ニワノトリ

Twitter:@ok_take5、メール:tori.niwa.noあっとgmail.com

水色の呪いは今も私の部屋の隅に蹲っているのかもしれない!/大森靖子『呪いは水色』@『洗脳』の超個人的な感想

東京近郊にお住いのみなさん、映画『ワンダフルワールドエンド』はご覧になりましたか!? 

 


映画『ワンダフルワールドエンド』予告編 - YouTube

 

ぜひ、見ていただきたいこの一作。
今のところ、東京の新宿武蔵野館で公開中です。
これから、全国で順次公開されて行きますよ〜。

 


映画『ワンダフルワールドエンド』公式サイト/監督:松居大悟×音楽:大森靖子

 

 


『ワンダフルワールドエンド』の予習:もう一回『ミッドナイト清純異性交遊』と『君と映画』を見た。 - ニワノトリ

 


という宣伝を決めたところで(本当に色んな人に見てほしい)。

 

ちまちまこのブログに書いてる大森靖子さん作品感想文シリーズですが、今回は、『ワンダフルワールドエンド』のテーマソングでもある『呪いは水色』の感想文を書きたいと思います。

『ワンダフルワールドエンド』という不思議な映画の、一つひとつのシーンをぎゅっと一つにまとめあげる、主題歌としての『呪いは水色』は本当に素晴らしいです。

が、『呪いは水色』単独で聞いてもいい曲なので、今回はあんまり映画の内容には触れずに感想文を書いてみました。

 

 

 

 

 

***

 

□「秘密の公園 同じ約束を あの人ともしたのね」

 

『呪いは水色』は、一般的に(?)いうと、「別れの曲」だと思います。

 

秘密の公園 同じ約束を
あの人ともしたのね
最後の手紙は赤く染めるわ
全部台無しにさせてよ

 

私から離れて、「あの人」のところへ行く「あなた」に向けて、歌われた曲というような、そんな感じの曲です。たぶん。

 

というようなことを踏まえつつ。

 

私は、例えば、『呪いは水色』の「秘密の公園 同じ約束を あの人ともしたのね」という歌詞を聞くと、「あなたと私だけの秘密」とか、「あなたとだけの約束」みたいな、たった一つの「約束」とか「誓い」に対する真摯さ。そういうものを置き去りにして生きてきたのは、他ならぬ私自身だよなあ、というようなことを思います。

大人になるまで絶対に開けない誓ったプレゼントも、開けないままどっかに行っちゃってたり。
この人に出会った日のことは一生忘れないと思ってたのに、もう何月何日だったか分からなくなっていたり。

私には、その時は絶対に忘れないと誓っていたのに、いつの間にか忘れてしまった記憶がたくさんあります。

 

だから、「秘密の公園 同じ約束を あの人ともしたのね」。
それは、過去に、何か唯一で一生忘れられないような経験をした私が、それが一生忘れられないものであったことをすっかり忘れている今の私に向かって、語り掛けてきている言葉のように感じました。

「もう、あの人のことしか好きにならないって誓ったくせに!」
「あの場所は、絶対に秘密だって言ってたくせに!」

 

しかし、そうはいっても、その人が目の前からいなくなれば他の人を好きになる日だってやってくるし、秘密を秘密のままにしていたら、秘密ごと自分が腐っちゃうみたいなことだってある。
秘密の場所も、唯一の約束も、生きて行くうちに更新されて、いつしか、私とあなただけのものではなくなる日がやってくる。
月日を重ねて、生きて行くということは、そういう忘却や更新の繰り返しでもあります。
絶対に忘れないとどんなに誓っても、記憶というものは、この先も私が生きていく限り、月日とともに薄れて行く。

 

だけど、そういう記憶は、時々、ふっとしたことで蘇って、「あの頃は、そうじゃなかったじゃん」みたいな声をかけてくる。
『呪いは水色』には、そういう、ふっと蘇る記憶の声、みたいなものが詰まっている感じがしました。
『呪いは水色』を聞くと、月日に抗うことなく忘れられようとしているすべての私の記憶というものは、もしかしたら、今も私の部屋の隅に蹲って、

 

あとすこし そばにいて
読みたい漫画がみつかるまで
片足の折れたテーブルと
水滴の音をどうにかするまで

 

とひっそりと弾き語っているのかもしれない。というようなことを思います。
「もう少しだけ忘れないで、もう少しだけそこにいさせて」と、というように。

 

だから、私にとって、『呪いは水色』の中にあるのは、私の、私以外の誰かに対する気持ちというよりは、私の、私に対する気持ちです。
『呪いは水色』という曲の中には、いつかの私が、私自身への誓いを忘れてしまった私に声を届けようとしている……そのように感じられる言葉が、たくさんあります。

 

 

□「あなたは正しい それでもやっぱり 私だって正しい」

 

あなたは正しい それでもやっぱり
私だって正しい
そんな喧嘩もできなくなるの
春なんてこなければいい

 

記憶を更新して生きていくというのは、生きていく上で必要なことだと思います。
いつまでも、辛かったり、純粋だったり、楽しかったりする一つの記憶の前に蹲って、生きていくわけにもいかない(かもしれない)。
「忘れたい、だけど忘れられない」。そうした葛藤に一つの区切りをつけたとき、その人はようやく次のステップに進めるのかもしれません。

 

私をその場に縛り付けるほどの狂おしいほどの記憶と、それでもその先の人生を歩んで行かないといけないという現実と。
二つの間に折り合いをつけて、明日を生きて行くことを選択する。
それってとても正しいことです。そうじゃないと生きていけない。

でも、仮に、その記憶が「私を忘れないで」というのなら、それだってやっぱり正しいと思う。
「春なんてこなければいい」
私の葛藤が終わって、新しい季節が私の目の前に訪れる時、私の記憶はそんなことを思うのかもしれません。
私には、『呪いは水色』は、「今」が「過去」になってしまうその瞬間に吹き出す切なさが詰まっているように感じられます。

 

 

でも、だからと言って、「忘れてごめんね、でも、私には新しい季節が必要だったんだ」と、その声に答えるのも違うような気がする。

 

追いかけて バカみたい
ベンチの二人が開く青春
私との夢の続きなら
笑いに行くわよ はやくお逃げなさい

 

この歌詞を歌う「私」は、「あなた」が「私」の元から離れて、次の季節に行くこと自体を否定しているわけじゃない。むしろ、「あなた」が次のステップに行こうとしていることを知っていて、それを受け入れないといけないとどこかで思っていて、その一方で、それを受け入れることのできない自分を振り切ることもできない。
そんな狭間の葛藤の狭間に溺れそうになっているように聞こえます。

 

 読みたい漫画がみつかるまで
 片足の折れたテーブルをどうにかするまで
 水滴の音をどうにかするまで

 

この歌詞を歌う「私」は、あなたが傍からいなくなる瞬間を少しずつ、少しずつ、先延ばしにしようとしている。
「読みたい漫画」「片足の折れたテーブル」……今の「私」に欠けた些細な何かを、どうにかして埋めるまで、あなたに傍にいてほしい。
でも、その後には「あなた」という一番大きなピースが欠ける未来が、口を開けて待ち構えている。
「私」は、すぐそこにある別れの瞬間を少しずつ遠ざけながら、

 

最後の手紙は赤く染めるわ
全部台無しにさせてよ

 

と、「私」がいないあなたの未来に、「私」の存在を染み込ませたいという思いを胸の内にたぎらせている。

 

生きている 生きてゆく
生きてきた 愛はただれて
この体を蝕んでゆく
呪いは水色

 

「あなたと共にある未来」という達成されるはずだった未来が中断されて、行き場を失った愛はただれて、「呪い」になって行く。
でも、同時に、その「呪い」が蝕むのは「私」の体であって、あなたの未来ではない。
たぶん、「私」は、「あなた」と「私」がすでに切断されていていることを知っていて、「私とあなたの約束」が、「私がかつてした約束」「あなたがかつてした約束」の二つに分かれて、共有できるものでなくなってしまったことも分かっている。

 

なので。

 

前置きが長くなりましたが、だから、「私」にとって、「忘れてごめんね、でも、新しい季節が必要だったんだ」という言葉は何の慰めにもならないんだと思います。「私」はそんなこと言われるまでもなくすでに知っている。
「それを知っていること」と「それを受け入れること」の狭間にこそ、『呪いは水色』という曲が生まれているのであって(たぶん)、どんなに頭で理解できたって、それにすぐに感情や感性がついていけるわけじゃない。

 

最初に書いたように、私(筆者)には、この曲が、私が忘れようとする記憶が語り掛けてくる曲のように聞こえているわけなんですが、語り掛けられる「あなた」側の立場で『呪いは水色』を聞こうとすると、この歌に対して、何を言い訳することもなく、ただ、耳を傾けて、その一つひとつの言葉を聞くことしかできなくなります。

 

□「生きている 生きてゆく 生きてきた」

 

『呪いは水色』という曲は、そういう、「敢えて目を背けることで、自分を生きやすくしてきたこと」の声を可視化(可聴化?)した曲だということができるんじゃないでしょうか。
聞こえないふりをしたり、聞こえても、「まあ、仕方ないんだよ、そういうもんだから」と流されてみたりしてきたこと。
ちょっとした後ろめたさと共に封印して来た、私の記憶や気持ちが、水色の呪いになって、聞こえてくるような。
『呪いは水色』には、そういう生々しさがあると思います。
そういう生々しさが、私の場合は、「過去の私(の記憶)と今の私」みたいなものに結び付いて行ったわけなんですが。
きっと、それがどこに結び付くかは聞く人によって違って、水色の呪いは、聞き手の中に隠されている思いやうしろめたさにぴったりとあてはまるように形を変えては、一人ひとりの中にある、かつての「私たち」のことをよみがえらせていくんじゃないでしょうか。
だから、『ワンダフルワールドエンド』という映画もそうだと思うんですが、『呪いは水色』って、とても、普遍的な曲だと思います。だからこそ、名曲で、大森さんがメジャーとして初めて発売する『洗脳』に収録されたんじゃないかな。『ワンダフルワールドエンド』も『呪いは水色』も、ぜひ、たくさんの人に、見て、聞いてほしいです。

 


大森靖子「ワンダフルワールドエンド」「呪いは水色」 - YouTube

 

 

 

 

 

niwanotori.hatenablog.com

 

niwanotori.hatenablog.com

 

niwanotori.hatenablog.com

 

 □さらに個人的な話

 

『呪いは水色』という曲は、「私」が忘れようとしている「記憶」が私に語りかけている歌に聞こえますっていうことをつらつら書いてきました。
私の好き勝手な解釈なのですが、こうやって、この曲と「記憶」を結びけて聞くようになったのには、理由があります。

それは、この曲が、映画『ワンダフルワールドエンド』の主題歌であること、です。

まず、映画『ワンダフルワールドエンド』が描く二人の女の子が生きる姿は、エンドロールで流れる『呪いは水色』を通して、それを「観る」私たちに、「あなたは正しい それでもやっぱり私だって正しい」と語りかけているような気がしました。

そして、もう一つ。
こっちはかなり私情が入るのですが、『ワンダフルワールドエンド』が1月17日に公開されたことが、私の『呪いは水色』解釈にすごく大きく影響しています。

私、『ワンダフルワールドエンド』が1月17日に公開ということを知った時に、どうしても初日にこの映画を見に行きたいと思いました。というのも、この映画のテーマ曲である『呪いは水色』をその日に聞きたかった。
CDを持ってるので家でも聞けるんですが; 


1月17日は、私にとって特別な日です。
2015年1月17日に私は『ワンダフルワールドエンド』という映画に出会ってしまったわけなのですが、数年前の1月17日にも、もう一つ、とても大切な映画に出会いました。
それは、『その街の子ども』という作品です。
阪神淡路大震災を取り扱ったこの作品。

 


映画『その街のこども 劇場版』予告偏 - YouTube

 

『その街の子ども』は、森山未來サトエリ演じる二人の主人公が、17年ぶりに神戸に帰ってきて、阪神大震災の記憶に出会う。そんな映画です。
17年間、震災のことは忘れよう、とか、考えないようにしよう、とかそういう風に思ってきた二人が偶然出会って、一緒に夜の神戸を歩いて、ぽつりぽつりと当時のことを話し出す。ずっと抱えていたはずなのに見えなくなっていたものが、少しずつ言葉になって行く。その道程を演じる森山未來の演技は本当に素晴らしい(最後の最後の表情、ぜひ、見てほしい)。
個人的にサトエリはちょっとウザいと思ったんですが(キャラクターの性格的に)、でも、そのウザさがよかった。というのも、記憶って、いきなり現れてこっちを翻弄したり、何か思わせぶりなことばっかりしたり、何かとウザいものだと思うので。

で。

この映画に出会ってから、私も、1月17日になるたびに、阪神大震災のことを思い出すようになりました。
阪神大震災からもう20年。あの日のことを思い出せるっていう時点で、年がバレるくらい年月が経ってしまいましたね; 
でも、思い出そうと思えばいつだって思い出せるのに、私は、その映画を観るまでずっと、阪神大震災のことなんて忘れていたんです。というか、忘れたことにしていたんだと思います。忘れていた方が、何かと都合がよかったので。

 

前置きが長くなりましたが……だから、私は1月17日に『呪いは水色』を聞きたかったんです。

 

生きている 生きてゆく
生きてきた 愛の隣で
私達はいつか死ぬのよ
夜を越えても

 

1月17日という日に、映画館で、たくさんのお客さんの前にこの曲が流れること、この曲をテーマソングに掲げた映画が公開されること。
そこに勝手に何かの意味を見出さずにはいられなかった。だから、舞台挨拶のチケットが取れなくても、終電がなくても、見に行きたいと思いました。

 

そういう前提でもって、1月17日に観た『ワンダフルワールドエンド』、そして、1月17日に聞いた『呪いは水色』は、私にとって、特別な作品になりました。

もちろん、震災と直接的な関係はないけど。
月日の中で忘れられがちなもの。そのままじゃこの世の中は生きていけないよ、と見て見ぬふりをされがちなもの。
そういうものが、切なくも一生懸命生きている詩織と亜弓の物語と、大森さんの音楽に乗って、私の目の前に現れたような、そんな感じがして。
私、本当にこの映画を見に行ってよかったと思いました。

 

とりあえず、個人的なメモとして、『呪いは水色』と『ワンダフルワールドエンド』が、私の1月17日に、また新しい特別な思いをもたらしてくれたことを、ここに書いておきたかったです。