ニワノトリ

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「行方」は誰のものでもない/松居大悟監督『アズミ・ハルコは行方不明』(2016)の感想

2016年、12月に公開された『アズミ・ハルコは行方不明』(松居大悟監督)の感想文です。

見終わった勢いで、パンフレットも解説も何も見ずに、また、原作も読まずにだーっと書いてしまっています。以下、すべて個人の感想・解釈です。

 

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『アズミ・ハルコは行方不明』という映画を見た。
あまりにも心が震える映画だったのに、あまりにも観客席がガラガラだった。それが悲しかった。もっと多くの人にアズミ・ハルコの行方不明を見届けて欲しいと思った。
映画を見終わった後、あれもこれもと押し合いへし合い湧き上がってくる感情をなかなか言葉にできず、それでも多少なりとも映画情報の拡散をしたくて、無理やり呟いた。

 

 

「アズミ・ハルコは確かに行方不明だった」って、タイトルそのままやないか!

 

しかし、それくらい、タイトル通りの映画だった。

『アズミ・ハルコは行方不明』

このタイトルがこの映画の全てだ。
そして、このタイトルは、同時に、この映画の祈りでもある。

“アズミ・ハルコが行方不明でありますように。”

この映画を見て、彼女の行方不明に思いを馳せることは、この世の全てのアズミ・ハルコのために祈ることになる。だから、私は、もっと多くの人にこの映画を見てもらいたいと思ったのだ。

 

祈りってなんだよ。
特に映画を見ていない人にとっては、何を言っているのか分からないと思うのだが、ネタバレを避けたいので、詳しいことは言えない。

 

だけど、『アズミ・ハルコは行方不明』。このタイトルはとても秀逸で、このタイトルは、この映画の祈りだし、この映画の解説だし、この映画の回答でもあるのだと思う。


それってどういうこと? と気になった方は、今すぐ、劇場へレッツゴー!

 

……などと、訳の分からないことばかりを言っていても、きっと、あまり宣伝にはならないので、以下、若干のネタバレを含みつつ、感想文を書いてみます。見に行くべきか、行かないでおくべきか。迷っている方の参考になれば。

 

 

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<映画の概要>

『アズミ・ハルコは行方不明』。この映画には、二つの時間軸と、二つの時間軸を貫く一つの事件が存在します。

  • 一つは、春子が「行方不明」になる前。こちらは、27歳の安曇春子(蒼井優)が行方不明になる前の生活風景を中心に物語が進みます。
  • もう一つは、春子が行方不明になった後。
    これは、春子を探すポスターを元に作ったグラフィティアート(落書きともいう)を街中に拡散する20歳の若者たちの話で、愛菜(谷村美月)を中心に進みます。

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  • そして、この二つの時間軸を結びつけるように、最初から最後まで、テレビに流れ続けているニュースがあります。
    それは、「女子高生の集団が、無差別に男性を襲っている!」というもので、この映画では、制服を着た「女子高生」たちがバットをもって男をボコボコにしているシーンが何度も差し挟まれます。

 

春子の行方不明・愛菜たちの春子のアート拡散・男をボコる女子高生。
三つの出来事が、どのように結びついていくのか!? というのが、この映画のストーリーの見所の一つです。

(このような、時間軸のバラバラな三つの出来事を、どのように映画の中にまとめて行くのか、その手法にも注目です)

 

<アラサー・地方都市・実家暮らしのリアリティと、非リアリティ>

トーリー以上に見ごたえがあるのは、映画の場面、一つひとつリアリティです。

「はるちゃん、トイレットペーパー買って来て」
母親に頼まれて、部屋着のまま軽自動車に乗り、近所のドラッグストアにトイレットペーパーを買いに行く。そのレジには高校の同級生が働いていて、「あ、安曇春子」と顔を指される。どこに行っても、地元に残った同級生が働いている。そんな地方都市に生きる春子の閉塞した日常は、軽自動車のにおいが伝わってくるほどにリアルです。

手取り13万円の会社ではいつも社長に「安曇さんは彼氏はいるの?」と聞かれ、昼休みに仕事のできる先輩(37歳・女性)とコンビニのパンをかじっていると、「早く結婚してこんな会社辞めちゃいな」とアドバイスされる。家には、認知症であろう祖母(父方)に、「そんな食べ方しないでください!」と怒鳴り続ける母がいる(父は何も言わない)。

そんなささくれた生活の中で、久々に会った同級生に、それが例え「コンドーム 代用」で検索をかけようとするクズ男でも(この検索ワードが秀逸すぎて笑った)、春子の心はときめいてしまう。

「面倒な女になりたくない」「だけど、私だって、誰かにこっちを見てほしい」
ささくれた生活の中に生まれる春子の心の隙間は、やはり、とても「リアル」なのです。

 

こんなにもリアルにアラサーの日常を描くこの映画は、しかし、30代の日常を描くことそのものを目的にしているのではないと思います。

何せ、安曇春子は、「行方不明」になるのですから。

その「リアル」な日常はある瞬間に、唐突に、終わりを迎えるのです。

 

また、先ほど触れた「女子高生暴行事件」。これも、この映画が描く、「日常」ではないものの一つです。

 

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「いえーい!」とピースサインを出しながら、バットを振り回すJKたち。その様は異様で、街には「若い男性の夜間の一人歩きは控えるように」と"異例の"警告が出されている。
春子は、その事件をニュースで見たり、その光景を「目撃」したりします。
そして、最初に書いた通り、この事件が27歳の春子と、20歳の愛菜。同じ街に住んではいるものの、接点がないはずの二人の世界を結びつけることにもなるのですが、その過程についてはネタバレを避けようと思います。

 

とにかく、 この映画は、一方でアラサーの日常を描きながらも、その日常は常に、「終わり」や「不思議」と隣り合わせなのです。

 

 

以下、ネタバレの濃度が増しますので、ご注意ください。

 

<回答としての「アズミ・ハルコは行方不明」>

安曇春子は行方不明になると、失踪人として「探しています」という貼り紙を貼られることになります。
そして、この貼り紙はまわりまわって、愛菜を含む三人組によって「アート」化され、グラフィティアートとして街中のいたるところに「落書き」をされます。(この「まわりまわる」過程も、なかなかのクズっぷりを発揮する男たちが関わっていて面白いのですが、そのクズっぷりは、ぜひ、劇場でお楽しみください)。

 

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この「グラフィティアート」は、またたくまにインターネットで拡散されることになるのですが、このアートを見た人々は、Twitterで、まとめサイトで、口々に彼女のことを語ります。

 

これ誰?

行方不明なんだって。

もう死んでるでしょ。

かわいそう。

犯人知ってるかも。

死体の場所を特定しる! 

 ※かなり記憶で保管しているので、映画に出て来た文面そのままではないですすみません

 

行方不明になる前、安曇春子はいつも、「結婚しないの?」「彼氏は?」「今なにしてんの?」と、誰かに存在を目撃されては、現在や未来を問われ続けていました。
行方不明になった春子(27歳・独身女性)は、行方不明になる前の日常と同様に……いや、それ以上に。「どこで何してんの?」と問われ、その不確定な運命を誰かに推察され、語られ続けるのです。

 

しかし、そうした「どこで何してんの?」という疑問符に対するこの映画の答えは、もちろん、「アズミ・ハルコは行方不明」です。

 

この映画を見て、私は、この映画は、「27歳女性、君は今、何してんの?」と声をかけ、噂をするすべての人たちに、「アズミ・ハルコは行方不明です」と答えるための映画なのだと思いました。
「お前らがいくら勘ぐっても、私の「行方」は、お前たちの想像の先にはないのだ」、と、宣言するための映画なのではないかと。
「アズミ・ハルコは行方不明」。
それは、安曇春子という一人の女性が、その人生の上にある、すべてのしがらみ・視線に対する、確かな応答を手に入れるまでの物語なのではないか。

特に、アラサーの方、地方在住・出身の方には、身に沁みるものがあると思いますので、ぜひ、見てみていただきたいです。

 

 

以下、完全にネタバレあります。

 

 

 

<祈りとしての「アズミ・ハルコは行方不明」>

 

春子は生きているのでしょうか。
死んでいるのでしょうか。
誰かにさらわれたのでしょうか。
自らいなくなったのでしょうか。

 

私は、それは、「分からない」のだと思います。
最後のあのシーンは、現実なのかもしれないし、もしかしたら、愛菜への「お迎え」なのかもしれない。
しかし、それは観ているものには分からない。

 

「アズミ・ハルコは行方不明」なのだから。

 

普通、物語というものには、結末があり、その「結末」に向ってストーリーが進んで行きます。
しかし、アズミ・ハルコが行方不明である限り、彼女の「結末」は、誰にも分らないし、誰のものでもないのです。

願わくば、春子が、その人生の先に、自ら「アズミ・ハルコ」の「行方不明」を選択したのでありますように。彼女が、その行方不明を、自らの選択として、生きていてくれますように。

映画を見る私たちにできるのは、そのように祈ることくらいなのです。

 

 

この映画には、春子・愛菜を始めとして、自分で自分の行く先を決められなかった/決められない女性が出てきます。

たとえば、姑の介護に駆り立てられる春子の母。
妊娠をきっかけに結婚し、仕事を辞めるも、すぐに離婚することになった今井。
そして、恐らく行方不明者(←ネタバレなので白で書いてます)なのであろうJKたち。

JKたちは「女性」であるがゆえに、上記のような選択・行く末に至りました。
男性から「夜道を歩く」権利を奪ったJKたちは、「私」の人生から未来を選択肢を奪った男どもに復讐をしているようにも見えます。彼女たちは、自分の未来を自分で選択するために、「選択」を取り戻すために、あの世界で、バットを振り回しているのかもしれない。

しかし、実際のところ、彼女たちが、今、何をしているのかなんて、誰にも分かりません。

 

映画を見る私たちにできることは、JKの存在の謎を解き明かすことでも、春子の行方不明を種明かしすることでもなく、「その行方不明が、他の誰かのものでもなく、あなた自身のものでありますように」と祈り続けることくらいなのだと思います。
だからこそ、この映画は、「結局、春子って……??」と??を残した結末を選択したのではないでしょうか。

 

春子の選択が春子だけのものであることを示すために。

 

 

松居監督の映画作品は、いつも、その結末で、見るものの想像の向こう側へ、登場人物を開放します。

その結末に、いつも、多少「えー!!!!」と呆気にとられながら、けれど、だからこそ、「分からない」結末を抱えた登場人物たちは、一人のリアルな人間として、私の前に立ち現れ、私の中に住み着きます。

だから、私は時々、あなたを思い出しては、考えずにはいられない。

あなたは、今、何してるのだろう? 今、どこで何を考えているのだろう?

 

願わくば、そうした、全き他者としての安曇春子が、より多くの人の心の前に立ち現れますように。

 

azumiharuko.com

 

 

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