ニワノトリ

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日記:"シンガーソングライター"

2021年6月21日0:00

ZOCのアルバムも発売され、7月には大森靖子の新しいアルバムが発売されるのに、相変わらず『シンガーソングライター』ばかりを再生している。(『シンガーソングライター』が収録された)『Kintsugi』が発売されたのは去年の12月、次のアルバムが発売されるのは今年の7月。もうそろそろ、一旦、この曲に対する自分の思い入れに蹴りをつけないと、とてもじゃないけど次のアルバムを"再生"することができそうにない。
 

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『シンガーソングライター』を聞くのをやめられないのは、「おまえじゃない」ことを歌っているからだ。大森靖子は曲中で何度も繰り返す。"STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC STOP THE MUSIC, STOP THE MUSIC..." この繰り返しは僕にある映画の一場面を思い出させる。地下街で男がナイフを振り回している。逃げる通行人の背中にナイフを突き立てるたびに男は呟く。誰でもいい、お前じゃなくていい、誰でもいい、お前じゃなくていい誰でもいい誰でもいい誰でもいい……コンクリートに倒れた男性の灰色のスーツが黒く染まり、身体が痙攣している。そのまま動かなくなる。心臓が止まる瞬間をカメラは映す。その後ろで、男が白いワンピースを着た女性にナイフを振り下ろしている。男が心臓にナイフを突き刺せば突き刺すほど、悲鳴や怒号が音量を上げて行く……。何度も繰り返され、繰り返されるごとにボルテージを上げる"STOP THE MUSIC..."は、ナイフが振り下ろされ心臓がリズムを止めるあの瞬間、その無差別の繰り返しを連想させる。

刺さる音楽なんて聴くな
おまえのことは歌ってない

そのような聞き方をしているから、"STOP THE MUSIC..."の繰り返しがこの歌詞と共に終わる時、僕の中のある欲望が僕の前に暴き出される。すなわち、僕は心のどこかで大森靖子の音楽が「誰」にでも刺さる無差別なナイフであるよう願っていた。僕はずっと大森靖子の音楽に刺されたかった。彼女の言葉に刺される自分でありたかった。あわよくば、それまでの人生が殺されてしまうほどに深く刺され、彼女の音楽を聞いた次の日から、生まれ変わったかのようにまったく別の人生が始まってしまえばいいと思ってさえいた。大森靖子という天才の音楽に刺されること、それが僕の感性の鋭敏さの証明だと思っていて、その証明の中に僕は自分が音楽や芸術を聞くに値する人間であるという確認と安堵を見いだしてきた。要するに、「刺さる」という強い衝撃がなければ確かめられないほどに、僕は僕の感性や感受性というものをまったく信頼していなかったのだ。僕は自分に感性や才能やあることを望みながらも、他方で「刺さる」という痛覚の比喩に甘え、「刺される」ことによって自分の感受性の在処を確認し、それで満足してきたのである。

そうした自分のありようを振り返るならば、僕が"STOP THE MUSIC..."の繰り返しによって無差別殺人のシーンを連想する背景には、大森靖子の音楽が無差別なナイフであることを望む卑怯な欲望があるのに違いなかった。大森靖子の音楽が仮にナイフのようなものだとして、僕はそれが誰か一人だけに狙いを定めた愛憎に塗れたナイフであることよりも、人通りの多い地下街で振り回される剥き出しの刃であることを望んできた。僕という人間の中に、特定の一人だけを狙ったナイフに選び出されるほどの「感性」やその「特別さ」がなかったとしても、通り魔のようなナイフなら、きっと僕にだって刺さるに違いないから。

僕が音楽に「刺される」ことで、感性を確かめ、自分が何者かであることを確かめてきたのだとしたら、きっとそれは刺される前の自分が「何者でもない」「誰でもいい」人間であり続けることへの免罪符として機能していた。しかし、大森靖子に「おまえのことは歌ってない」と歌われて僕は思い知る。「刺される」ことへの欲求は、僕という人間が自分が、才能のない「誰でもいい」「誰か」である自分への耐えられなさを、「刺された自分」という位置づけによって、一時的に回避してきただけなのだということを。

 

その映画の主人公は男に腰を刺されて重傷を負い、大好きなテニスを続けられなくなってしまった。主人公はなぜ自分が刺されたのか、その理由を知りたくて、被害者の会の仲間と会話を繰り返し、新聞記事を読み漁り、男の生まれ故郷に足を運ぶ。しかし、彼がそうして必死に「刺された」という運命を紐解こうとしている間に、当の男は「人を刺してみたかった」「誰でもよかった」「早く死刑にしてくれ」と繰り返すばかりなのだった。その地下街を現場に選んだのも人通りが多いからというそれだけのことで、土地への因縁や、特定の個人への恨み、「テロリズム」と呼ばれるべきような社会への怒りなども見当たらない。主人公が調べても調べても「この僕が刺さればならなかった必然性」など見つからず、「たまたま刺されただけ」という偶然性ばかりが浮かびあがる。彼は愕然とするのだ。あの男の手には、自分を刺した時に感じた内臓の柔らかさや、ぬるぬるした血の生々しい感触があるはずなのに、それでも自分が「誰でもいい」誰かであり続けているのだということ。男にとって自分は具体的な名前も顔もないただの「刺された人」であり、それ以上でもそれ以下でもないのだということ。相手が誰か分からなくても、人は人を刺すことができるし、刺されることができる……しかし、刺されてなお、あるいは刺してなお、「お前じゃなくてもいい」誰かであり続ける身体とは何だろう。

その映画の主人公と異なり、僕は本物のナイフで刺されたわけではないのに、その映画は僕にとって『シンガーソングライター』を聞く重要な手掛かりだった。『シンガーソングライター』を聞いて僕が考えなければならないのは、僕の「刺されてなお、あるいは刺してなお、「おまえじゃなくてもいい」「誰か」であり続ける身体」についてだからだ。



「刺される」ために音楽を聞く時、僕の身体は死んでいる。「刺される」ために音楽を聞くとは、死ぬために音楽を聞くようなものだ。しかし、実際のところ、その「刺される」とはカフェイン抜きのコーヒーのようなもので、すなわち、具体的な痛み抜きのナイフ、痛み抜きの刺傷事件。僕は実際にナイフに刺されたのなら感じるはずの痛みも、深く刺されば刺さるほど刻まれる後遺症も抜きに、「刺される」という比喩の中に自分の「感性」という夢を見て来たに過ぎない。そこにあるのは、刺されても刺されても更に「刺された!」という信号と刺激を求める、不感のゾンビのような死に体である。しかし、僕が本気で『シンガーソングライター』を聞こうとするのであれば、僕はゾンビのままではいられないのだった。

狂わせて 狂わせて 狂ってたら
入場できない?むしろ割引けよ

同じ『Kintsugi』に収録されている『S.O.S.F. 余命二年』にも「僕は僕の歌じゃなきゃ 君に入国できない」という歌詞があるが、これらの歌詞から察するに、これらの曲は、不意打ちに切りつける通り魔のようにではなく、ましてや襲い来るゾンビの群れに機関銃をぶっ放すようにでもなく、聞く人に対して正面突破を望んでいる。強いて言えば、大森靖子の手にあるのは皮膚を切り刻むナイフというよりは、中に入るためのインターフォンだ。彼女の音楽は正式な訪問者として、聞く人の正面に立とうとしている。音楽が「訪問」するためには、「その人」という家がなければならない。そこには扉や屋根や壁といった外と内の境界面がなくてはならない。その人という"ZONE"がそこに形成されていなければ、そこに「入る」という前提が成り立たないし、もしも、そのZONEを形成する境界面が刺されまくって穴だらけだったら、いくらだって不法侵入/不法入国できてしまう。
 


音楽がナイフのようなものなのだとすれば、それは鋭い切っ先でもって皮膚を突き破り、心臓にまで到達するのだろう。しかし、『シンガーソングライター』という曲が浮かびあがらせるのは、皮膚の一点を突き破る刃ではなく、むしろ皮膚という境界面、「顔」や「面」といった社会と身体の接面だ。というよりは、その接面を形作るための蠢きであり、自分の内と外の間の終わりない駆け引きだ。例えば上記の"狂わせて 狂わせて"という歌詞を僕はどう解釈すればいいのだろうか。「(私があなたを)狂わせて」なのか、「(あなたが私を)狂わせて(きたくせに)」なのか。この歌詞の前に”遺棄させて“という歌詞があるので、前者のようにも感じるのだが、後ろの”入場できない?むしろ割り引けよ“を聞くと後者のように感じる。恐らく、どちらが正解ということもなく、ここにあるのは、前者は後者に移り変わりうるし、後者も前者に移り変わりうるという移ろいなのだ。「あなたを狂わせる」という相手への欲望は気付けば「あなたに私を狂わせられる」という事態にすり替わりうるし、「あなたに狂わせられる」ことは「あなたを狂わせる」ことにスライドしうる。すなわち、「相手に対して何かを為そうとする」ことは、「相手に為される」ことと地続きだし、その逆も同じだ。「刺す」という行為が加害と被害の関係を強く固定するのに対し、『シンガーソングライター』という曲は常に「(私が)相手に何かをしようとする」という能動と「相手に何かをさせられる」とか「相手に何かをされる」という受動の間で揺れている。

この曲の歌い出しは、

ゆれる やれる 電車もビルも おわりの道具に見えたら
ぼくも なんか 生きてるだけで 加害者だってわかった

だが、ここでは電車にあわせて「ゆれる(否応なくゆれてしまう)」自分の身体と、意志をもって「(誰かを/何かを)やれる」自分、という受動と能動の間で「僕」の生が立ち上がってくる。「僕が誰かに何かを為しうる」ことと「僕が何かを為されうる」ことの狭間に僕という存在はある。「僕」のZONEというものがあるのなら、その境界線は誰かが一方的に外側から引くのでもなく、僕が内側から一方的に引くわけでもなく、「為される」と「為す」の駆け引きの中で作られる。僕という存在が誰に何も為さない無害で無色透明な存在であるなら、そうした駆け引きも「僕」というZONEも生まれ得ないのだ。

「為される」も「為す」もどちらも失った時、「誰でもいい」と刃を振り回す「無敵の人」が生まれる。「誰でもいい」とは大森靖子という人が何度か用いてきた言葉でもあり、例えば『流星ヘブン』には"誰でもいいならここに居て"という歌詞がある。「誰でもいい」という境地の手前で「ここ」に留まるためには、刃に貫かれて噴き出す血の色よりも、為す/為されるの狭間にある自分の境界面、すなわち社会と自分の狭間に晒され続ける「自分」の身体の境界をじっと確かめ続けるしかないのかもしれない。
 


 

ラップされる肉の断面、人でなしと言われる感情、誰にでもある人権の美しさ、台風一過の朝凪が頬を撫でる感触、人の前に晒される顔面、誰にでも被れる正義という面……『シンガーソングライター』の中で、外の世界と自分という存在の接触面は、為されると為すの間で立ち上がっては傷つき、変形し、それでも何らかの形を保とうとしている。だから、僕はこの曲を聞く時に、僕という人間とこの曲の接触面を確かめなければならない。刺されるという痛覚による感性の確認ではなく、殺されるのでもなく、「生きさせて」という歌詞を聞いたことへの応答責任。刺されて感性を確かめるなどという行為は、「感性」の所在の責任を大森靖子に転嫁しているだけだ。自分に特別な感性や才能がないのだとしたら、何らかのそれが欲しいのだとしても、ないところでやるしかない。

救いたい おまえじゃなかった

『シンガーソングライター』を締めくくる"おまえじゃなかった"という言葉こそが僕という存在を掬い上げる呼び声だった。才能が欲しかった。選ばれたかった。このまま埋もれるのは惜しいと言ってほしかった。けど分かっていた。僕に才能はないし、誰にも選ばれないし、土の上に頭を出すことはない。きっと僕に才能はないと認めることが最後の僕のプライドだ。ならば、僕のZONEの中心を僕の「おまえじゃなさ」に据えながら、『シンガーソングライター』と僕の接面を確かめ続けて行くしかないのだろう。

才能の無さに甘えていては、大森靖子の曲など聞き続けられず、いつまでも『Kintsugi』を聞き終わらない。そもそも、社会と自分の接触面の話などというものは、僕がこんなものを書き始める前、『シンガーソングライター』というタイトルが提示された瞬間から既に示されていたことだ。またこんな下らないブログを書いている。浅瀬を漂うようなものを書いている。だが、こうして僕の「下らなさ」や「光らなさ」を確かめ続けることが、今の僕には必要なのだ。"STOP THE MUSIC..." が無差別な殺人を僕に想起させるなら、僕はこの手の皮膚に、流れ出した音楽の息を止めるナイフの感触を確かめることから始めなければならないのである。