【ハリエンタルラジオありがとう記念】ハリエンタリズム/来来来チーム『東洋一』の感想
ハリエンタルラジオの「洗脳発売記念 本人不在の大森靖子祭」にメールを送ったら、大容量のzipファイルをくれました。
中身は大森靖子さんとぱいぱいでか美さんの自撮り+ハリエンタル関連の音源詰め合わせです。
ダウンロードが終わって、音源ファイルを開けてみたら、全部で23曲も入ってました。
すごい大盤振る舞いです。ダウンロードに一時間かかりました。
たまたま最初に開いたフォルダが、来来来チームの音源ファイルだったのですが、その一曲目「東洋一」がすごく良くて、どうしても歌詞カード見たくなって、勢いでAmazonで来来来チームのアルバムを買ってしまいました。
その名も『東洋一』。
「東洋一」は、このアルバムの一曲目でリード曲?です。
というわけで、今回は、来来来チーム『東洋一』の感想文を書きたいと思います!
■「東洋一」っていうタイトルが面白い話
アルバムのタイトル、そして、一曲目の曲のタイトル。
東 洋 一
私は、ボクシングのタイトルマッチの名前くらいでしか、「東洋一」っていう言葉を聞いたことなかったんですが、これって、すごく面白い言葉だと思うんです。
「東洋(Oriental/オリエンタル)」( “ハリエンタル”というレーベル名の語源でしょうか?)という言葉には、「西洋」の対立概念としての側面があります。「東洋」は、「西洋」があって初めて生まれる言葉です。
そして、日本(あるいは日本を含む東洋)は100年以上、ずっと「西洋化」を目指して、民主化して、経済成長して、近代化して来ました。
これまで、ずっと、西洋こそが世界の中心で、普遍的な価値を持っていて、東洋はそれをずっと追いかけてきた。
「東洋一」の歌詞カードには、次のような歌詞?が書いてあります(書いてあるけど、実際には歌われていない……)
東洋一は世界一
私、ここで「おお」と思ってしまったのですが、これまで……っていうか、今もそうだと思いますけど、基本的に「世界一」って「=西洋一」なんですよね。
オリンピックであれ、経済成長であれ、たぶん、西洋的な価値を元に作られた尺度で、「一位」と認められたものこそが、「世界一」と呼ぶに値すると思われてると思うんです。今のところは(変わりつつありますが)。
だから、東洋一は世界一っていう言葉は、面白いと思う。
ただ、ここで立ち止まって考えるべきは、『東洋一』が歌う「世界」ってなんなんだってことだと思うんです。
「東洋一は世界一」というとき、その「世界」とは、グローバル化し続ける、地球、とか、世界、とか、そういうものなのか。
世界の基準、みたいか顔をしている西洋に負けてなるものか、みたいな、対抗心丸出しのものなのか、それとも、もっと違う「世界」のことなのか??
■商店街という世界の話
この「東洋一」という曲をはじめ、『東洋一』というアルバムで歌われているのは、上に書いたような「グローバルな世界」というよりは、もっと、狭い、あるいは、身近な、「私」の手に届く範囲の「世界」であるように聞こえます。
例えば、「来来来チーム」は、「シティポップになりきれない商店街POP」を標榜しているそうです。→参照(OTOTOYの記事です。前田将博さんが書いてます)
確かに、『東洋一』のジャケットは、裏も表も、こういう壮絶な飯テロをかましてきます。
**飯テロ発生**
チャーハン食べたい。
ヒレカツ食べたい(ジャケットの裏表紙です)。
このように、『東洋一』のジャケットや歌詞カードの写真にあるのは、歩いて行けるような、街の商店街の風景です。
**飯テロおわり**
「商店街POP」の前に「シティポップになりきれない」ってついてるところが味噌だと思うんですよね。
つまり、来来来チームが標榜する「商店街」がイメージしてるのは、商店街の全盛期……魚屋とか八百屋のおじさんが元気で、子どもは駄菓子屋にたむろしてて、みたいな。いわゆる「昭和」の風景……ではなくて、
ショッピングモールやスーパーマーケットみたいなシティの文化が、商店街みたいな場所からどんどん人を奪っていた、その後の商店街だと思うんです。
年代で言うと、1980年代から1990年代くらいかな……いや、今もそういう商店街はたくさんありますね。
ここで、最初の話に戻れば、シティ化って、西洋化、とか、近代化とイコールで結びつけることができます(多少、強引ですけど)。
だから、仮に、この『東洋一』というアルバムが歌っている世界が、上記のような「商店街」をイメージさせるようなものであるとするなら、むしろ、『東洋一』が歌う「世界」とは、むしろ「世界」に追いやられた「世界」だと思うんですよね。
……分かりにくい;
なんていうか、「近代的」だったり「シティ的」だったりする(西洋的な)「世界」に追いやられた、あるいは、取り残された、商店街的な「世界」。
それが、『東洋一』が歌う「世界」だと思うんです。
■周縁的な世界の話
だから、私は、『東洋一』って、すごく周縁的なアルバムだと思いました。
中心から外れていたり、追いやられているというイメージです。
まず、「東洋」が「西洋」を中心としてみた世界観からは、はずれにある、周縁的な世界です。
他にも、このアルバムにはタイトルでいうと、『キッズウォー』(子供)とか、『超能力』とか。
歌詞でいうと「ゴミ」とか、「医者にかようやつ」とか。
世界の中心からはずれた存在っていうのが、出てきます。
後、歌詞の言い回しも、すごく核心をはずすようなものが多いんですよ。
言ってみたいだけさ (東洋一)
骨抜きになれた 獅子舞かぶったまま (ハートの南京錠)
すごく、自分が何かを断言すること、自分が何かの「意味」を発信することを避けている感じがします。
自分が中心であることよりも、中心にある何かの周りをふわふわと漂い続けていることを選ぼうとしているような。
だから、このアルバムが「東洋一」という時、そこにあるのは、今、中心的な価値観になっている西洋的なものに打ち勝ってやるぞ、おーーー!みたいな、対抗心じゃなくて、むしろ、そんな世界のことは知らないよ。こっちはこっちで楽しい世界を作ってやってるからさ。と、中心的なものから距離を取って、その周りで違う世界を作ろうとしているんじゃないかと。私は思います。
■「東洋一」→「よかトピア」という流れ
そして、やっぱり、どうしても指摘したいのが、この最初の三曲の並びです。
- 東洋一
- よかトピア
- 来来来世紀
90年代的っていうか、ポストモダン的っていうか、なんていうか……。
この曲の並びだけで、このアルバムの色が勝手に見えてきてしまう気がしてしまうのは、よくないよな、と思いつつも、やっぱり指摘したい。
まず、「東洋一」から「よかトピア」っていう流れ、すごく面白いっていうか示唆的だと思います。
「よかトピア」って、「ユートピア」をもじってるじゃないですか(たぶん)。「ユートピア」って、もう、すごい西洋的な概念ですよ。
下手に言及すると火傷する予感しかしないので、Wikipediaを見て頂きたいのですが、とにかく、「ユートピア」って、西洋が思い描いてきた世界です(東洋でも、ユートピアに近い概念ってたくさんあるとは思いますけど)。
そして、「ユートピア」って、近代的な世界観が、ずっと実現できると思って突っ走ってきたものでもあります。
つまり、このまま近代化が進んで、発展が進めば、いつかの未来では、便利になって、めんどくさいことは機械がやってくれて、人間は自由になって……。みたいな。例えば、1970年の大阪の万国博覧会は、そういう近代の理想郷イメージの象徴みたいなものです。
でも、実際、そうはうまくはいかなくて、近代化しても、なんか大気は汚れてるし、地方は過疎化してるし、郊外型犯罪とか起きるし、経済成長終わったし……みたいな、近代化の矛盾が露骨になってくるのがその後の80年代とか90年代で、その頃には、「あ、未来ってそんなに明るくないじゃん」ってみんな気づきだして、終末論が流行ったりしました。
で、『東洋一』に話を戻すと……
まあ、要は、「ユートピア」って西洋的で近代的なイメージがある言葉だと思うんですよね。
そこに「よかと」っていう九州弁(たぶん)を引っ付るセンスが、すごく『東洋一』っていうアルバムの世界観を表しているなって思うんです。
「ユートピア」が「よかトピア」になるだけで、一気に、ユートピアが身近に落ちてくる。
いつか叶う理想の国ではなくて、今、そこにある幸せな場所。っていう。
すごく身近で、地方的なイメージにぱっと移り替わってしまう。
「東洋一」というタイトルが、商店街みたいな世界こそが世界なのであって、西洋的(中心的な)世界なんてそんなの知らないよ。
みたいなイメージを持っているとしたら、
「よかトピア」というタイトルは、「いつか実現されるユートピアとか知らないよ、俺はココでいいよ」っていう、そういう、商店街的周縁世界の幸福?、とか、そこに漂う快感みたいなものを感じさせるではないかと思います。
……という妄想が、「タイトル」だけでできてしまうのです!!
「東洋一」「よかトピア」っていうタイトルは、この2つの単語を見てるだけですごく面白いと思います。
しかも、「よかトピア」の次に来るのが「来来来世紀」っていう。
このタイトルは、まさしく「来来来世紀」っていう、未来を連想させるものですが、実際に曲を聞いてみると、「来来来世紀にはみんな 死んでますけど」っていうオチがつく。
「来来来世紀」が歌っているのは、もう、ユートピアを実現するような輝かしい未来じゃなくて、みんな死んでるよっていう、まあ、そりゃそうですよねっていう身も蓋もないことです。
でも、これも、「社会の未来!」とか「地球の未来!」じゃなくて、一人の人生を基準にして考えた「来来来世紀」のことを歌ってて、ここら辺も、手に届く世界を基準にしてる、商店街POPらしい感覚だなって思います。
■未来がないようなあるような
「来来来世紀」も、そうですけど、このアルバムには、「未来」がないなと思います。
たとえば、「ハートの南京錠」という曲には、次のような歌詞があります。
あけまして ごめんね
「あけましておめでとうございます」じゃなくて「ごめんね」っていう。
この歌詞にあるのは、新しい世界の幕を開けることじゃなくて、あけない世界にずっととどまっているような。
そういう感覚なんじゃないかなって思いながら、私は聞いています。
この歌詞だけじゃなくて、このアルバムには、全体を通して、そういう、メジャーな時の流れから距離を取って、さびれかけた商店街的な時間感覚の中に留まろうとするような感覚が、漂っていると思います。
このアルバムの曲は全体的にテンポが遅くて、同じ歌詞の繰り返しも多い。
そこに、私は、なんとなく、先に進もうとしない意志、みたいな。そういうものを感じてしまうのです。
先に進もうとしない、というと語弊があるかな……むしろ、メジャーな時の流れには乗らないぜ、そんな時間の流れに支配されないぜって見せつけるような感じ、でしょうか。
このアルバムは、中心的なものから外れて、取り残されてしまった、周縁的な時間や空間を切り取って、そこにある風景をじりじりと歌うアルバムなんじゃないかと。
私は、そんな風に感じました。
これって、私の手に届くところにあるものを切り取って、それをデコレーションすることで現代的な感覚を作り上げ、メジャーシーンに切り込んでいく大森さんの感覚とは、割と対照的なのかな? と思います。
なので、そんな二組が共演してるのって、なんか、すごく面白いなって思う。
なので、次は、いただいたzipファイルのポイドルを聞いてみたい。でも、『洗脳』も聞き込みたいな……。
***
以上、長々とした感想文でした。
私が90年代〜00年代に青春を過ごしたから、特にそう感じてしまうのかもしれませんが、聞いててすごく心地いいなーと思えるアルバムでした。
ぜひ、聞いてみていただきたいと思います。
一番上に貼りましたが、「東洋一」はMVもすごくいいよ。ずっと見てられるよ。