ニワノトリ

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縷縷夢兎 個展「rurumu 2nd Exhibition"PLAYHOUSE"」を見て来た一般的な感想

原宿ROCKETで11月25日から30日まで開催された縷縷夢兎の個展、「rurumu 2nd Exhibition"PLAYHOUSE"」を見に行ってきたので、感想文を書きました。

www.fashionsnap.com

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個展に行った次の日に小説を読んでいたら、ある兄と妹が次のような会話をしていて、私はその日常会話の中に、縷縷夢兎の気配を感じ取ってしまった。

 

「やめてくれよ、真希。そんなの香奈に着せるの」

「何で? 可愛いじゃない」真希は衝撃を受けて振り向いた。そんなことを言われるとは予想していなかった。[…]

「本気かよ、お前[…]俺はお前がその金魚の服着てるの、恥ずかしくてさ。俺の妹だっていうの隠してたくらいなんだぜ。お前、その服の滑稽さ、わかんないのかよ。[…]」*1

 

「何で?可愛いじゃない」 ⇔ 「お前、その服の滑稽さ、わかんないのかよ」

2016年11月29日。私が原宿で見た「縷縷夢兎」とは、この二つの台詞が常にしのぎを削り続ける空間だった。

 

縷縷夢兎(るるむう)は、東佳苗が手掛けるニットブランドである。そのニットのガーリーな外観から、縷縷夢兎の服は、「ゆめかわいい」と称されることもある。時に、その現実感の欠落を揶揄するように用いられるその形容詞は、しかし、既に次のことを示している。
縷縷夢兎が作る世界は、「かわいい」の一言では、形容しきれないのだと。

 

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今回の個展で撮ってきた写真です

 

ピンク色、レース、ぬいぐるみ……一つひとつの物々は、「かわいい」ものであるはずなのに、『縷縷夢兎』の名のもとに集められた「かわいい」の集合体は、「かわいい」のブレーキが壊れたかのようだ。「かわいい」「かわいい」「かわいい」「かわいい」「かわいい」強迫的なまでに過剰な「かわいい」は、「かわいい」の境界を飛び越えてしまっている。

 

縷縷夢兎を着た女の子が街を歩く時、風景の中から浮かび上がってしまうのは、その「かわいさ」が、すでにこの社会にある「かわいい」には馴染めないからだ。
社会的に認められる程度のかわいさで我慢できない。その「内面」の非社会性を人は滑稽と呼ぶ。

 

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どちらも大森靖子さんのMusicClipから。上は『ノスタルジックJ-pop』*2下は『マジックミラー』*3です。

 

しかし、裏を返せば、このことは、「かわいい」という表現が、その人の「内面」にまで覇権を及ぼすのだということを示している。大人が眉を顰めずに「かわいいね」と評する「かわいい女の子」は、その女の子が、社会の外にはみ出さないような身なりと振る舞いで街を歩くことのできる「良い子」で「正しい子」だから、その「かわいさ」を認められるのだ。

 

ある人が、身体の境界を画定することは、「理解可能性という規制的なグリッドの内側に、身体のための、身体という、社会空間をもたらす」と述べていた。*4「かわいい」と画定された女の子の身体は、「かわいさ」を理解されることで、既存の「かわいい」というグリッドの中に閉じ込められてしまう。

 

そうであれば、既存のかわいいの外側にはみ出す縷縷夢兎の過剰さは、「かわいい」の内側に閉じ込められた身体を自由にする。

「私たちはもっと、「かわいく」あっていいのだ」と。

縷縷夢兎のニットを形作る編み目は、正しく「格子(グリッド)」である。目には見えない社会の格子……女の子の身体を作り・規制する社会の格子を暴露し、上書きするようにして、縷縷夢兎の編み目は女の子の身体を包む。身体にぴったりと寄り添うピンク色の毛糸は少女たちに「もっとかわいくあれ」と囁き、縷縷夢兎を纏った少女たちは、そのピンク色の血管を通して、理解不能なまでにおぞましい「かわいさ」を私たちに見せつける。その露悪さはグロテスクとしか言いようがない。

縷縷夢兎が創っているのは、女の子の第二の皮膚なのである。すでにある皮膚よりももっと自由に、もっと過剰に、「私」を表す皮膚。
そこは、私がもっと「かわいく」あるために、私が私を曝け出す、社会との戦場なのだ。

縷縷夢兎は、「お前、その服の滑稽さ、わかんないのかよ」という問いを、「何で?可愛いじゃない?」と蒸し返し、かわいさを増殖させる。

 

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敢えて、上記のような「かわいさ」の(再/脱)構築を縷縷夢兎の第一章と呼ぶならば、縷縷夢兎の第二章は、「Expiation in a dream」「dress for me」「Heavy shabby girl」といった映像作品において、そうした「かわいさ」を「(女の子の)貧困」との切り離しがたい関係性と共に描き出したところ起点があるのではないか。恐らく、今後、縷縷夢兎の個展で、そうした貧困までも描かれたならば、その空間はもはやミュージアムとしか言いようがないだろう。*5縷縷夢兎の作る「ゆめかわいさ」は、ゆめである以上に、この社会を、現実を、忠実に照射し、その照射の速度を上げ続けている。

 

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*1:桐野夏生(2005)「植林」『アンボス・ムンドス』所収、文藝春秋(※文庫版(2008)pp.44-45から引用しました。

*2:https://www.youtube.com/watch?v=9LvRIJIJMC8

*3:https://www.youtube.com/watch?v=0YFG6BCQZFU

*4:ジュディス・バトラー(1990)『ジェンダー・トラブル』、竹村和子訳、1999、青土社

*5:しかし、一方で、そうした「社会的」ともいえる空間は、縷縷夢兎というブランドに相応しくはないのかもしれない。私的(に見える)空間で、綿密に作り上げられた私的世界をそのまま身に纏うおぞましさこそが、縷縷夢兎のかわいさであり、人々をギョッとさせ、惹きつけ、魅惑するのではないかと思うからだ。