瞬間」のままでいられるのか。
その後に訪れるであろう変化、その予想、後付けの理由、他者による解釈、などを侵入させず、「瞬間」をどこかに転がさせることなく、どこまで、「瞬間」として留めておけるのか。そのまま、どこまでいけるのか。
この曲はそんな「賭け」を、CDの作り手とCDの買い手の間で繰り広げているのかもしれない。と思う。

「私たちは若くて、馬鹿で、きっとすぐ忘れてしまうけど、わたしのふるさとだけは覚えていてね」

この曲の最後に流れるこの台詞。
私 は、「「瞬間」にあった情景や心情はそのまま保存されやしないけれど、そんな「瞬間」が確かにあったのだということだけは覚えておいてほしい」というよう に解釈することもできると思っている。この台詞についてもよく分からないんだけど(「覚えていてね」、とは「私たち」に向かって言っているのか、「ふるさ と」に向かって言っているのか?)、この曲の中で「わたしのふるさと」は、「変わらないもの」として、存在しているような気がする。


この曲、解説で大森さんが上記の台詞の最後に「さよなら!」をつけていて、それがすごくいいと思う。
「さよなら!」とは、情景をどちらに転がすのか、意味づけるのか、とかそういう行為ではなく、その情景と完全に袂を分かち、まったく違う世界に行くということを意味しているのだと思う。
この、いつまでも情景の美しさに拘泥するのではなく、「さよなら!」といえる力は重要だ。
あの時、あったはずの瞬間がなくなってしまったことをいつまでも憂い、呪い続けるのではなく、それを葬って、次の世界に旅立とうとすること。
それは、関係に区切りをつける勇気であり、その勇気があれば、きっと、女の子は「やっぱり女は女」というような視線を軽く踏み越えて、進んでいけるのだろうと思う。


この曲は、美しくて、瞬間的で、センチメンタルで、触ると壊れてしまいそうなほどに繊細に見えるけれど、だからこそ、強度がある。
『PS』は、二人の関係を美しいものとして歌にすることで、逆に、その関係に区切りをつけることができるような、そんな強さがある曲だと思う。
だから、別に心配する必要はあまりないのかもしれない。本当に余計なお世話だった。

 

※この記事は、http://n1watooor1.exblog.jp/ にて、2014/5/29に公開したものです。

 

 

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