ニワノトリ

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青柳カヲル"THE LAST LIVE"を見た人の手記ブログ(7)

この手記を終わらせるには、結末、結論、結果など、何らかの「結び」がなければなりません。僕は最初、この7日目の手記に「青柳の作品の中に、僕は “You”という偶像から “I”の肉体へというテーマの移行を見た」というようなまとめを書いて終わりにしようとしていました。けれど、書いているうちに、それは青柳カヲルの作品を観て、何かを語ろうとする文章の結びとして相応しくないように思え、削除しました。曲がりなりにも僕が青柳カヲルの絵を見てきた人間であるなら、僕は僕の中の “You”をまとめるのではなく、“You”の終わりとその跡に残る “I”の肉体について記すことで、この一連の文章を終わらせなければならないのだと思います。

 

 

2021年2月8日4:30(PM)

この日、僕は武道館で “THE LAST LIVE”という絵を見ました。
いや、正確にはそのような錯覚に陥りました。
僕が見たそのステージは二年前に見たあの絵によく似ていました。あまりによく似ていたから、だんだん僕は自分が武道館の中にいるのか、その絵の中にいるのか、今からそのステージを描こうとする絵描きの脳内にいるのか、よく分からなくなってしまいました。

そのまま僕は “THE LAST LIVE”を描く“架空の絵描き”の脳の中にいる自分を想像しました。それが可能なら、僕はきっと、彼(女)の筆をなぞるように、その筆がつける陰影を追うようにこのステージを見ているのです。しかし、想像すればするほど、そんなことは不可能だということが分かりました。一度見たきりのその絵の、キャンバスに残った筆の跡の一つひとつを、僕は覚えてなどいなかったからです。絵描きの筆を追えないことを知るごとに、僕の脳の中の “THE LAST LIVE”は急速に輪郭を失い、色を失い、存在を失って行きました。

きっと、僕が脳の奥に呑み込んだ瞬間から、それは “THE LAST LIVE”という絵ではなくなっていました。キャンバスの質感、絵の具の重なり、油のにおい、会場に響くメリーの音、少し冷たい畳の温度。そうした絵の絵としてのリアリティーー東京都目黒区のギャラリーに1週間飾られていた “THE LAST LIVE”のリアリティがどれほど僕の中に残っていたと言うのでしょうか。夢に出てくれば出てくるほど、それは “THE LAST LIVE”としての細部を失い、“THE LAST LIVE”の名を借りた虚構と化していました。

僕が武道館で見た “THE LAST LIVE”のようなライブは、僕が夢見た “THE LAST LIVE”のようでない生々しさで脳の中の “THE LAST LIVE”の虚構性を明らかにし、燃やして行きました。燃え尽きたキャンバスの向こうに僕が見たのは、踊り、歌うアイドルたちの身体、その虚構足りえない実像でした。

 

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僕が、武道館のライブを境に脳内の “THE LAST LIVE”のリアリティを手放したのなら、僕は自分の虚構ではなく、“Living iDoll”に足を運び “THE LAST LIVE”を見た僕自身の身体の生々しさを知ろうとすべきなのかもしれません。これからも青柳カヲルの絵を見る上で、“隠すことのできない根幹”としての、“副次的な、しかし切り離せない現実”としての、この身体について*1

 

その日、僕がいたのは “THE LAST LIVE”の絵の中でも、それを描こうとする絵描きの脳内でもなく、武道館の北東スタンドのB列で、そのアイドルのライブTシャツを着た一人のオタクとしてそこに立っていました。

 

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勝ちT FINAL(大森靖子) [青柳カヲルデザイン] ("NEVER TRUST ZOC"グッズ)

*1:青柳カヲルnote, "なぜ顔出しをしたのか," https://note.com/kaoruaoyagi/n/neebc38da5741